第7話 生かすための選択

「美味しいですね。お祖父さんはとても料理が上手ですから、きっとどこへ行っても技術を振るって生きていけますね」

 皆がミートパイを食べ終えたころ、クラリスが言った。

 彼女の言うように、兄妹の祖父のダドリーは料理の腕が確かだ。もっと大きな町で店を出してみないか、うちの店の料理長をやってみないか、などと誘われたことすら何度かあるくらいだ。実際、若いころはもっと都会で大きな店を経営していたらしい。

「ヒューたちが買ってくれた包丁が使いやすい、これさえあればどこでも料理ができる、と喜んでらっしゃいましたよ」

「そうなんだ。それは良かった」

 重くなりかけていたヒューの心が少し軽くなる。やはり、今いる家族を喪わなかったことは幸運だ。

 いや、幸運、とは実際は呼べない。彼は思いなおす。

 家族を救うための無謀な行動。それ自体を後悔はしていないが、その行動のためにソルは命を落としかけたのではないか。そして皮肉にも、それがなければ帝国の者たちが撤退する前にとどめを刺されていたかもしれないし、自分も殺されていたかもしれない。

 上級魔族は食欲がないと言ってミートパイの半分を残したが、ソロモンに渡された薬は素直に飲んだ。

「町の住人たちはどうするんだ? ずっとここにはいられないだろう」

 彼は薬の苦みを消すようにハーブティーをすすって息を吐くと、先ほどまで人々とともにいた眼鏡の少女に問う。

「とりあえず、北東の町シルベーニュへ避難しようというのが有力ですね。ただ、そこも襲われたら? とも。そんなに離れていませんし」

 北東の小さな岡にあるシルベーニュは、歩いて一日程度の距離だ。地形としては襲撃に対応しやすい町ではあるが、帝国がそれなりの戦力を投入してくれば結局は逃げるしかなく、どこまでも逃げ続けなければならないという問題はつきまとう。

「だから、いっそ惑いの森へ逃げ込んだ方がいいという意見もありますよ」

「惑いの森?」

 光の聖霊が聞き咎める。

 彼女とソルにとっては初めて耳にする地名だろうが、この付近に住む者ならその名と簡単な実態くらいは知っている。

 ヒューが思い出しながら説明する。シルベーニュの北にある惑いの森には精霊や古代の種族らが暮らしており、森に危害を加えようという者や悪しき心を持つ者は惑わされて弾き出されてしまうという。

 野盗に追われた少女が森にかくまってもらった、という話もあった。その少女に伝えられた話によると、森には主がいて、主に気に入られれば色々な珍しい物が贈られる。

 実際に少女は枯れることなく果実を実らせる鉢植えの木や水の湧き続ける壺を手に入れた。同じように贈り物狙いの人間が何人も森へ向かったが、物欲にまみれた心の者たちは全員惑わされ、中に入れずに終わったという。

「それは中に入れるのなら心強いでしょうけど、町の人々がみんな入れるのかしら」

「悪しき心が許されないなら、わたしも入れない可能性があるぞ」

 と、説明を受けた異世界出身の二人はそれぞれに感想を口にする。

「森の主に誰かが頼むことができれば……というかたもいますが、とりあえずのところはシルベーニュへ、と、まとまりそうな情勢みたいでしたね」

 それが順当なところだろうと、この辺りの地理を知る者ならば思う。ぺルメールには避難できない。帝国の侵略から遠ざかることを考えれば、選択肢は多くない。

「では、わたくしは戻りますね。朝食の準備もありますし」

 ではお休み、と挨拶を交わして出ていくクラリスの背中を見送り、この食糧難の町で朝食まで口にできるのは贅沢なのでは、とヒューは少し気が引ける。

 しかし思い返すと、クラリスはここまでの道中も休憩になるたびに食用にできる野草や木の実を採っていたし、それを手伝う者たちもいた。彼女はこの町の人々よりも植物に詳しく、得た食材は祖父の手にかかればどんなものも美味しく料理できてしまう。

