1.SIDE-Dream

 桐澤君。

 君はもう、僕のことを何も思い出せないかもしれない。でも、僕はすべて覚えているよ。まるでついさっきのことのように、君自身のことすらも、自分のことのように思い出せるよ。


 例えば、僕らが初めて出会った日のこと。

 一九九五年一月二十三日。阪神淡路大震災が起こって、間もないころのことだ。


 いつもより少しだけ暖かい日の、それでも寒い夜だった。鴨川にかかる三条大橋の上――昼間なら坊さんが托鉢している場所で、君は歌っていた。碓井先生が奏でるギターに合わせて、「明日があるさ」を。はちゃめちゃなリズムに合わせて、でも丁寧に、一つ一つの言葉を、丸く芯のある、フルートのような声で。


 伝わりくる甚大な被害情報に、亀岡で大きな余震が起きるとかいった根拠のない風評。街を行き交う人々はみな、どこか神経をとがらせていた。そんな群衆のこわばった肩を、空気を読まずに声でたたき続ける君は、そのころからもうすでに、最強の道化師だった。

 ほとんどみんな、君を無視していたが。


 わざわざ声をかけに行ったのは、僕の父くらいだった。父が碓井先生と話している間、僕は黙っていた。本当は君と話がしたかったのだけど、何を言ったらいいのかさっぱりわからなかった。そんなものおじする子供じゃなかったはずなんだが。


 しょうがないので、じっと睨むように君を見ていた。

 でも、君は気づいてなかった。

 君は僕を見てなんかいなかったから。ずっと鼻歌を歌ってばかりで。


 そのとき、僕は五歳になったばかりで、君はもうすぐ五歳になるところだった。

 そしてその日から、きっと今日にいたるまで、君は僕の兄弟で、相棒で、最も敬愛する存在だった。


 そして、より率直に言ってしまえば――僕には、君しかいなかった。


 *


 通知音が、脳裏にこだました。私はまどろみから目覚め、指で目をこすった。窓の外で轟くプロペラの音が、次第に鮮明さを増していく。眼下に淀川の流れが見える。ヘリはもうすぐ、京都府内上空に入ろうとしていた。


「お目覚めですか」

 操縦士が声をかけてきた。

「もうすぐ社に付きますので」


 その言葉に、曖昧にうなずく。


「お疲れですね」

 労りの言葉に、私は笑みで応えることにしている。

「そうでもないさ。懐かしい夢を見ていたよ」

「それは――」

「いい夢だったよ」

「何よりです」


 そうだ、いい夢だったさ。久しぶりに、弟の夢を見たんだから。

 でもどうして、今――


 その理由は、すぐにわかった。

 社の幹部たちから送られてきた緊急レポートと、共有されたオンライン記事の見出しを見た瞬間に。


 全身の血が逆流した。三十秒で、概要を理解した。


沙原さはらさん?」

「ん?」

「どうかされましたか?」

「あ、いや――」


 私は、曲がりかけた口の端をほどいた。


「稜華芸大――高等部へ向かってくれ」

 喉の奥を広げてから、そう言った。聞き間違えの無いように、響きを込めた声で、丁寧に、ゆっくりと。


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