第19話 小さな小さな手がかり

 少年がかざした両手の間に、親指の先ほどの大きさの火球がボッと小さく音を立てて出現した。集中する少年の目の前で、火球は少しずつ上昇し頭上まで浮き上がる。そしてそのまま、彼の目線の先へ自在に飛び回った。

「まあ、最初にしてはこんなものかしら」

 腰に手を当てて見守っていた聖霊は、満足げにうなずく。

 海賊のアジトを出てノヴルに戻り、そこからまたメニの村を通過して惑いの森へ戻ってきたのが昨日のことだ。まだ少し疲れは残っているものの、魔力石だとバサールが判断した玉石を手にすると、ヒューは早速それを使ってみたくなったようだ。

 火球を消すと核になっていた木片が炭となって落ちる。彼の顔に笑みが浮かぶ。

「まだまだこれからですけど、これなら魔法を使っている実感は持てそうです」

 満足げな彼の目に、妹が楽し気に小妖精を追いかけている姿が映る。ララは、木の葉でできた蝶を操り、小妖精のそばに飛ばしている。

 オーロラも木々の向こうの追いかけっこに気がつく。

「まあ、あの子は筋がいいみたいだし、魔力量も高いみたいだから……」

「あはは……すぐ追いつきますよ」

 最初にバサールに借りた小さな物とは違い、遺跡で発見した魔力石はすぐに魔力を失ったりはしない。数日間は補充なしで使えるだろう。

「じゃあ、しばらくは術を使う感覚に慣れる訓練ね。あたしはちょっと、出かけてくるわね」

 オーロラはそう言って場を離れる。

 向かう先はシルベーニュの町だ。惑いの森で昼夜を過ごす合間は、彼女は何度も街へと足を運んでいた。

 気をつけて、の声を背中に受けて木々の間を抜ける道に入ると、聖霊の目に見慣れた姿が映る。摘んだばかりの薬草を束ねている、黒縁眼鏡の少女。

「あ、オーロラさんもお出かけでしたか」

「ええ。あなたも街に用事があるの?」

「はい、薬草を街に届けて、こちらの必要な物と交換してくるんです」

 と、クラリスは手に持つ薬草の束を振って見せる。

「丁度いいところですし、一緒に行って昼食に変わったものを食べませんか?」

「奢ってくれるなら歓迎よ。たまには森にない味を口にしたいし」

 二人は並んで歩き始めた。道は草木の間を抜けながら外へと続いており、ここを出入りする姿と出くわすことは珍しい。

 しかし出入口の枝の門が見えてきたとき、あまり人の寄りつかないはずのその付近に、覚えのある気配を感じる。草の合間、木の根もとに見えるのは黒い服の裾だ。

「あんなとこに……」

 道を外れ、二人はそこに歩み寄って横たわるものを確認する。太い根を枕代わりにして眠っていたのは、予想通りの魔族の姿。

「今日見ないと思ったら……わざわざこんなところじゃなくて、部屋のベッドで寝ればいいでしょうに」

 ヒューたち兄妹は祖父の店兼自宅に寝泊まりしているが、ほかの同行者たちは皆、神殿の地下の部屋を自室として使っていた。

「お疲れなのでは。ソロモン先生が、腕力が身体相応なら体力も身体相応なんじゃないでしょうか、とおっしゃっていましたが」

「なら、余計ベッドに入った方が……」

 近づいて手を伸ばし、無邪気にすら思える表情で静かに寝息を立てている魔族を間近で目にすると、急に聖霊は動きを止める。

「くっ……なんであたし、こんな魔族なんかのことを気にかけてるのかしら。最近、自分の立場を忘れかけてることが沢山あるわ」

 独白のようなそのことばに、クラリスは苦笑した。

「それは、ソルさまが女性的だからかもしれませんね」

「女性的? それはどういう関係があるのかしら?」

「オーロラさんは女性に優しく、ソルさまは子どもに優しいという風に見えていましたが」

 クラリスは洞察力が高い。そう認識している手前、オーロラは相手のことばを無碍にすることはできなかった。

「言われてみれば、後輩にいてもおかしくないかもしれないって思ったりはするけどね」

 思い浮かぶのは、ユーグの美人選定祭での出来事だ。後輩たちにもたまに彼女が抱く感情、『この娘を守ってあげないと』――それに近いものを抱いてしまったことは記憶に刻まれている。確かに、あの瞬間にそう思ったのは事実だった。