「クラリスは、医師の助手より料理や植物採集の方が楽しいんでしょうね」

 助手を見送ったソロモンの声は、少し寂しげだった。


「バラキア卿」

 宮廷の書斎で調べ物をしていた白髪の初老の男に、銀色の鎧を着込んだままの青年が声をかける。さすがに兜は脱いで脇に抱えており、きらびやかなほどの金髪がさらされていた。

「ジェラルドどの。どうしたのです、そんな格好のまま」

「卿こそ、戻ってすぐにここへいらしたと聞きました」

 彼らがいる書斎は一般の貴族も入ることのできる図書館とは違い、限られた者だけが入ることを許される限定領域だ。窓も少なく、図書館に比べ格段に暗い。

 ジェラルドの碧眼が老将校の手にある本の表題を捉える。〈召喚魔法の種類〉と金色の文字が刻まれていた。

「少し気になることがあってな」

 老将校の目が、めくるページの見出しを追う。

「かつて、北の果てを訪れた強力な召喚士が何人かいた。その多くの召喚士はとある召喚魔法を使っていたという。精霊や魔法生物を呼び出すのではなく、強力な力を持つ異界の住人をこの世界へと呼び出す方法……」

「召喚魔法は見たことはありますが、確か、強力な魔法は二つの属性を召喚しなければならないのですよね」

 それは、神が人間に召喚魔法という過ぎた力を使わせる上で定めた法則のひとつだ。この世界の力の均衡を崩さないためとされていた。

「ええ、近くに相反する力の者が召喚されていれば……たとえば、炎の聖霊が敵の召喚士に呼び出されたなら、こちらは簡単に水の聖霊を呼び出せる、というくらいの作用だ。あまり世界の均衡に影響しないからな」

 しかし、強力な召喚魔法となるとそうもいかない。同時に二対の属性の存在を召喚する必要があり、そのためには膨大な魔力が必要だ。そのような強大な魔力を持つ召喚士がいれば、すでに人々の噂にもなっているはずだ。

「しかし、ハッシュカルに強力な召喚士がいるという話など聞いたことはなかった。少なくとも現在生きている召喚士では。なのに、あの者たちは一体何者で、誰が召喚士だったのか。不思議なものだ」

 言って、彼は眉をひそめる。

「不思議と言えば、あの町を焼き尽くせと命じられたのも不思議だが。取り立てる部分もない町だが、降伏させるのはたやすかったろう」

 それを聞き、若者は少し間をおいて口を開く。

「では町を焼き尽くし、その人物も殺したのですか」

「いや。生かすつもりはなかったが、時間切れだったのだ」

「バラキア卿……甘いかもしれないがオレは反対です。ここまで犠牲を出し過ぎるのは、後々この国のためにもならないと思います」

 思い切ったようなことばだった。実際、はるかに年齢も地位も上である相手に口にするのは勇気のいることばに違いない。

 バラキア卿は静かにそれを受け止める。

「ジェラルドどの。あなたは若いので実感はないかもしれないが……物事には優先順位というものがある。特に、わたしのような偏屈な年寄りには、最優先のひとつしか残らないこともあるな」 

