第18話 〈始まりの象〉の伝説
二つ目の分かれ道を曲がった先には小部屋があり、慎重に中に入ると壁の高いところに突き出た足場の上に箱が見えるが、ハシゴは届かなかった――そう調査書には書かれていた。その通り、頭上高くの壁に石板を張り合わせたような箱らしきものが見える。
「術で落としましょうか?」
「これを使ってみてもいいかも」
レジーナが取り出したのは、鉤爪付のロープだ。彼女はその先端部分をボウガンの矢に括り付ける。
オーロラが木の葉を一枚取り出して術で巨大化させ、箱を受け止めようと足場の横のやや下に浮き上がらせる。
狙いを定め、レジーナはボウガンのトリガーを引く。
矢が普通よりも重く不安定だが、どうにか箱の上に射ちあげられた。箱の少し上で勢いを失い落下する。
レジーナがロープを引くと、ガチリ、と鉤爪が箱の端に引っかかる。さらに引っ張ろうとするが、箱はわずかに音を立てただけだ。
「ロープが切れないといいけど」
ヒューとソルが手伝いロープを引く。少しロープの強度が心配されるようなキリキリという音がするが、切れる前に箱が葉の上に滑り落ちた。オーロラが葉を操りゆっくりと目の前の地面に降ろす。
箱の中には箱自体と似た色の石のような物が詰まっていて、一瞬ヒューは不思議に思うが、よく見るとそれは箱の蓋が砕けて残骸になったもののようだ。
「なにが入ってるのかな」
「魔力石とか魔法石とか、あとは、いいお宝だと嬉しいわね」
ララとオーロラが目を輝かせて覗き込む中、蓋の残骸が丁寧に取り除かれる。
下から現われたのは、鍵穴付きの金属の板に覆われた分厚い本だ。見下ろした魔族が目を細める。
「魔力を感じる……魔導書の類かもしれん」
「鍵はないの?」
箱の底にあったのは本だけだ。念のために残骸を改めてみるが、鍵は見当たらない。
「調査書だとほかにも同じような箱があるようだし、遺跡内のどこかに鍵があるかもしれないな。目的はこれではないが」
ソルのことば通り、探しているのは魔力石や魔法石だ。鍵が見つからなくても、目的の物が最優先だ。
部屋を出て直線の道に戻り、しばらくして曲がり角を抜けると、左右に二つずつ扉が並んでいる。調査書によると二つは空き部屋で、ひとつは古い棚があり、もうひとつは部屋の真ん中で床が切れているという。
まずは、一応棚を見てみようということになる。
「なにもなさそうね」
入って数秒で聖霊が落胆の声を上げる。
棚は石を加工したもののようで、どの段にも埃が積もり、なにも置かれているものはない。
「すでに持ち出されたんですかね。お店の二階には見当たりませんでしたけれど」
「遺物は、博物館とか研究所に寄贈することが多かったみたいです」
ヒューは昔、父が宝石のようなものを魔術師に売る話をしていたことを不意に思い出した。あれが魔力石や魔法石だったかもしれない。あれを取っておいてくれれば――と思うが、両親は魔法は使わないし、今更過ぎる話だ。
「いや、この埃の積もり具合からするともともとなにもなかったんじゃないか」
ソルの指摘の通り、棚の埃はどの段でも均一に積もっており、どこかに物が置かれていたような跡もない。
「ここが住居かなにかとして使われていた頃の最後の方にはもう、持ち出されていったのかしら。棚ごと持ち出すには重かったのね。この棚もなかなか値が張りそうなのに」
「まさか、これを持ち出すつもりじゃないだろうな」
「まさか、さすがに運べないし。そもそもどこから運び出すのよ」
魔族が白い目を向けて言うのへ反論する聖霊のことばに、ヒューも棚をどうやって運び入れたのかと疑問に思う。
「もしかしたら、どこかにもうひとつ出入口があるのかもしれませんね。父さんたちが辿り着けなかった先とか」
「確かに。その棚が組み立て式で実は凄く軽い、なんてことはないわよね」
レジーナの指摘に、物珍しそうに棚の装飾を眺めていたララが思い出したように口を開く。
