第29話「グッドボーイ」

「……お、来た来た」


 灰色だった世界が、色とりどりの花畑に変わっていく。一部の地面が温かい光に包まれると、一人の少女が現れた。彼女は小さな寝息を立てており、自分から起きそうにない。


(起こしてみっかな)


 それ・・は少女の近くへ歩を進める。しゃがみ込んで彼女の肩へと手を伸ばすが、寸前でぴたりと動きを止めた。


(あの人の魔法陣があるんだった)


 これは迂闊に触ったら今度こそ死ぬルート確定だ。しかし、揺り動かさなければ少女は起きないだろう。どうする。

 しばらく辺りをきょろきょろと見回して悩んでいたが、ふと名案を思いついたようで顔を明るくさせた。近くの花を一本毟ると、根本の方を持つ。ぺちぺちと顔を叩きながら呼びかけた。


「おーい、起きろー。女ー」

「うっ、がぅっ……しゃんん……」

「勘違いしてやがるし」


 呻きながら、あの人の名前をこぼしている。全然嬉しくないというかあの人に失礼だ。ぺちぺちし始め早数分。やっと少女が眼を開いた。


「っえ?」

「ぐっすりだったなあオイ、女」

「えっ、えっ!?」


 がばっと起き上がったシルヴィはしきりに辺りを見廻した。見知らぬ花畑に、自分を見つめる見知らぬ男の人。さっきまで寝ていたはずなのに、と思い、シルヴィはハッと誤認する。


「これ夢か!」

「惜しいな」

「うっ」


 ぱちんとシルヴィにデコピンを喰らわす男。彼の言っていることの意味がわからず、シルヴィは額を抑えてぽかんとする。

 年齢は少し上、身長は同じくらい。赤紫の髪は後ろで三つ編みに結われ、細眉の下にある切れ長の瞳は銀色だ。所々切れているボロボロの黒タンクトップからは、ガルシアよりも少しだけ褐色な肌が見える。ぶかぶかのズボンは作業着にも見えるが、それにしてもずいぶんと古そうな出で立ちだ。


「細かい夢だ……」

「夢じゃねっつの」

「うっ!」


(二回目! 痛い!)


「これはどういう、あの、どちら様で?」

「やっとかよ」


 ふん、とやたら不満げに鼻を鳴らした男に、シルヴィは疑問を募らせるばかりだ。彼女が夢だと言った時、彼は惜しいと言った。だから間違いではないはず。

 若干前のめりになって、シルヴィは男の返答を待つ。


「俺の名はジンク。夢魔インキュバスって奴だ」

「インキュバスってなんですか」

「はっ? なんだお前、知らねーのかよ」


 ジンクと名乗った夢魔は拗ねたように口を尖らせたが、ふと何かを思い出したかのように顔つきを改めた。眉を寄せ、口元に手を当てて何やら考え始める。


(表情豊かだなあ)


「さっき俺、お前にデコピンしたよな? な?」

「え、あ、はい」

「ってことは触れる……? なんで魔法陣が消えてんだ……?」

「ま、魔法陣て」


(あの人の魔法陣を打ち消す力……でも、まだあの女には微かな魔力が残っていた。さっき俺が近づいた時に感じたし、今だって)


 あの人の魔力は凄い。そう根強く思っているジンクは、もう一度シルヴィの体全体を見回してみる。魔法陣こそ発現できないようだが、それでも気配は感じているのだ。

 一方でジンクが不審がっていると勘違いしたシルヴィは、まだ夢の中だと思いつつ姿勢を正した。


「あっ、えっと! 私はシルヴィと言います、よろしくお願いします」

「おー。なあ、聞いてもいいか」

「なんですか?」


 自己紹介を軽く流され、シルヴィは戸惑いつつも丁寧に応じる。ジンクはしばらく言い淀んでいたようだが、「うん」とだけ発すると一気に問い詰めた。少女の両肩を掴み、しきりに揺さぶる。


「お前、勇者の血族と寝たの?」

「はい!?」


 シルヴィが声を裏返らせると、ジンクは心底悔しそうに顔を歪める。ギザギザの歯がちらついて、少女は小さく息を呑んだ。


「あの人の魔法を破れたのはあいつ等だけなんだ。それにしては破魔の力が弱っちいんだけどよ」

「よっ、よくわかりませんけど! 王様とは未遂で終わったので! 一緒になんてそんなっ、ね、ね、寝てません! 危なかったですけど!」


 顔を赤らめて必死に訴えるシルヴィに、ジンクはまた口を閉じる。じっと彼女を見つめてから、唇にニィっと嫌な笑みを浮かべた。


「そーかよ」


(なんなんだろう、この夢)


 ただでさえ疲れているのに、夢の中でまでこんな羽目になるとは。とてつもない疲労感を覚えて、シルヴィは泣きたくなってきた。

 そんなこともお構いなしに、ジンクは自分勝手に話を進める。


「ひひっ。そうだ、教えてやんよ」

「え?」

「インキュバス、ってのはな」


 ジンクはシルヴィの肩に顔を寄せると、首筋に舌を這わせる。唐突な行動に、彼女の頭は真っ白になった。湿った熱の辿った部分から力が抜けていき、初めての感覚に思わず全身の鳥肌が立つ。


(ななななにこれっ)


 ジンクは散々首筋で遊んだ後、おまけだと言わんばかりにリップ音を響かせた。赤くなったシルヴィの首筋を見ると、満足げに唇を離す。


「……ほらよ。インキュバスってのは、お前を気持ちよくするお利口さんグッドボーイなんだぜ」


(ついでに俺も魔力ゲット)


「私は今えっちな夢を見てる……」

「だーっ、まだ言ってんのかてめぇはよ。これでえっちとか言ってたら埒が明かねえぜ、ったく」


(あの人のお気に入りらしいからわざわざ手ぇ抜いてやってんのに)


 ジンクはそっと自らの手の平を見る。シルヴィの精力を魔力に変換して、少しは回復できたようだ。だが、まだここから出るには物足りない。


「シルヴィだっけ、お前」

「そうですけど」

「よし! お前、また来いよ。つか俺が引きずり込むから」


 はい? と首を傾げるシルヴィそっちのけで笑ったジンク。どうやら彼女を気に入り始めたらしいが、本人が自覚しているかどうかは別だ。


「いーか。俺は寝ている奴の精神をだな、俺が作ったこの空間に引きずり込めるんだ! だから、お前の肉体は今頃ぐっすりだろうよ」

「なんか魔物みたいですね」

「おう! 魔物だからな」

「え」


 嫌な予感に悪寒を走らせたシルヴィ。彼女が言葉を詰まらせると、ジンクは心底楽しそうに声を弾ませた。


「あの人のことも聞きたいしな! あと魔力も貰いてえ! ってことで決まりな!」

「ちょっと待ってください! これ夢ですよね? 夢なんですよね??」


 ねえ!!! と叫ぶシルヴィの姿が、淡い光に包まれる。ジンクは花畑にあぐらをかくと、ギザギザの歯を見せてニヤついた。


「どうだか」


 シルヴィの姿は霧散した。

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