 最も優先すべきもの。彼にとってのそれは、おそらく皇帝の命令だろう。

 そして、彼は周囲を気にする。書斎にいるのは彼ら二人だけだが、それでも見回した後、さらに声をひそめた。

「それに……すべてはあのかたたちの意向だ。なにしろ相手は神だからな。機嫌を損ねれば、こちらが滅ぼされかねない」

 一般の人々も、国外の者も全く知り得ない、限られた者たちだけが耳にしている情報だ。

 それはジェラルドも記憶していた。

「それはそうですが……」

 未来の帝国や、ほかの国の人々の命よりも今の帝国の安全を選ぶ。

 帝国に仕える者としては理解はできる考え方だ。それでも、若者は罪なき人々が命を落としていくことを思うと手放しで賛同はできないでいた。

「しかしオレは、もっと良い方法があるのではないかと……もしかしたらそう思いたいだけかも知れませんが」

「考えるのはいいことだ。キミのような若者には、考える時間もたっぷりあるからな」

「ええ……必ず、より良い方法を考えてみせます」

 バラキア卿のことばで一度は自信を失いかけたが、同じ人物のことばで再び、青年は励まされたように強い意志を込めた。

 去っていく背中を見送り、バラキア卿は独り言を口にする。

「いいな、若いってのは。いつから、わたしは傷つくことをやめたのか」

 その顔は一気に老けたように色を失う。

「進歩をやめたのは、この国も同じかもしれないが」


 ヒューたちが窓からの朝日で目を覚まして間もなく、クラリスが朝食を並べた盆を持って教会を訪れた。

 深めの木製の皿にそそがれた朝食は、野菜と木の実の団子のスープだ。木の実の一種を擂り潰して固めた団子は餅のような食べ応えで、なかなか腹に溜まりそうである。

「皆さん、すでに避難の準備を始められているようです。手の空いた人でそのお手伝いをしているところです」

「クラリスは働き者ね。ちょっと運動したら、あたしも手伝って来ようかしら。ただ飯食らいは気が引けるものね」

「準備も必要だろうが……」

 やはり少なめの具をスプーンで混ぜながら、ソルが口を開く。

「この先のことを考えると、惑いの森とやらの情報を集めた方がいいんじゃないか。その気があれば連中、一週間もすればこの辺りを落とせるくらいの兵力はあるんだろう」

 彼は誰よりも現実的で建設的らしかった。

「それはまあ。帝国には到底太刀打ちできないほどの兵力があると言いますし、それが大勢送られてくれば……」

 帝国直轄領は遠く離れており、本拠地の帝都ジャストリオンまでは馬車を使っても一週間以上はかかる。兵を動かすにも輸送力や食糧、武器防具など必要になる物も多く、実際には動かせる人数分だけ動かせるわけではない。

 それでも、侵略した町に少しずつ足場が作られ、それはこちらへと次々と近づきつつある。

「町民の方にはシルベーニュに親戚がいたり、何度もシルベーニュとこの町を行き来している方もいらっしゃいますから、なにか情報が得られるかもしれませんね」

 クラリスは食器を片付け、再び教会を出ていく。

 少しずつ、太陽も昇りつつあった。今日はなにをしようか、とヒューは考える。人々の準備を手伝うか、惑いの森について調べるか――どちらが皆のためになるか。

「軽く運動がてら、掃除でもしてくるわ」

 オーロラは教会の奥への扉に消え、レジーナもそれを手伝うことにしたようだ。

 ヒューは屋内より、明るい外に心を惹かれた。

「ちょっと周りを散歩して来よう。ララも来るかい?」

「うん、行く!」

 妹が駆け寄ってきて、兄の手を握る。それをほほ笑ましく見下ろしてから、ヒューは一度振り返った。ソルはおもしろくもなさそうに本をめくり、ソロモンは鞄の中を整理しているところだ。

 教会の錆びついた重い扉を開くと、暗いところにいたせいか、しばらくの間目がくらんで立ちすくむ。

 それがおさまって見えた光景に、ヒューは少し驚いた。彼が見知ったエルレンの町は民家がどれも扉を閉めきっていて、人の姿などほとんど外には見当たらない街並みだ。

 それが、今はどこにこれだけの人間がいたのかというくらいの人数が外に出ていて、それぞれに忙しなく動いている。

 それも、人々がなにをしているかを見れば納得だ。皆一様に、町から脱出するための準備をしているのだ。いつここも襲撃されるかわからない。まるで追い立てられるように急いで作業を進めている。

「こりゃ、のんびり散歩なんてしていたら白い目で見られるかもな」

 ヒューが軽く屈伸運動を始めると、となりで見ていたララも兄を真似し始めた。


 ゴミでしかないなにかの切れ端や崩れた壁の一部などは一ヶ所に集められ、ひっくり返ったり適当な位置に散在していた長椅子は、一度よけられて床を掃除した後、並べ直された。