「あのね、探険の本を見るとよく、棚とか本棚をずらしたところの壁に入口があったりすることが多いんだよ」
それは兄も覚えがあった。
ヒューとソルが棚の左右から押したり引いたりしてみるものの、その重さはソロモンも手を貸してもびくともしない。
「違うみたいだな。組み立て式でもないようだし」
「残念。ほかの部屋を見ましょう」
見るべき部屋は他にもある。空き部屋は後回しにして、となりの、床が途中で途切れているという部屋に入る。
そこは奥行きのある、長方形の部屋だ。調査書に書かれていた通り床は途中から深い崖のようになっている。見下ろしても底の方は深淵の闇だ。
とても跳び越えられる幅ではなく、その先の壁には幾重もの円を重ねたような装飾が彫り込まれており、円の中心には鹿とそれを狩ろうと弓矢を向ける人間が描かれていた。円の中心にシカが来る構図である。
「これは、そういうことよね」
レジーナがボウガンをかまえる。皆、惑いの森の遺跡で遭遇した仕掛けのことを思い出していた。レジーナもそのときのことを聞いている。
放たれた矢は、狙い違わず円の中心に突き立った。
ドシン。
どこかでなにかが動く、重い音がする。
「音は後ろからしましたね」
ドアの近くにいたクラリスが言う。
一行は外に出て、調査書では空き部屋となっている部屋のひとつのドアを開けた。すると正面に、大人の身長ほどはある大きな石板が立っている。石板の表面には絵と記号を組み合わせたようなものが刻まれていた。
「どこかの地図……?」
「なにかの解説のようにも見えるが……」
図の横に矢印で示された部分の説明の文章が記されているが、それは異世界の者たちにも、ほかの誰にも読めない文字だ。
「書き写すとなると時間がかかりますね。図だけでも写しましょうか」
「これを使えばいいんじゃいかな」
鞄を開こうとした医者が手を止める。幼い少女が襟もとから取り出したのは、ユーグで手に入れた記録の力を秘めた魔法の石だ。
「それがあったわね。少し小さいけど……まあ、バサールさんなら拡大するような魔法も知ってるんじゃないかな」
レジーナが同意すると、ララはペンダントを兄に渡す。
ヒューが石を覗き込んで確認しながら石板までの距離と角度を調整して位置を決定すると、ララが教えられていた通り、ひし形の左右の端を同時に押した。
表を返してペンダントを見ると、思ったよりもはっきりした色合いで石板が表面に写し取られていた。
「これなら大丈夫そうだな」
「なくさないよう、大事に持っておくね」
ララは元の通り、ペンダントを首に掛け襟の下に入れる。
仕掛けはここだけだろう――とヒューは思うものの、一行は最後の部屋を念のために確かめることにした。
ドアを開いて内部を照らす。すると、部屋の中央に下への階段がある。
「調査書では空き部屋になっていましたから、石板と同時にこの階段も出現したらしいですね」
「この先の方はどうなってるの?」
と、オーロラが廊下の先の方を示す。
「この先はドアのない大きな部屋が左側にあって、そこを通り過ぎると廊下の先が崩れているようです。土砂をどかすにはそれなりの道具と労力が必要、と書かれていましたね」
しかし、ヒューたちには当時の調査隊には存在しない、魔法というものがある。崖崩れも、今ある装備でどうにかできるかもしれない。
「外に通じているなら向こうでしょうし、ここが魔力石や魔法石があるかもしれない本命ね。隠し倉庫かもしれないし」
「見つかるといいんですが……」
階段はこの遺跡の入口と同じように幅が狭く、一人ずつしか下りられない。ソルが火球を飛ばしながら先導する。
「ちょっと臭うわね。長いこと閉ざされていた感じね」
「少なくとも、盗掘はなさそうですね」
鼻のいいオーロラは顔をしかめるが、クラリスやほかの皆の顔には期待の色が濃い。
階段は意外にすぐ終わり、大きめの部屋に出る。そこに至ると、聖霊を除く皆の鼻にもどこかカビ臭いような臭いが届く。
熱がこもっているのか上の階よりも暑く、空気はじめじめしていた。