「でも、口を開けば憎ったらしい魔族なのは確かなのに」

「ん……」

 小さく身じろぎする気配に、聖霊はことばを中断して慌てたように手を引く。

 その眼下でソルは目を見開いた。

「なに……?」

 すぐに視界に映った見覚えのある女二人の姿を、少し怪訝そうに見上げながら身を起こし、眠たげに目をこする。

「べ、べつに。こんなところで寝てて風邪でもひいたら無様だし、異世界の住人としては恥ずかしいと思っただけよ」

「……恥ずかしいと思うような話でもないだろう」

 魔族は相手の様子に疑問を持ったようだが、それを追求するつもりはないらしい。

「ここで誰かに見つかるとは思わなかったな。買い物にでも行くのか?」

 服についた草を払いながら、彼は立ち上がる。

「わたくしは物々交換です。薬草と薬を交換するんです」

「あたしは人探しよ」

「人探し?」

 問い返されて、オーロラは魔族は彼女の事情を知らないことに気がつく。

「後輩の女の子よ、過去に別の世界に召喚されたみたいでそのまま行方不明になった娘。名前はルナ」

 その名を耳にした途端、眠たげに閉じ気味だったソルの目が見開かれる。

「ルナ……ルナ? その名、どこかで聞いた気が……」

「まさか、知ってるの?」

 ソルがルナに出会う機会など、可能性は広くない。聖霊が魔界に召喚されていた、あるいは迷い込んだなど、有り得るのか。疑問に思いながらも、ほとんど手がかりのない現状なので、オーロラは食いついた。

 ソルはこめかみの辺りを押さえ、少し考えたものの首を振る。

「思い出せないな。最近のことじゃないのは確かだけど」

 彼のことばに聖霊は肩をすくめる。

「なんだ。ま、まさか魔界で聖霊を召喚するわけもないし、同名の別人じゃないの」

「元の名前がどうかはわかりませんが、ルナさん、という名前はこの世界でもよくある名前ですので、同名っていうのはあるかもしれませんね」

 ルナ、という名はそれなりの規模の町なら一人から数人はいるような名前だ。この世界で同名の人物がいても、それだけでオーロラの探し求める人物だとは限らない。

「ま、気長に探すわよ」

「せいぜい、人違いで恥をさらさないことだ」

 興味を失ったのか、単に眠いのか、黒衣の背中は根の向こうに座り、背中を丸くして草の上に横たわる。

「って、また寝るんかい」

「まあ……邪魔しないでおきましょう。お疲れなんでしょうし」

 クラリスが苦笑してそう結論付ける。

 二人は再び、一本道を歩き始める。ソル以外に誰と出会うこともない。初めの頃は多少、くぐることにためらいがあった木の枝の下も、今やほとんど意識もしないまま通り抜けていく。

 時折そよ風が吹き抜け、薄い雲が太陽を隠すことの多い天気は歩くのにも快適だった。邪魔するものもなく、女二人はたまに雑談しながらシルベーニュに辿り着いた。

「まずはそっちの用事を済ませましょうか」

「そうですね。もう薬屋さんとも顔馴染みですから、すぐに済みますよ」

 クラリスのことば通り、彼女の足取りはよどみなく、訪れた先の薬屋ともすっかり慣れ親しんだ仲で、取引はあっさりと終わった。

「そろそろ昼食にしますか」

「少し早いけど、混む前に行きたいわね」

 食堂は食事をする目的のほかに、情報収集も兼ねている。行く先は客の多く集まる人気のある大きな店だ。

 昼食には少し早いが、すでに席の半分以上は埋まっている。森ではあまり食べられない料理を、と二人が注文したのは、魚の燻製と季節野菜のマリネ、魚貝のクリームパスタ、肉団子の盛り合わせ、豚の腸詰とキノコの煮込みスープ、そしてデザートにそれぞれクリームブリュレとチーズケーキ。

 食事を味わう間に、店内は客があふれそうなほどに増え、騒がしいくらいに賑わってくる。

 オーロラは近くの席に座る、旅の商人たちらしい一団に目を向けた。陽気な一団は声をかけると気さくに対応してくれたが、ルナという名前に心当たりはないという。

 「昔飼ってた犬の名前にルナってのがいたな」、「以前旅行先でそういう名前の女性と会ったよ。背格好? 凄く大柄で灰色の髪の、屋台のお姉さんだったけど」――誰に尋ねてもそういった、手がかりになりそうもない情報ばかりが続いたものの、旅装の夫婦らしい二人に声をかけたときだった。