 窓にかかっていた蜘蛛の巣が取られ、あまりきれいではないが見つけた布で拭くと、外からの日光が強くなり室内もかなり明るくなったように見えた。

「あたしたち神の使徒にとっては、掃除も修行のひとつなの。でも、この世界に来てからできてなかったからね。たまには聖霊らしいことをしないと」

「やっぱり異世界の神でも汚れているのは気になるものなの?」

 と、少女は女神の像を見上げた。

「そりゃね。実際のところ、名前もなにも知らないけどねえ。後でソルに神々の本を借りて読んでおこうかしら」

 異界の者はともかく、この世界の者たちは主要な神々くらいは知っていた。

「たぶん、この女神はエストレーサじゃないかしら。小さな町にもある教会で祀られている神さまは限られてるし」

 この世界の主神は大地の神グラフィスで、その妻である女神エストレーサは水と慈愛を司るとされている。炎と戦いの神レヴィロン、風と知の神シレーネ、夜と死の神サリュプトなどが一般人にもよく知られている。

「へえ……覚えきれないわね。ま、この女神の名前くらいは覚えておくわ」

 祈りを捧げる女神の像は、朝日の中では希望を見出したような姿に見えた。

 そこから視線を逸らすと、聖霊はなにかに気がついた様子で少女の頭上に手を伸ばす。

「しおれちゃったわね。まあ、また作ればいいわ」

 引き戻したその手には、少ししなびた花々が摘まれていた。

 それを見て、レジーナはやっと髪飾り代わりの花々が頭に留められていたことを思い出す。これまでの怒涛の展開で着けていることすらすっかり忘れ去っていた。

「ルナにもよくやったものね。もう二度とないでしょうけど」

「なんで、その子のことに関してはそんなに弱気なの?」

 今までも、まるで最初から探すのをあきらめているような様子だ。

 レジーナには、それはオーロラらしくないように思えた。

「それは、どうやってもね……」

 光の聖霊は少し考えこむように顎に手を当て、

「聞いたでしょう。召喚された者が元の世界に戻ると、召喚された一瞬後に帰されるのよね」

 と、そう続ける。

 それが一体、なんの関係が――とレジーナが思った直後、聖霊は口に出す。

「だから仕方ないの。探し出したところで連れては帰れない。もし連れて帰ったら、きっと彼女、死ぬわ」

「それはどういう……」

 衝撃的なことばに、思わず少女はそう尋ねる。

 聖霊は語り始める。あるとき、オーロラはとある野山を歩いていた。そこには小さいが、有力な神を祀る社がある。最近訪れる者がいなかったことに気がつき、様子を見るつもりだったのだ。

 しかし獣道を目的地まで近づくにつれ、様子がおかしいことがわかる。少しずつ大きくなってくるパチパチとなにかが弾ける音に、焼け焦げるような匂い。それは社に近づくにつれ強くなる。