「これが全部お宝だと嬉しいけどね」
目に映るのは、壁際に沿って並べられ積まれた木箱。
「いくつか魔力を感じる箱があるな」
「でも、魔力のない中身だっていい物が入っている可能性が」
オーロラが手近な箱に近づき、蓋を持ち上げる。
軽く開いた蓋の隙間から羽音のようなものが鳴り、天井へとなにかが飛び上がる。ソルが火球を操り照らし出したそこには、コウモリに似た姿が二匹。
鋭い鉤爪を持つ鳥は天井から赤い目で狙いをつけると、黒い翼をはばたかせる。
ヒューは思わず身がまえるが、ソルが火球から炎を噴きつけ、降下してくる前に二匹を消し炭と化す。後にはなにも残らない。
「罠が張られているかもしれないのだから、もう少し慎重に行動してほしいものだな。まあ、獣が本能に従うのは無理のない話かもしれないが」
「ぐっ……」
魔族のことばに、聖霊は悔しげに顔を歪めながらも、ことばを飲み込んだ。この場は確かに魔族の発言が正しい。
「手分けした方が早いでしょうけれど、直接蓋を開けない方がいいかもしれませんね」
ソロモンは鞄から折り畳み式の木製の定規を取り出す。
しかし、それへ聖霊は首を振った。
「なに、それならこれで離れたところから開けられるわよ」
オーロラは気を取り直し、懐から五枚、木の葉を放り投げる。葉は生き物のように宙を泳いでそれぞれひとつずつ箱を定め、蓋の隙間に端を差し入れては次々と開いていく。ヒューたちはそれを、ただ警戒しながら眺めていればいい。
箱の中には蓋を開くと針が飛び出すようなものもあったが、葉を少し破くくらいの影響でしかなかった。間もなく、すべての蓋が開かれる。
箱の半分以上は空だ。残りはなにかの部品、ゴミらしきもの、飾り物、破れたページのある廃棄本らしきもの数冊、設計図のようなもの。
そして、魔力を秘めたものが三つ。鞘入りの大型ナイフ、木箱入りの玉石、銀色の杯。
「これは、魔力石か魔法石の可能性はありますかね」
ヒューが目を付けたのは、やはり専用らしい木箱に入れられた握り拳大の赤い玉石だ。その内部には光が揺らめいている。
「その可能性は高そうだな。ほかの魔力を秘めた物と一緒に、バサールのところに持ち帰って見てもらうとしよう」
「それ以外の物も、遺跡から出た物と分かれば高値が付くんじゃない?」
ヒューが大切に魔力を秘めた物を鞄に仕舞うのを横目に、オーロラは飾り物の入った箱を覗いていた。小さな馬の像や奇妙な立体図形のようなもの、石製の花瓶か入れ物のような物などが詰められている。
「僕としては、歴史の研究の役に立ちそうな物は、どこか専門的なところに寄付したいところですが……」
「歴史を調べるなら、こういうものは必要だろう」
ソルは本へと手を伸ばす。すると、指先が少し触れただけで本のページはひび割れて裂けてしまう。一部は砂のように粉となった。
「持っていくのも大変だな、これは……」
思わず手を引いて、彼は嘆息する。
「風化が激し過ぎますし、ある程度は仕方ないですね。しっかり縛りつけて持って行くしかなさそうです」
多少の犠牲を払い、本を重ねて紙で包み、その上から紐でしっかり縛りあげる。一方、なにかの設計図らしきものの方は厚く丈夫な紙でできているようで、折り畳んでも破れることはなかった。本が三冊と設計図らしきもの四枚はソロモンが鞄に入れる。
「あたしも鞄かなにか用意しておくんだったわ。いっそ、箱ごと持って行こうかしら」
持って行くものを選び出していたオーロラが肩をすくめる、
一方、そのとなりでララは慎重に、部品やゴミらしき物をかき分けていた。
「んー、鍵とかないかなって思っていたのになあ」
「あの本の鍵は、ここにはないみたいね。……そういえばこの部品はどこかで見たかも。あの石板かしら」
レジーナが部品のひとつを手に取る。
ソロモンが鞄に入れたばかりの設計図を取り出して開いてみると、いくつかそこに描かれた部品が箱に入っていた。それらを回収すると、箱を戻しておく。
