1.SIDE-A_9 五線の上で散歩
代理人氏に促され、僕とエリーゼはステージの上に上がらされた。といっても実際には歩いても近づいてもいない。僕の知覚の中心だけが移動したかっこうで、なんだかふわふわしていて座りが悪かった。
「守上君」
代理人氏が、教えてもいない僕の名前を呼び、スナップをひとつ打つ。
何もなかったステージの真ん中に、スタンド付きのマイクが一本、忽然と現れた。
「もう一度、エリーゼと二人で、ここで歌ってくれないか。さっきの曲を」
「いいですけど……思い出せるかな」
「全部は必要ない。テンポを落としたところからで大丈夫」
僕は、客席の側を振り返った。収容人数は三百ほどだろうか。誰もない。それでも、ステージの上というだけで、なんだか緊張してしまう。
すると、舞台の幕が下り、客席が見えなくなった。
「これでいいだろう。
この幕は扉。錠はこのマイク。開く鍵は、君たちの音楽だ。
さあ、息を止めて、願いを込めて、三つ数えて――」
僕らは再び歌い始めた。マイクがあるとはいえ、実質、内幕と分厚い緞帳に向けて歌っている状態なので、なんだか不思議な感じがした。
エリーゼがじっと僕を見ていたので、恥ずかしいけど見返した。瞳の色が青に戻っていた。
さっきよりずっと、エリーゼの声をよく聴けている気がした。幼いけれど、凛として気高い声だ。試作品、なんだよな。未完成なんだよな、この子。どこまで製作が進んでいたか知らないけど、到底僕には完成品としか思えなかった。
僕も、君くらい強くなれるだろうか。
そう思いながら、気がつくと僕は、もとのテーマを変奏しながら歌っていた。エリーゼは表情を変えず、それについてきた。僕は五線の上を散歩するような気分で、なるだけ気ままにフレーズをいじくった。リズムも変わった。たった二人、声だけの音楽。一歩間違えれば大崩壊だ。でも、彼女となら、もっと遠くまで歩けるような気がした。
歩き続けた先で、僕は立ち止まった。海へ向けて歌うと心地よさそうな、長いメロディを一息に奏でた。そして、エリーゼがそれに合わせるのを待った。でも彼女は、リズミカルなアルペジオを、ふぁららん、ふぁららんと歌い始めた。僕なんか無視して、足を海に浸して遊んでいるらしかった。
彼女はどんどん海へ入っていく。僕は追わずに、声を大きくする。僕らの距離は遠ざかっていくが、奏でるのは一つの音楽だ。
エリーゼが笑った。丸い目が細くなった。そして再び見開かれたとき、その瞳はまた深碧だった。
そのときだった。幕が上がった。
いや、厳密には、消えた。
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