 社が視界に入ると、その周囲に炎が広がり、社の壁にも燃え移りつつある。

 さらに、社の前に靴が並んでいるのが見えた。誰かがなかにいるらしい。

 まだ道は炎にまかれていない。行ける――そう判断した聖霊は獣道を駆け抜けて社に突入する。

「……大丈夫!?」

 すぐにその人物は見つかった。折れた木材に足を挟まれ、泣きそうになりながら煙に咳き込んでいるのは見知った顔だ。オーロラが可愛がっている後輩の一人の少女だった。

 見上げた少女の救いを得た表情は、今もオーロラの目に焼き付いている。

「もう大丈夫よ。ほら、急ぎましょう」

 足を拘束していた木材をどかし、少女の腕をとって肩に回す。

 このとき、正直、オーロラは甘く見ていたという。きっと来たときと同じように、あまり草の生えていない道には火が回って来ないだろうと。

 しかし、火の回りの速さは予想を上回っていた。屋根も炎上し、支柱の強度を失った木材が出入口を塞ぐように落下してくる。それを二人は危ういところで避けた。

 壁も崩れ始め、視界が開ける。辺り一面が火の海と化していた。道ももはや道ではない。二人は完全に炎に囲まれた格好になっていた。

「無傷では出られないかもね」

 唯一の逃げ道と見える空へ目を向けるが、飛ぶための術を使うには条件がある。彼女は別の方法を使おうとしていた。

 そのとき、その脳裏になにかが流れ込んでくる。それは異世界の光景と、召喚における予備知識のようなもの。

「で、召喚されるんだ、と思った直後に気がついたら召喚されていたのよね」

「へえ……召喚ってそんな風にされるんだ」

 感心しながらも、レジーナは思う。

 このまま元の世界に戻ると、オーロラは炎の中に立たされることになる。身の安全を考えれば、彼女は帰らない方がいいのかもしれない。

 ――でも、そうすると後輩の少女は……。

「一人だけなら抱えて脱出できるかもしれないけれど、さすがに二人はね。ルナはあたしとは真逆で、治癒の術や守りの術だけは得意でほかは苦手、っていう子だったし。一緒に帰れなくても、生きているならそれでいいんじゃないかしら」

「でも、ルナさんはずっと帰れないことになるんじゃ……」

「この世界にあの子がいて、会うことができたらね。それはそうなったときにまた考え……そうだ!」

 ポン、と聖霊は手を打った。

「召喚って、持ち物も一緒に移動できるじゃない? それは帰るときも一緒だと思うの。だから、この世界で火消しに有効ななにかを見つけて持って帰れればいいんじゃないかしら」

 火事に有効な道具と、ルナを見つけて元の世界に戻る。

 実際に行うのはかなりの難題だ。そもそもどちらもこの世界に存在するとは限らない。それでも存在する可能性があるからにはあきらめるより最善に思えた。

「じゃあ、ルナさんと同時進行で火消しの道具も探しましょう」

 目的が増えることはいいことだ――と少女は思う。なんのために生き残ったのか、なぜ今生きているのか、その答が増える。

 独り立ちして何年も経つので付き合いは薄くなっていたが、彼女が育った孤児院もおそらく焼け落ちていた。顔見知りの先生たちの姿も生き残りの中にいない。

「そうね。これ以上ここは掃除のしようもないし、戻りましょっか」

 言って、オーロラは花を手にしたままであることに気がつく。

「まだ捨てるにはもったいなさそうな……」

 彼女はそれを神像の足もとに供えておこうと置き、その際に祭壇に触れた手に硬いものが当たる。

「なにこれ?」

 摘まみ上げてみると、それは硬貨だった。石を削って彫り込んだもので、片面は波状に線が等間隔に刻まれているだけだが、その裏には竜と、翼と蛇の尾を持つ獅子が睨み合っている画が彫り込まれていた。

「見たことない硬貨……ほかの大陸のものかもしれないけれど、古そうだから古代の遺品かもしれないわね」

「あら、そう? もしかして凄く高く売れたりする?」

「それが珍しいものなら収集家に高く売れるかもしれないけど、専門家に鑑定してもらわないと……贋物とか、誰かが試しに作ったのかもしれないし」

 少しがっかりしながらも、オーロラは大事そうに硬貨を懐に入れる。

「この状況だもの、もらってもかまわないわよね? これはきっと、神さまからの掃除のお駄賃よ」

「ここにあってもなにかの役に立つわけじゃないし、いいんじゃないかしら」

 意外に神さまを便利に使う聖霊に、思わずレジーナは苦笑した。


「ありがとう、坊やたち」

 そう礼を言われたのは何度目か。

 手伝ったのはわずかな間だが、人々は皆、心から感謝してくれた。

 ヒューは自分が誰かの役に立てていることに嬉しくなるが、いくら心は軽くなっても身体には限界がある。五軒も手伝うと続いた力仕事のために、膝や腕、肩などがだいぶ痛くなった。