発見した物を持てる範囲で持ってからも隠し扉なども探してみたものの、隠し階段の先にさらになにかを隠すとも思われず、すぐに切り上げて地上に戻る。
部屋を出るとあとは廊下の先へ向かうのみだ。
調査書の通り、廊下を進むうちに横手にドアのない出入口の向こうに広い部屋があった。ソルが火球を飛ばして照らしてみると、机と椅子がいくつも並び、壁際には棚も並んでいる。まるでなにかの事務所か研究室のようにも見えた。
「なにもなさそうな……って、あれはなにかしら?」
光を照り返すものを見つけ、聖霊が指をさす。
「ああ、ここでしたっけ、箱があるのは」
「そうだな、壇の上に小さな箱、だったか」
ソルが踏み込みながら照らすと、確かに奥の壁に祭壇のようなものがあり、両手のひらで持てる程度の大きさの小箱が置かれていた。祭壇らしきものは丈夫そうな金属の柵で囲まれていて、ヒューの目が隠れる程度の高さだ。
「この床はなかなか怪しげですね」
柵と祭壇らしきものの間の床には無数の穴が開いていた。クラリスは落ちていたなにかの欠片のようなものを拾い、柵の向こうへ投げ入れてみる。
ズドン、と空気を突き刺す音が響く。
投げ込まれたものは床に落ちたと見えた瞬間、穴から突き上げた長い金属の槍のようなものに突き上げられ、粉々になる。
「おお、こわ」
槍は天井近くまで伸びると、すぐに穴へ戻る。その迫力に肩をすくめながらも、オーロラの目はむしろ喜びに輝いていた。
「ここまで厳重に守っているんだもの。きっと凄いお宝なんじゃない?」
「高価な物なら魔力を帯びていそうなものだが……」
と、魔族は否定的だった。
魔法を操る者は程度の差はあるが、魔力を視ることができる。ヒューも可能なのかどうかと目を凝らしてポケットの魔力石を見下ろしてみるが、彼の目にはそれらしいものは映らなかった。魔力を失うとその能力も失われるのかもしれない。
「床に触れないようにする必要があるわね」
レジーナがまた小型の鉤爪付ロープを用意する。小箱までの距離はそれほど遠くはない。
彼女が投げた鉤爪部分は、しっかり箱の裏に引っかかった。
「あら、さすが」
「意外と軽いみたい」
少し引いてみてから、ロープをしっかり張った状態のまま思い切り引く。すると、箱は滑るようにして宙へ舞い、柵の外に出てから落下する。
一番近いソロモンが落下地点に入り、箱を受け止めた。
「なに、なにが入ってるの?」
「だから、罠の可能性が……」
魔族の心配をよそに、オーロラが横から出した右手で箱の蓋は軽々と開いた。
内部に収められていたのは鍵でも、宝石といった高価そうな物でもない。そこに大事そうに収められていたのは、かなり古そうな、石造りの象だ。
「なにこれ……宗教的なものかしら」
「かなり古いもののようですね。もしかしたら、かつてここにいた人々にとっても古い時代の遺物だったのかもしれません」
「古代の人たちの考古学研究所……? なんだかおもしろいですね」
ソロモンのことばに興味を掻き立てられ、ヒューは部屋を見回す。
かつて魔法技術の進んだ文明があり、その時代の遺跡は各地で多く出土している。その遺跡の文明より以前には科学の進んだ文明があった。魔法文明の人々が科学文明の歴史を研究していても、なにもおかしくはない。
「歴史的には重要な遺物だとしても、あたしには無用の長物ね」
オーロラは少し落胆したようだ。異世界の存在である彼女には他人事も他人事であることに違いないが、同じく異世界の存在であるソルが興味津々なのとは対照的だ。
「わたしが持っておくわ。これもバサールさんに持って行けばなにかわかるかもしれないし」
レジーナは鉤爪付ロープを腰に縛り付け、リュックサックの空いた部分に箱を入れることにしたようだ。
「あとは廊下の奥だけね。どうなっているか見てみましょう」
部屋の棚は空で、資料が残されているでもない。ここにはもう用事もなく、部屋を出て廊下の先に進むだけだ。
