第50話「お前のこと」

 少し時は遡る。


「……う、ん……」

「……ろ。……きろ、おい起きろ女!」

「ぶえっ!」


 耳元で一際大きい声がして、驚きのあまり意識が一気に浮上する。

 そのまま勢いよく上半身を起こすつもりが、私を覗き込んでいた人物とおでこ同士をぶつけてしまった。じわりと目尻に涙が浮かぶ。


「いっ……たい⁉」

「ったく。いつまで寝てんだお前はよぉ〜、死んじまったのかと思ったぜ」


「まあ嘘だけど」と立ち上がった一人の男性。その顔には見覚えがあった。

 じんじん痛むおでこを抑えながら立ち上がると、私は眉をひそめる。


「じ、ジンクさん?」

「よし、ちゃんと覚えてたな。まっ、そりゃそうか! こんな美青年、一回見たら忘れねえもんな」


 自身の顎に手を寄せ、うんうんと頷くジンクさん。辺りを伺えば、それはいつか夢の中で見た花畑だ。私は更に疑問を深める。


「お前アグネに身体乗っ取られたんだろ」

「っ!」


 つい先ほど私に起きた事態を、ジンクさんはあっけらかんと言い当てた。タイミングよく現れた風は、私の周りの花々を強く揺らす。


「なんでそれを」

「あー、ちょっとな」


(直前にアグネが宣言しに来た……っつっても、ピンとこないだろ)


 随分と歯切れの悪い応答に、私は不服の意を込めて頬を膨らませた。

 身体を乗っ取られている。その事実だけでもこんなに不安でいっぱいなのに……!

 途端に顔を青くさせた私に対して哀れに思ったのか、ジンクさんは頭の後ろで腕を組んで口を開いた。


「ま、言うてアグネもまだ本調子じゃねえだろうからな。ただでさえ勇者の加護がこびり付いてんだ、すぐには行動できねーだろうよ」

「すぐには?」

「少なくとも、身体を慣らすにゃ一晩は必要だってこった ……あ。ちなみに俺はだな? お前が中身だけでフラフラしてたから、保護の意を込めて、此処に引きずり込んだだけで、あって……」

「なんでですか?」


 ジンクさんの拗ねたような口ぶりに、純粋な疑問が口を突いて出た。返しが早かった事に対して彼は束の間目を見開くも、すぐに元に戻る。口の端をくいっと上げて、ちょっぴり大人な笑みを見せた。


「ガルシア様の女だからだよ」

「違うんですけど……」

「なら襲ってもいいか?」

「ダメです! なんでそんな両極端なんですかっ、もう!」


 私の返しが不満だったのか、ジンクさんは片眉をひそめた。一歩、また一歩と私との距離を詰めると、徐に手を伸ばす。

 なんだか少し怖くなって、私は反射的に身を引いた。それがもっと彼の機嫌を損ねたらしい。


「なんで避けんだよ」

「だって、何するつもりか分かんないから」

「……」


 構わずジンクさんは私の腕をとって自分側に引いた。そして、よろける私を受け止める。何故か痛みに耐えるように、彼はグッと顔をしかめた。勇者の加護ってやつの影響なのかな……。

 ジンクさんが私の背に手を回すと、硬い胸板に顔が埋まる。花畑と同じ匂いがして一瞬絆されそうになるも、すぐさま我に返った。


「襲わないでくださいってば!」

「襲ってねーよバカ」


 私の耳元に口を寄せ、ジンクさんは低く囁いた。


「これでも俺、お前のこと大事にしてやってるんだぜ?」

「ひぇっ」


 耳がくすぐったい!!

 慌てて力強く彼の胸を押すと、あっさりジンクさんは離れてくれた。両手を上げてスンと目を細め、「俺は無実」と言わんばかりだ。いや実際にそうなんだけど!


「触らないでください」

「インキュバスたるもの接触してなんぼなの、お前それ俺に死ねって言ってるのと同義」


「OK?」と子どもをあやすお兄さん面に、私は両手を握りしめた。

 現状打破を望んだところで、私にはどうすることもできないじゃない……!


