第三章 ひろくて深い、悲しみの水辺
3.SIDE-A_1 坊や
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二〇二〇年代中盤、「インフラ音楽vs個人音楽」という切り口で、音楽産業を語る言説が散見された時期がある。
大手クラウドベンダーがローンチした生成音楽プラットフォームが急成長し、新しい音楽需要を開拓する中、(見かけ上は)個人やグループのクリエイターが主体となる、旧来の音楽スタイルを、それに対置する意図で使われた言葉だ。つまり、供給の質・量的安定化と最適化を旨とする、AIの生成音楽をインフラ的とみなし、人間の創造性に依存する音楽を個人的、つまり自己実現のための音楽とみなして、比較を試みたのだ。
この言説は、どちらの種類の音楽にとっても、追い風にも向かい風にもなりうるもので、議論の盛り上がりに一瞬だけ貢献した。しかし、クラウドゲーミングの親戚のように現れたクラウドミュージッキング、そしてそのいちジャンルである共創が人気になってくると、上述の議論はあまり有効性を持たなくなってくる。共創は、AIに組しながら最適な音楽の供給を目指すという点でインフラ的だが、あくまで演者は個人となることが多く、その実、自己実現的な意味合いも含むからだ。言い換えれば、共創は対立するとされていた二種類の音楽の、共犯的融合なのだ。
では、これにて二項対立は解消され、めでたしめでたしなのだろうか。
もちろんそんなわけはない。
――桐澤由宇理『音楽とは別の仕方で、あるいは音楽することの彼方へ』(二〇二九年)第三章より――
*
前章のあらすじ。
師匠は男装もいける。
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「略しすぎ略しすぎ。誇張しすぎ。あーもう、なんもわかっちゃいない」
ネット記事を読みながら師匠がぼやく。桐澤由宇理の「復活」と、世界各国の感情インフラ企業における同時多発障害について、速報以上のまとまった記事がようやく出回り始めているのだけど、いかんせん精度がよくないらしい。
「坊や、いったい何を教わってきたの?」
たしなめる声色に、どきりとする言葉が乗る。
僕らは旧地下鉄街のレストランで、簡単に夕食を掻っ込んだところだった。鍾さんは「久しぶりだなあ!」と言いながら、ビーフカレーをうまそうに食っていた。日本式のカレーを食べる機会があまりないらしい。僕は夏バテで食欲がなく、サンドイッチだけにした。師匠は何も食べないし飲まなかった。そのくせ僕の食事代は出すという。結局鍾さんが全部引き受けてくれたけど。
伯牙とエリーゼは手持ち無沙汰そうに、BGMに合わせて体を揺らしている。どこか子供らしくて、少し可愛かった。
まだ僕だって、子供らしくしておかないといけない歳なんだけど。
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