残る道筋は調査書の通りだった。少し歩くと、前方の天井と壁が崩れている。そこから先は廊下を囲む壁の材質が石から土に変わっており、なにかの折に土壁の一部が緩んで流出したのだろう。
「なるほど、これなら土砂を取り除いても周りが崩れて生き埋め、ということはなさそうですね」
彼らのいる辺りは丈夫な壁に囲まれており、たとえ土砂がさらに崩れてきてもほとんど影響はなさそうに見えた。
それでも、先へ進むには崩れないようにしながら取り除かなければならない。
ソルの魔法は効果は強いが震動に弱い屋内にはあまり向いていない。ヒューは念を入れ、細かい作業に向いたオーロラの法術を頼みにした。
「地道にやる方が間違いはないわね」
彼女は四枚の木葉を術で巨大化すると、スコップのように土砂を掘り進めた。地道とは言うものの、その速さは人間が使うより数倍にも見える。
崩れていた土砂は通路の脇に寄せられ、天井と壁の一部に穴が開いてはいるものの、一応安定した通路が口を開いた。
「外に続いているようね。潮の匂いが強いわ」
聖霊の目が向けられた前方からは光が差し込み、青いものが揺らめていた。
安全なのを確かめ、ヒューが先頭になって通路を進む。その終点まではそれほど長い距離ではない。
視界から天井と壁が消えると、一気に明るくなり、目が慣れるまで少し時間がかかる。
視界がはっきりすると、岩場から海を見下ろしていることを認識する。両脇には崖が切り立ち、島の周辺からここを隠しているらしい。足場の少し離れたところには係留用らしい金属の出っ張りがあった。
「昔はここから船で外からつながっていたんだろうな」
見下ろす海面は外のそれよりも穏やかで、青緑がかった海底が透けて見える。海底に放置されていたらしい金属の碇はすっかり錆びついて小さな貝がびっしりとこびり付き、その上に長い時間が通り過ぎたことを如実に物語っていた。
目的を果たした一行はもとの道を辿り引き返す。雲の切れ目からチラリと見えた太陽はいつの間にか、だいぶ高く昇っている。
「帰ってどこかで埃を落としたいわね」
遺跡は長年堆積した埃やなにかの細かい破片が常に漂っているようで、服にも喉の奥にもそれがまとわりついたような感覚がある。浜で変わらず待っていた海賊船を見つけ、聖霊はほっと息を吐いた。
しかしすぐに、その緩みかけた表情に緊張が走る。
「獣の臭いがする」
振り返る目に映るのは、刀の柄に手をかける魔族と、風もないのに不自然にざわめく茂み。
「走れ!」
ソルが刀を抜き、茂みから飛び出してくる姿と対峙する。
大きな緑の茂みから威嚇するように両腕を伸ばして巨体を強調するのは、鋭い牙と爪、黒い毛皮の熊の一種だ。
ソルは少しも怯むことはないが、その身長差の大きさを目の当たりにヒューは背筋に冷たいものを感じる。
「伏せろ!」
少し遠くから、聞き覚えのある声。
ヒューたちが反射的に身をかがめると、まるで巨大な拳が厚い空気の壁を強く殴りつけたような、ドウン、という音が響く。
それに獣の悲鳴が続いた。熊の大きな身体の腹に黒い砲弾が命中し、後ろへと弾き飛ばしたのだ。
即死はしなかったものの、熊は仰向けに倒れたまま痙攣している。
「船に戻ろう」
回復して襲ってこないとも限らない。視線は外さないまま熊から離れ、七人は無事、砲門のひとつから煙を一筋立ち昇らせる船に縄梯子で引き上げられた。
「全員無事だな。よし、出航だ」
迎えたスォルビッツは少し急いだ風に振り返り、それを受けた乗員たちもことばを待ちわびていたかのように一気に作業を開始する。
「いや、待ってるだけでもなかなか大変だったよ。サメの一種は突いてくるし、吸盤のある怪物は取り付いてくるし。あれはレモラとか言ったかな、確か」
疑問を口に出す前に、スォルビッツはそう言って肩をすくめた。
「こっちも大変だったけど、そちらはどうだ。目的は果たせたかい?」
「ええ、どうにか。一応、色々と見つけられましたし」