「ルナって娘、確か、去年の〈料理自慢大会〉に出てたよね」

 女のことばに、男もうなずく。

「去年……それはどこに? 若い子?」

「ボラキア共和国のゴスティアで毎年開かれるのさ。若い子だったよ。小柄で茶色の髪の、可愛らしい子だったね」

 今までに比べれば有力な情報だ。聖霊は身を乗り出す。

「どこから来たとか、なにか住んでいるところがわかるものは?」

「いや……そこまでは見物人には公開されてなかったんじゃないかな」

「そうだねえ」

 男女は目を見合わせ、男の方が続ける。

「ルナさんは準決勝で敗れて、とても悔しそうだったね。『絶対次は優勝します!』と語っていたから、今年も出るんじゃないかな」

 それはいつ開催されるのかと尋ねると、今年は五日後だと教えられる。毎年、ゴスティアの町に隣接する湖で名物の魚が獲れ始めて間もなくの時期に開催されることになっている。

 オーロラは男女に情報料代わりに、食後の茶を奢る。

「ルナという名の茶色の髪の女の子、まで言ってもそれなりにいるかもしれないから、あまり期待はできないけれど、なにもないよりはマシだわ」

「そうですね。わたくしは、その大会の方にも興味があります」

 黒縁眼鏡の奥の目がキラリと光る。

 もともと、ボラキア共和国の南端の町であるゴスティアは美食の町として有名で、生活に余裕のある旅行者は多くが訪れたがるような街だ。高級な食材を求め大陸各地から料理人や食材屋も集まってくる。

「クラリスも出場できるなら出場してみたら? あなたならいいとこ行くんじゃないの」

「腕試し、してみたい気もしますね」

 強く興味を引かれている様子で、半妖精の少女はぐっと拳を握る。

「でも、優勝ならダドリーさんの方がいいでしょうね」

「まあ、優勝が目的じゃないんだし。でも、一応、優勝賞品がなにかは聞いておくんだったわね」

 オーロラが目をやったときにはすでに、あの男女は店から出ていった後だ。

「ま、美味しそうなものが食べられるだけでもあたしは行ってみたいし。戻ったらみんなにも話してみましょう」

 まだ帝国の脅威は森まで迫っておらず、ハッシュカル方面に侵攻がさらに進んだという情報もない。そんな中、森に閉じこもっているよりは外出した方が召喚魔法の情報も集まるだろうし、ヒューの訓練にもなるかもしれない――そう、聖霊は考えていた、

 食堂を出ると、二人は真っ直ぐ森へ戻る。出入口付近からはすでに魔族の姿は消え、それは森の食堂に移動していた。

 時刻は、昼食時間を少し過ぎた程度。短く刈り込まれた芝生の上に並ぶテーブルと椅子に、食後の歓談を楽しむ者、遅い昼食をとる者が点在している。

 その一角に、見慣れた姿が集まっていた。テーブルには、ノヴル東の島の遺跡で入手した物がいくつか並べられている。

「鑑定が終わったの?」

 遺跡の遺物は森に戻ってすぐ、バサールに預けられていた。

「ああ、視てすぐにわかる程度の物だけだけどな」

 ソルが前にしているのは大型ナイフと杯だ。バサールの見立てでは、ナイフは決して錆びたり刃のこぼれることのない魔力に包まれており、普通では斬れないものも斬れるという。刃には製作者の名前か、〈シャグラ・レニ〉と銘が刻まれている。

 杯は注いだものが腐らない魔法の力が込められているらしい。注いだ水などに漬けた物も腐らないまま保存されるという。

 杯は兄妹の祖父が持っておくのが便利だろうと、満場一致で決定した。大型ナイフはヒューの持つ短剣とそれほど変わりない長さであり、少年に渡される。

「これも高価な物だと思いますが……もらってしまっていいんでしょうか」

 柄を握って感触を確かめながら、彼は少し気が引けたように言う。ことばと裏腹に目は輝いていたが。

「遠慮することはないよ、使い道があるのに持っているだけ、売るだけというのもおかしいだろう。キミが強い武器を持っていれば守れるものも増える」

 言って、魔族は腰に吊るす刀を軽く叩く。

「わたしにはこれがあるしな。これはわたしの一部のようなもので、もともと魔力を秘めている。それを使うのはキミだけだ」

「それならば……使わせてもらいましょう」

 そうと決めると、彼は短剣をもともとの短剣の鞘ごと入れ替え、元の方も大事そうに鞄の奥に仕舞い込んだ。その短剣は彼にとって父の形見のひとつであり、普段は使わなくなったとしても大事な物に違いない。