「にしてもアグネの奴、やってくれるじゃねえの……せめて手を出してもいい奴を、いや出せねえ奴だからこそ、か……」

「あの、ジンクさんとアグネさんはどういったご関係で?」

「あ? あー……まあいいか」


 ジンクさんは頭を掻くと、その場によっこらせと座り込んだ。あぐらの姿勢で頬杖を付くと、なんてことないように答える。


「ビッチで厄介な妹だよ」

「妹⁉」


 確かによくよく見ると、似てるような、似てないような……アグネさんの顔ちゃんと見てないから分からないけど。

 ジンクさんは複雑な表情をする私を見て、「んじゃ次は俺な」と前のめりになって尋ねてくる。


「アグネとガルシア様はどんな関係だと思う?」

「えっ? そうですね……」


 うーんと考え込んだ私に、ジンクさんは楽しげな笑みを浮かべている。

 アグネさんはガルシアさんのことが大好きみたいだ。積極的な所が双方共通してるみたいだし、結構気が合うのかもしれない。それにどっちも美男美女、おまけにアグネさんはその……発育も申し分無い、無かったはず。あんな可愛い女の子に迫られたら、誰だって嬉しいんじゃないだろうか。

 つまり、真実は一つ。

 答えを待つジンクさんに、私は自信たっぶりに声を発する。


「恋人!」

「残念」

「えっ」

「このバカッ、お前まさか……ガルシア様何やってんだ……」


「まさかまだ手をお出しになられてない? それは見て分かるがそれでも何かしらこう……」などと手の指を動かしながらブツブツ呟き始めた彼の表情はとても硬い。

 恋人じゃないなんて、それは……あんなに可愛かったアグネさんが積極的にならざるを得ないのも頷ける。ガルシアさんは鈍い人なのかも。

 身体は乗っ取られてしまったけど、見つけた恋は応援しなきゃ。それで早く身体は返してもらおう。


『好きだ』


 初めてガルシアさんと会った時のあの言葉。それからずっと私に好意的な彼の行動の数々。たぶん、おそらく、きっと。それは永遠にあるものじゃない。全部、一時的な気の迷いというか。

 だって。


「なんで私のこと好きなのか……よくわからないし」


 今まで異性に好意を向けられた試しが無いから、あまり強くは言えない。それでも、理由の分からない愛っていうのは、いまいちよく理解できない。

 前に一人部屋で考えた結論も、私としては依然として悩ましいままだ。いくら助けたからってそんな、惚れるなんてやっぱり可笑しいんじゃないかなあ。

 思い出しては頬を赤らめるけれど、すぐにまた平静を取り戻した。


「それでジンクさん」

「なんだ?」

「私を元の身体に戻してほしいんです! お願いします!」

「無理」

「ええ⁉」


 自分の三つ編みを弄りながら、ジンクさんはやれやれと息をつく。私は一気に距離を詰めると、動揺のあまり彼に顔を近づけた。


「だってジンクさんもアグネさんと同じ種族でしょう?」

「考えてみろ。男を取っ替え引っ替えして力を大幅に取り戻したアイツに、女を厳選するが故に一向に力が戻らない俺。勝てると思うか?」

「それは……」


 言い淀んだ私に「そらみろ」と鼻を鳴らすジンクさん。


「でも、ガルシア様はお前にご執心だ。アグネはコテンパンにのされる。そうしたら俺もお前を戻すのに一役買える」

「本当ですか! ……あ、でも」


 そうするとアグネさんは失恋ってことになるのかな……。それはなんだか可哀想。

 最悪な出会いをしたサキュバスに対して憐れむ私に、ジンクさんはまた気分を害したようだ。苛ついた声が私の耳を刺す。


「何。お前は戻りてえの戻りたくねえのどっちなの」

「そりゃもちろん戻りたいですよ! でもアグネさんが」

「アイツのこたあどうでもいいんだよッ!」

「妹さんは大切にしてあげた方が」

「うっせ!」


 不機嫌オーラを放つジンクさん。「それになあ」と言葉を繋げる彼の周りの花は、心なしか元気が無くなったように感じる。


「お前が出て行かねえと俺も困る」

「え……」

「女連れ込めねえだろうがよ……それとも、目の前でおっ始まってもイイと?」

「そんなこと言ってません!」

「だよな」


(俺も嫌だし)


 シシッと安心したような笑みを浮かべるジンクさん。彼のギザギザな歯を見て、ああ彼も魔物なんだなと再確認する。


「アグネが消えたら身体が空になる。まず俺が行ってアイツが乱した所を直してやっから、そしたらお前に明け渡す」

「……ジンクさんは優しい魔物なんですね」

「あ?」


 ジトーと半面になり、頬を引きつらせた彼に私は満面の笑みを浮かべる。


「ちょっと怖いところもあるけど……色々ありがとうございます」

「そのちょっと怖いところってのにお前はビビらなさすぎるんだよ。第一これはガルシア様の」

「なんだかんだ言って、私を助けてくれるじゃないですか」

「……多少の精力ほうびは貰うつもりだが?」

「それは、うーん」


(いや黙んのかよ)


「だから、お前はもっと魔物を警」


 ジンクさんが口を開く。何か言いかけたところで、一際大きな風が吹いた。つい目を閉じてしまったが、その刹那ジンクさんの声が途切れる。


(……あれ?)


 次に目を開けた時、彼は花畑から消え去っていた。

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