「価値があるのかわからない物も多いけどね」
と、オーロラはレジーナに借りた袋に詰めた小物や部品を船上に出して並べて見せる。
「なんだか、考古学者には宝かもしれないけど、って感じだな」
宝と見て手の空いた水夫たちも集まってくるが、古く価値のわからない品々を前に、一人がそう素直な感想を述べる。
「歴史的価値と値段って釣り合うかどうかわからないものね。ほら、凄く大事そうに守られていた象の像とか」
「象の像?」
聖霊のことばに、長髪の美青年は興味を引かれた様子だった。
それに応じるように、レジーナが鞄から小箱を取り出す。そのいかにも宝箱という外見には乗員たちも期待を込めた目を向けるが、中から灰色の像の石像が出てくると、初めてそれを見たときの聖霊同様、不可解そうな表情に変わる。
唯一、スォルビッツだけは納得顔だ。
「ああ、やっぱり。これは〈始まりの象〉だな」
「〈始まりの象〉?」
「古い伝承があってね」
ソルに問われ、彼は思い出しながら話し始める。
――最初に、一匹の象がいた。
象はうたた寝をしているうちに、自分の背中に小さな生き物たちが住み着いたことに気がつく。なにが住み着いたのか気になるものの、象は住人たちを落とさないようじっとしながら、時折聞こえる会話らしきものや歌を楽しんだ。
少しずつ住人は増え、ついに像は音を聞くだけでは飽き足らず、どういう生き物が住んでいるのか知りたくなり、自分の分身を作り出し、見えるものを教えてもらう。
しばらく楽しく分身の話を聞いていたが、そのうち、象は分身に背負っていることを代わってもらうことを思いつき、しばらくでいいから、と頼みんこんで自分の目で生き物たちを見ることに成功する。
しかし、多彩な生き物たちと美しい世界を見ているうちに、象はさらに欲を掻き立てられ、もっと近くで見たいと願ってしまう。それに、久々に手に入れた自由はとても魅力的だった。象は分身を残してその身を小さく変え、分身の背中の上にある世界へ入っていく。
残された分身は待った。
象が帰ってくるときを、長い長い間、待ち続けた。
しかし、長い年月が過ぎても象は戻らない。分身は孤独に耐えられずに涙を流した。
『こんなに辛いなら心なんていらない。もうなにも考えない』
分身は永い眠りについた。その背中に、あまたの生き物たちを乗せたまま。
「いくつかの古い遺跡から出た、複数の書物に書かれた伝承だよ。象はなにかの例えなのかもしれないという研究者もいるが、出土した神殿の御神体や挿絵はこれと同じ像だったね」
と、スォルビッツは説明を終えた。
「可哀そうな象さんなんだね」
ララはそんな感想を洩らす。話を聞いてから見ると、石造の象は少し悲しげな眼をしているように見えた。
大陸でも誰もが知っている神話は当然ヒューたちこの大陸の住人は知っているが、それより古い伝承は耳にしたことはない。ただ、ヒューは薄っすらと、父の調査書の中でそれに関連するものがあったかもしれないと思う。
「父がよく連絡を取り合っていた考古学者に見せれば、もっと詳しいことがわかるかもしれませんね」
島はすでに、船の後方に小さくなっていく。
海賊船はアジトに向けて順調に航海を続けた。渡せるような財宝は船に使えそうな装飾品がいくつかあったくらいだったので、礼としてソルの持っていた宝石の原石を渡す。
「ああ、オレは興味深い話が聞けただけで充分だけどな」
スォルビッツは船が海上を行く間、遺跡の様子をヒューやソルから聞いていた。彼もそれなりに古い歴史についての知識と関心があるらしい。
「またいつでも来るといい。気をつけてな」
「スォルビッツさんたちもお元気で」
「帝国に潰されないようにね」
海賊たちのアジトを出る際に一瞬、ヒューは帝国に対抗する組織への加入を望んで再びここを訪ねる未来を夢想したが、すぐに打ち消した。
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