第35話 宿屋の食堂

 宿屋に併設された食堂はそれなりに賑わっていて、イルルクたちが訪れた時には満席だった。大きな荷物を抱えた客もそれなりに見受けられ、イルルクが不思議に思っていると、ノーシュがこの食堂は宿泊客以外にも開放されているのだと教えてくれる。

 それでこの賑わいなのだなとイルルクは納得した。


 食堂の中には様々な匂いが入り混じっていた。

 料理の匂いや香辛料の匂いは勿論、客の体臭、香水の匂い、酒の匂いに買い込んだ商品の匂い。

 こんなに沢山の匂いが一つの場所に集まっているのを感じる事など殆どない事で、イルルクはすんすんと鼻を鳴らしながら、幾つもの匂いに酔いしれるのだった。


 席が空くのを待つ間、ルドリスがイルルクの隣にしゃがみ込み、密やかな声で話し始めた。

 それは、リュエリオールからの連絡が無い事への不信。

 ヤクニジューを出てからそれなりに時間が経過しているにも関わらず、ルドリスの元に何の連絡も無いのはおかしいと。完全に解決したと云う報告は出来ずとも、現状報告はこまめに入れろと部下に指示するリュエリオールである。

 居所が知れる危険性を鑑みたとしても、これほど連絡が無いというのは不自然だとルドリスは言った。

 しかし、だからといってこちらから連絡する事は命令違反になる為に出来ないとルドリスは言った。それを聞いていたレギィが、イルルクの肩に座って脚を揺らしながら言った。


「風の魔術師がいたら、遠見してもらえるんだけどな」


 イルルクが小さく首を傾げたのを見て、レギィは続けた。

 生みの親であるイルルクよりも、何故かレギィの方が様々な知識を有していた。イルルクはその事を少し不思議に思いながらも、レギィの説明に真剣に耳を傾けた。

 風の魔術師の扱える魔術の中には、遠くの場所の出来事を目の前で起きているかのように見る事が出来る物があるのだと。


 風の、魔術。

 イルルクは思わず魔石を握りしめた。

 キリが、キリの魔法が使えたなら。

 しかしキリは魔石のままで、勿論遠見の魔法など使える筈もなかった。


 そんな会話の最中、空いた大きめのテーブルをノーシュが素早く確保した。

 テーブルを囲むように座り、壁に貼られた料理名を眺める。

 イルルクはその中に、キッキの炒め物があるのを見付け、目を輝かせた。

 イルルクがそれを注文するのを聞いていたフェルも、露店街の事を思い出すように目を細めた。

 あの日の食事が、酷く懐かしく感じる。

 あの時は無邪気に、またすぐにでも焼き菓子を食べるつもりでいたのに。


 運ばれてきたのはキッキの肉と刻まれた野菜が赤みを持った調味料と共に炒められた物で、それにお椀一杯の白い米が付いてきた。

 イルルクが野菜を口に頬張ると、少し濃いめの塩辛さが食欲をそそる。

 イルルクは黙ったまま、無心でもぐもぐと料理をたいらげた。


 他の皆がまだご飯を食べている間、イルルクは他のテーブルに並んだ料理を眺めていた。イルルクには馴染みのない料理が数多くあり、そのどれからも美味しそうな香りが漂ってくるのだった。

 そうしてイルルクが食堂内を眺めていると、一人の女性と目が合った。

 女性はイルルクから目を逸らし、そこで驚愕の表情を浮かべた。

 顔色を変えて立ち上がったその女性は、まだ料理が半分ほど残っているのにも関わらず、慌てて食堂から出て行こうとするのだった。


「イルルク、あいつ俺の事見えてたぞ」

「えっ?」


 レギィの事を見る事が出来る。

 それは彼女が、それなりの魔力を有していると云う事に他ならなかった。

 もし彼女が風の魔術師だとしたら。

 イルルクは思わず立ち上がり、フェルたちに事情を話す余裕もなく彼女を追い掛けた。

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