 町全体では、身体を動かしていた方が気がまぎれるのだろう。ハッシュカルの人々や、すでに準備を終えた者たちもまだ準備中の家を手伝っていた。

「ララ、一旦戻ろう。休憩しよう。このままじゃ体力がもたないよ」

「ララはまだまだ元気なのに、仕方ないなあ」

 当然、少女はヒューほどの力仕事はしていないが、それでも細かい物を何度も持ち運んでいた割には、その足取りはしっかりしている。

「ララはどうしてそんな元気なんだい?」

 兄に尋ねられると、少女は得意げに胸を張った。

「ララはね、お父さんみたいにあちこち行って探険する仕事がしたいの。だから毎日お兄ちゃんがいない間に、町の周りを歩いて鍛えてたんだよ」

「なるほど、知らなかった……」

 妹は自分よりずっとしっかりしていて、将来を見据えているかも知れない。

 嬉しいような情けないような複雑な心境で、妹を追いかけるような形で足を教会へ向ける。すると、丁度、黒縁眼鏡の少女が同じ方向へ歩いているところに行き着いた。

「あ、クラリスさんも教会へ?」

 クラリスに手には、ティーポットとカップを載せた盆が抱えられていた。

「ええ、惑いの森についてお話しするついでに、お茶にしようかと。お二人は住人のかたのお手伝いですか?」

「うん、丁度良かった。休憩にしようと思っていて」

 行き違いになっていたら面倒だったに違いない。レジーナやオーロラが外出していないことを祈りつつ、三人は崩れかけの尖塔のある教会に戻る。

 どうやら、心配は杞憂に終わったようだ。

「惑いの森についてなにかわかったのか?」

 ソルは治癒の術を受けながら、視線を眼鏡の少女に向ける。

 レジーナとオーロラも読んでいた本、〈古代神と精霊〉から顔を上げる。しかしクラリスは焦らず、ハーブティーをそそいでカップを配り終えてから話し始めた。

「聞いた話では、森の主は酒が大好きで、たまにシルベーニュにも姿を変えて物々交換に来るという噂があるようですね。惑いの森にしか生えていない花や薬草と交換していくとか」

「へえ」

 オーロラが声を上げる。

「酒好きとは気が合いそうね。酒場で買っていけばいいんじゃない?」

「森の主は長命でしょうし、かなり舌は肥えていそうですね」

 ソロモンのことばに、美女は少しムッとしたような顔をする。長命でも舌が肥えていないと言われたように感じたのだろう。

「酒なんて楽しく飲めりゃいいのよ……でも、森の中でも酒くらい造っていそうよね。酒好きな人外って多いはずだし。色々な味を楽しみたいとか?」

「さすがに、好みのお酒まではわかりませんでした」

 クラリスは真面目にそう続ける。

「それと、別のかたのお話では、何度か森を召喚士らしき姿が訪れるのを見たかたもいるそうで」

「召喚士?」

 ソルが聞き咎める。

「はい。森にいる精霊が目当てなんじゃないか、という話でしたが」

 それを聞くと、上級魔族はハーブティーの残りを飲み干して立ち上がる。

「惑いの森へ行こう。そこに行けば召喚士に会えなくても、この世界の召喚魔法についてなにかわかるかもしれない」

「それはそうだけど、ちょっと待ちなさいよ」

 歩き出す背中に、オーロラが慌てて声をかける。それにヒューたちも。

「ソルさま、あまり無理は……」

「避難についてだって、誰かが先に行って話をつけた方が早いだろう。わたしは入れないかもしれないが。先に行くぞ」

 言い残して、黒衣の姿は扉の向こうに姿を消す。

「ソロモンさん、ソルさまは大丈夫なんですか?」

 少年のことばに、医師は眉をひそめ首を振る。

「歩くのも辛いはずですが……。ソルさんは捕まえてください。行くにしても、馬車を借りなければ大変な距離ですからね」

「お弁当も必要になるでしょうね」

 付け加えるクラリスは、少し嬉しそうに見えた。

「まったく……」

 オーロラとレジーナも顔を見合わせ、慌てて追いかける少年のさらに後を追った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る