第36話 ヤクニジューの異変

 細い路地をすり抜けるように駆けていく彼女の魔力を、見失わないように懸命に感じ取る。今にも消えてしまいそうな魔力の糸を手繰り寄せるように、イルルクは走り続けた。


 彼女の姿はもう、見えなくなっていた。

 しかし、イルルクの目の前には彼女の魔力を帯びた家が建っていた。

 周囲の家とは少し趣向の違う一軒家。

 暖かみのある屋根や壁とは裏腹に、用の無い者の侵入を拒む冷たさを感じる。


 たがえる筈もない。

 イルルクは扉に付いた獅子の口にぶら下がる金具を掴もうとし、掛けられた制止の声に動きを止めた。


「私の家に触らないで」


 振り返ると、そこには追い掛けていた女性が立っていた。

 整った顔立ちだったが、眉間に深く皺を刻み忌々しげにイルルクを見つめている。


「これ見よがしに使い魔なんて連れてるんじゃないわよ。頭おかしいの?」

「ご、ごめんなさい」

「それにあんた、奴隷の子の死体を焼いてたでしょう。やめてよね、ああいうの」


 侮蔑の色を痛い程に含む視線に射竦められ、イルルクは息が詰まりそうだった。

 懸命に息をして、彼女の属性を聞く。

 彼女は更に顔をしかめ、何故そんな事を教えなければならないのかと答えた。


 イルルクはヤクニジューにいる自分の雇い主が今どうしているのか、ヤクニジューはどうなっているのか知りたいのだと。風の属性ならば遠見が出来る筈だと彼女に必死に話した。

 思わず縋り付きそうになる腕を押さえ、イルルクは彼女を見た。

 彼女の表情は変わらず、険しいままだった。


 協力などしてくれそうにない。イルルクはそう思ったが、しかし彼女はイルルクへの嫌がらせとして、イルルクの欲しかった情報をもたらしてくれた。

 それはまさしくイルルクの精神に大きなダメージを負わせた。


「……ヤクニジューは、戦争でも始めたのかしら。街中に黒煙が上がって、死体がそこら中に転がってるわ。ああ、あんたはこういうのがお好みなのかしら?」

「え……?」

「……魔術師まで出張でばってるじゃない……いくら魔術都市だからといってやっていい事と悪い事があるわよ……」

「戦争? 死体?」

「もういいでしょ。教えてあげたんだからさっさとどっか行って」


 イルルクを押し除けるように彼女が自分の家に入ってしまってから暫くの間、突然食堂を駆け出していったイルルクを探していたルドリスたちに見付かるまでずっと、イルルクはその場に立ち尽くしていた。


 彼女の言った意味が理解できなかったからだ。

 イルルクはルドリスに聞かれ、彼女から言われたままの言葉を発した。

 それは音を繰り返しただけに過ぎなかった。

 イルルクはその音を、言葉として理解する事を拒んでいるかの様だった。


 それからルドリスは、すぐにヤクニジューへ戻る為の準備を始めた。

 身を隠しながら向かう為の幌付きの馬車、ノーシュが馬を扱えると言ったので、御者を探す手間は省けた。武器も幾つか購入し、馬車に積んでおく。

 イルルクはルドリスたちが支度をしている間、ずっと馬車の中に座り込んでいた。

 キリに言われるまま、幾つかの魔方陣を描いて懐にしまった後は、キリやレギィに何を言われようと黙ったまま膝を抱えて座っていた。両足の前に組まれた手は、きつく握られている。

 イルルクはヤクニジューの最悪の光景を想像してしまうのを止める事が出来なかった。今まで視てきた大勢の人たちの死ぬ瞬間が、幾つも幾つも脳内に再生され、そしてそれらが全てリュエリオールであるかのように思えてならなかった。

 ざわめく魔力を落ち着かせても、イルルクの頭は落ち着いてくれなかった。


 早くヤクニジューへ戻りたい。

 イルルクは、たとえ自分がヤクニジューに戻った事で魔術院に処刑されるのだとしても、実験材料にされるのだとしても、構わないと思った。

 リュエリオールが危険に晒されているというのに、自分だけが逃げ回っている事の方が許せなかった。


 そうしてイルルクたちは、陽が落ちるのを待ってヤクニジューへと出発した。

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