 残りはまだバサールの手もとにあった。ララのペンダントに記録されていた石板の図もすでに写され、必要な部品を集めている段階である。

 小物や象の像、資料の一部などは学者向けと判断されていた。ヒューは調査書に挟まっていた手紙をもとに父の知人の学者へと手紙を書き、バサールの使い魔の術で届けてもらっているという。

「明日辺りには様子がわかるんじゃないかと」

 考古学者はゴスティアの北の町、イルニダに住んでいる――そうと聞いて、ここぞとばかりにオーロラは料理自慢大会について切り出した。

「料理自慢……お祖父さんが出られれば、優勝も狙えるんじゃない?」

 レジーナが店の建物の方に目をやるが、ヒューは小さく肩をすくめる。

「一応聞いてみるけど、都会への出店を断ったくらいだからな……」

 そう言い残して店へ駆け入って間もなく、少年は彼が予想していた通りのことを告げる。

「大会に出るより、ここで一人一人に合わせた料理を作る方が楽しいし勉強になる、だそうです」

「ものの価値って人それぞれよね……まあ、クラリスも頑張ってくれるでしょう」

 オーロラのことばにクラリスが笑顔でうなずき、口を開こうとする。

 ガタッ。

 その瞬間、レジーナがテーブルに手をついて勢い良く立ち上がる。

「わたし……わたしも、大会に挑戦してみたい」

「え……いや、まあいいだろうけれど」

 幼馴染みは勢いに少しの間驚くものの、すぐ納得顔になる。

 この森で暮らすようになってからというものの、少女はアヴル族のフリウや祖父から料理を習っている姿をよく見かけていた。周囲の住人たちもよく『いつも訓練に勉強に忙しくしているね』と感心していたのだ。

「まだ少し時間があるし、お祖父さんにもう少し教えてもらえるといいんだけど」

「それは大丈夫だと思うよ」

「うん、レジーナお姉ちゃんはすぐお店ができるくらい上手くなるよ。だって、今朝作ってくれたお団子のスープもすっごく美味しかったもん」

 ララが力説する。

 レジーナは時折店を手伝っており、その手料理を食べた者からの評判は上々のようだ。

「いいわね、参加人数が多いほど優勝の可能性は高くなるでしょうし。ユーグのときと同じ理屈だけど」

「では、オーロラさんはどうなんです?」

 医師のことばにオーロラは一瞬表情を硬くし、目を逸らす。

「あたしは食べる専だから……そういうあなたたちはどうなのよ?」

 祖父の料理を間近で見てきたヒューや、一人旅も長いらしいソロモンは料理ができてもおかしくないのでは――話を逸らすついでではあるが、それは彼女には良い思いつきに思えた。

