2.SIDE-A_8 こどもと、おとな
扉の向こうにあったのは、レトロなデザインのライブハウス。白いクロスが敷かれたテーブルとそれを囲む座席が、五十人程度のキャパのホールにひしめいている。その席のほとんどが客で埋まっている。
まだ宵の口なのに、みんな出来上がりつつあるように見えた。
ホールの一番奥に、小さなステージ。オルガンとドラムセットが置いてあるが、演者は誰もいない。当然だろう。誰も、音を出したくても出せないのだ。少なくともPAセット越しには。でも、この会場の広さなら、生楽器と生声で演奏ができるかもしれない。
今この空間の主役は、部屋いっぱいに満ちる料理と酒の匂いだ。肉と油とニンニクの臭いが鼻を刺す。ときおり焦がした醤油やソースの匂いがそれに混ざる。テーブルの真ん中に花のように置かれたサラダが、彩りを添えている。
うまそう。その感情だけで、ここが僕にとってろくに縁のない場所であることがよくわかった。お腹すいたな。
師匠がバーカウンターまで歩き、バーテンに声をかける。
「モダンタイムスありますか?」
「ありますよ。どれにされますか?」
「ビールを選んでる」
僕がきょとんとしていると、鍾さんが耳打ちしてくれた。
「もちろん、君の分じゃないよ」
「おまかせで」
「……かしこまりました。今日は歌われますか?」
「ええ、あちらの連れが」
そう言って、師匠は僕とエリーゼを指さした。どこかで見た流れだと思った。
「かしこまりました。では、お上がりください」
「だってさ。ほーら上がって上がって」
僕とエリーゼを促しながら、師匠は僕に目配せし、右のこめかみに指をかけた。
目配せにどきどきしている場合じゃない。あれは眼鏡をあげるしぐさ、転じて拡張視界や、その他の拡張知覚モードを起動しろという合図だ。
僕は歩きながらイヤホンを付けた。師匠が隣で、僕に耳打ちする。
「リラックスして。これはちょっとしたテストだから」
またテストですか。模試受けてきたばっかりなのに。
ふてくされる感情に相反して、緊張はおもむろに高まる。
そして師匠は、僕とエリーゼだけをステージに上げ、礼をさせた。上機嫌な客たちがばちばち拍手をする。観衆の数はせいぜい四・五十人。あの小宇宙ステージに比べたら、なんてことはない人数だ。
なのに、なんでこんなに恐ろしく感じるんだ!現実に、同じ空間にいるというだけで。
僕の愛想笑いはひきつっていたに違いない。そしてそれを自分では確認する術がないのが恐ろしい。
隣を見ると、エリーゼは、すました顔で冷然と立っている。
が、その瞳が、ほんの少し揺れた。僕はその視線を追った。
子供がひとり、こちらへ歩いてきている。照明の少し暗くなったホールの奥から。
少しずつその影が、足元から明るくなり、姿を現す。よく光る革靴の上に、灰色のズボン、黒のワイシャツ。その上に乗る、白い肌の少年の顔と、ダークブラウンの髪。流された前髪が少し乱れた、そのすだれの奥に、暗灰色の瞳。
彼が登壇すると、客席から、僕らのときよりもよっぽど大きな拍手が沸き上がった。彼はそれに会釈だけで応え、オルガンの前に座った。
MinTSくんが久しぶりに登場し、彼の紹介をしてくれた。でも、さすがに教わらなくても知っていた。
鍾さんの相棒――
生まれたときから十五歳。今年で生誕十五年。そして死ぬまで十五歳だ。きっと。
そのとき、観衆の視線が、僕やエリーゼ、伯牙の背後に注がれた。
振り返ると、そこには狭いステージを埋め尽くす、一団の楽隊。ブラスセクションにストリングス。打楽器はシンバルだけ。
彼らは何の前触れもなく現れた。そして、彼らからは熱を感じない。目と耳の中だけに現れる、仮想楽団だ。
伯牙が短く、オルガンでキーのコードを奏でる。そして右腕を二回、力強く振った。すると楽団が小気味のいいテンポで、暗くもの悲しい、なのにどこかとぼけたテーマを、イントロに奏でていく。
僕は仰天した。生音以外は演奏できないはずじゃ?
困惑をよそに、演奏は進んでいく。
この曲、どこかで聴いたことがある。僕は思案した。途方に暮れる僕をほったらかして、イントロはもうすぐ終わろうとしている。そして僕の目の前にはいつの間にかマイクがある。
一周回って冷静になった頭で、僕は考えた。
わかることは、二つだけ。
僕は、歌わなければならない。
そして、何を歌ったらいいのか、さっぱりわからない。
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