「あいにく、僕は卵料理とか簡単なものしか……」

「わたしも、簡単な〈切る・煮る・焼く〉くらいだな」

「わたしは旅の間はほぼ携帯食ですよ。切るのは得意ですがね」

 笑顔のソロモンが言う〈切る〉は、ソルの言っていたそれとは違う意味に聞こえ、どうしてもメスを持った姿を想像させる。

「あまりその白衣のまま料理はしてほしくないわね」

「料理人とそれほどかけ離れていない格好だと思いますが」

「そうじゃなくて……ま、クラリスとレジーナに任せましょう」

 ゴスティアまでは片道一日半程度だ。考古学研究所のあるイルニダに寄ってから行くにしてもまだ二日は時間がある。

 レジーナとクラリスは顔を見合わせ、早速、店の方へと料理を教わりに入っていく。

 それを見送ってから、ソロモンが少し声の調子を落として口を開いた。

「行くのはいいんですが、あの辺より北はほとんど帝国領になっていますからね。警戒しても仕方ないかもしれませんが、気をつけた方がいいでしょうね」

「料理自慢大会のような人気の催しをやるくらいだから、よほど防衛力に自信があるんじゃないかとも思うが。ま、生きて帰ることができるよう努力はしよう」

 魔族は用心棒のように、しっかり刀の柄の感触を確かめる。

「そういや、帝国に近いってことは、クラリスの父親がいるっていう森からも離れていないってことよね」

 聖霊の思いつきのことばで、医師は動きを止める。

「それはまあ……まあ、クラリスが行きたいなら止めませんけどね。彼女が一緒に旅をしているのは、あくまで健康に過ごせる地を探すことですからね。わたしがどうこう決められるものではありません」

 至極残念そうな様子に、思わずオーロラは口の端を緩める。

「寂しがり屋か」

「そりゃ、一番長くこの世界で一緒に旅をしていましたからね。理解は早いし面倒臭くないしとても居心地のいい相手ですし」

「ええ、そんなものなの?」

「なにを期待していたのですか。わたしはもっと大人の魅力のある女性の方が……いえ、わたしたちの関係はあくまで同行者であり医者と助手ですよ」

 他愛のない会話に落ち着いたのを見て、ソルが席を立とうとする。すると、慌てたように少年も立ち上がった。新しい武器を手にしたので、慣れるために訓練をつけてほしいのだろう。彼は新しい愛剣を、〈シャグラの剣〉と呼ぶことにしたようだ。

 ソロモンも立ち上がり、ララは店へ手伝いに去っていく。聖霊は一人残されて少し思案した後、温泉の存在を思い出して歩き出した。


 細長い三日月が、木々の葉の間から惑いの森の地上を照らしていた。

 森の住人たちは陽が昇ると同時に起き、日没から間もなく眠ってしまう者が多い。人間たちも森に来た最初の頃は夜には住居に引き籠っていたものの、最近は酒好きの者たちが食堂の露天席に酒や軽食を持ち寄り、一部の妖精たちも加わるようになっていた。

 当然、聖霊は毎晩のようにそれに参加していた。

「どうやら、そろそろ主どのが目覚めそうらしいぜ」

「へえ。この変わりっぷりを見たら、主も驚きそうね。でもきっと、事情を知ったら納得してくれるんじゃないかしら」

 小柄な妖精と長身の妖精が木の実を摘まみながら談笑しているとなりのテーブルを横目に、オーロラは薄布の窓から光の洩れる店の建物に目をやった。

 いつもならこのくらいの時間になると、レジーナがボウガンの練習をする音が木々の間から響いていたものだが、今日は少女も店で料理の勉強に集中しているようだ。二度ほど、練習の副産物らしいチーズ入りのサラダや魚の煮つけなどが供給され、テーブルに並べられていた。

 今や、皿は空になりテーブルの端に重ねられている。味はどれも好評だった。

「しばらくは、美味しい手料理に沢山ありつけそうですね。ま、お店のも充分美味しいのですが、やっぱり可愛い女の子の手料理だと思うと、気分的に変わるものがありますので」

 ことばの後半はどこか取り繕うように言い、オーロラの向かいの席で医師はカップに入った果実酒を一口含む。ターデン族秘蔵の酒のひとつだ。

「相変わらず女好きだね、お医者さんは」

 ターデン族の青年が笑った。黒目黒髪の愛嬌のある顔の若者で、名をニジという。この毎晩の酒宴の常連の一人だ。

「それじゃあ、ちょっと前に噂になった、月の妖精の話は聞いてるかい?」

「わたしは決して女好きではないというか、いえ、女も男も……否、生きとし生けるものを愛しておりますよ。で、月の妖精とは?」

 平静を装っているものの、テーブルの端から身をのり出して顔を突き出す体勢からは、彼がニジの話にかなりの興味を抱いたことが明白だ。

「何人も見たっていうから、幻じゃあなさそうだよ。ここからそう遠くない泉かどこかで後ろ姿を見たんだと。月光に照らされた白い肌の、美しい姿を。顔はよく見えなかったが綺麗だった、あれは月の妖精に違いない……連中、そう言って毎晩のように探してるぜ」

 そう言ってニジは人間より短い腕を伸ばし、木々の間のとある方向を指さす。そこにはただ静かに、木々の影が揺らいでいるだけに見えた。

 なにかがあるようには思えない。しかし、医師は腰を上げた。

「なに、探ってみるの?」

「ちょっといつもと違う道順で帰ってみるのも良いでしょう。そろそろここもお開きの時間のようですし」

 とソロモンにつられてオーロラが目をやると、店から盆を手にしたレジーナが皿を回収しにやってくるところだった。

 長居して騒いでいては周囲の迷惑になるだろう。いつものように、酒宴は頃合いを見て解散することとなる。

「それじゃ、あたしも月の妖精とやらを探してみますか」

 もののついでだ。聖霊も医師も帰る先は神殿の地下の部屋で、わざわざ別の道を行く用事があるわけでもない。

「おやすみなさい」

「それじゃあ、また明日」

 思い思いの挨拶を交わし、散り散りに去っていく姿に聖霊と医師も混じる。途中まで帰路が同じ者も木々の間を行くうちに分かれていく。

 緑の葉が茂る木々の枝に隠されて、月明かりは薄くしか降りそそいでいない。特に刈り込まれてはいないものの、踏みつけられているためか、丈の高い植物は生えておらず、天然の道になっている。

「この辺りに泉なんてありましたっけね」

「もっと先の方なんじゃない? そういや、もうちょっと向こうに行くと温泉ね」

 今の時間はもう、温泉も利用されていない。もはや、動物の多くも、虫すらも寝ているようだ。静けさの中、二人の声だけが響く。

 月の妖精を目撃したという者たちも、二度は出会えていないらしい。期待はしていないが、ソロモンは少し残念そうにしながら、このまま木々の間を抜けてしまうのではないか、というところまで来たとき。

 行く手に、少し開けた空間が見えた。空を塞ぐ葉の塊に隙間ができ、月光が円を描くように芝生の上に降りそそぐ。

 その淡い明かりの中に座り、猫と戯れているのは白い肌に整った顔立ちの、見覚えのある黒衣の姿。

「なんだ、こんな遅くまで飲んでたのか」

「あら、こんな遅くまで起きてるならあんたも来れば良かったのに」

「誰が行くか」

 あきれた声で応じながら、猫を足もとに下ろし、頭をひと撫でして立ち上がる。猫は挨拶のように一声鳴いて走り去っていく。

「ソルさまは、この時間になにかご用事ですか?」

 猫を見送ると、楽しそうな笑顔だったソルの表情が変わる。

「わたしはもともと夜の方が動きやすいけどな。バサールに話を聞いていたんだ。ヒューたちはもう寝ている頃だろうし、話は明日にするつもりだけどな」

「まだ片づけてるところだろうし、今から行けば間に合うんじゃないかしら」

 森には時計塔も日時計もないが、目安にされる木は存在する。それがなくても慣れた者は星や月の位置でおよその時間が計れるが、まだ日付は変わらない頃だ。

「なにか伝えたいことがあるということは、バサールさんの伝令が戻ってきたんですか?」

 ソロモンがそばまで歩み寄り尋ねると、ソルは少し、漂ってくる酒の臭いを気にしたように眉をひそめる。

「ああ……ヒューが預けた手紙を持った伝令の使い魔が戻ってきたらしいが、どうやら、イルニダという町は先日、帝国軍に滅ぼされたようだぞ」

「帝国に……ハッシュカルのようにですか」

「住民の大半は避難はできたらしいが。帝国の本隊は別の方へ行ったらしく、ゴスティアは警備を強化して様子見のようだ」

「となると……探している考古学者も、避難している可能性がありますね」

「それはまあ……近い。近いっていうに」

 ぐいと顔を近づけられて腕をつかまれ、ソルは嫌そうに身を引く。

「キミ、酔ってるだろ。ともかく、どこかに避難しているとしても、それを探すのなら現地に行ってみないことには」

 聖霊が医者の耳をつまみ、引きずるようにして引き離した。耳が千切れそうな痛みでソロモンは渋々手を放す。

「ともかく、明日、ヒューさんたちにきいてみましょう。まあ、どうするのかは大体見当はつくけれども」

 耳をさすりながら、彼は予想する。

 料理自慢大会が中止になるというのならともかく、そういう話は伝わってはいない。目的の相手が生きている可能性があるなら、ヒューは探そうとするだろう。それくらいの予測はできる程度には一緒の時間を過ごしている。

 そしてその予想が的中するのを目にするのは、間もなくのことだった。

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