第20話 湖畔の一日

 ノヴルで眺めた海の広大さとは比較にならないが、ゴスティアの街並みとその向こうに広がる湖を見た新しく到着したばかりの一団は、丘の上からの景色にしばらく目を奪われていた。

 ゴスティアのそばに広がるエニファー湖は大きいだけでなく、宝石の一種のような滑らかな青緑の湖面に、晴れた空を映している。観光名所としても有名で、いくつか小舟が浮いているのが見えた。

「きっと、あの湖には美味しい魚が沢山いるんでしょうね」

 聖霊は尾を風になびかせながら、景色に対し周囲の者たちとは違う感想を抱いたようだ。

 そのことばに、魔族のあきれを含んだ視線が向かう。

「動物はやはり、花より団子、色気より食い気か」

「なによ、食は生き物の生命の源よ。魔族みたいな得体の知れないもので生きてる幽霊みたいな存在にはわからないでしょうけどね」

「なにを……材質が違うだけで魔族も構造自体はほとんど変わらないぞ。食事はほぼ娯楽の一種ではあるけれども」

「まあまあ、美しい景色を見ながら食事……の前に、まずは料理自慢大会の受付を済ませて学者のかたを探してですね」

 ソロモンが割って入る。異界の出身者たちはいつもの調子だが、料理自慢大会に出場する二人の少女たちは普段と違う空気をまとっており、すでにピリピリとした臨戦態勢だ。それが医師を少し焦らせていた。

 少年も、同じ空気を感じていたらしい。

「い、意外とやることが多いですし……二手に分かれましょうか。大会の受付に向かうのと、学者さんを捜索する方」

 受付は今日一杯までであり、まだ時間は充分ある。しかし参加者としては、早めに出場登録を済ませて準備にかかりたいところだ。食材や食器は用意されるが、道具は持ち込みなのでその手入れもある。

 料理自慢大会の受付はレジーナとオーロラ、クラリスが行き、残りで情報収集に当たることにする。待ち合わせは、丘を下りて門をくぐってすぐに見えた、食堂〈碧眼の水面の物語〉亭という長い名前の看板の下だ。

「護衛が必要そうな様子でもないし、大丈夫そうだな」

「むしろ、向こうの方が我々よりしっかりしてそうですね」

 去っていく女たちの背中を見送りながら、そう感想を洩らす長身の医師に、魔族は見上げながら首を傾げる。

「なんだ。しっかりしてない自覚があったのか」

「そりゃ、クラリスよりはしっかりしてないですが……わたしだけじゃなくてですね。なにしろこちらは、異世界の住人と子どもたちですよ」

 そのことば通り、ソロモンを除けば土地勘の薄いソルと、彼よりはましとはいえ初めて訪れた町という点では変わらない少年に、その妹の幼女という組み合わせだ。

 確かに、とソルも納得しかけた様子だが、ララが先に口を開く。

「大丈夫だよ。町の人たちに聞けば、きっとなんでも教えてくれるもん。笑顔で話しかけると、みんな笑顔で返してくれるよ。ララが聞いてあげるね」

 少なくとも、四人の中ではこの少女が一番しっかりしているのかもしれない。兄は少し、妹に末恐ろしいものを感じていた。


 ヒューとララの両親と親交のあった考古学者は名をグレン・エルリーズといい、エルリーズ研究所を湖の向こうにあるイルニダにかまえていた。この辺りでも有名で、ゴスティアの住人たちも多くがその名を見聞きしたことがあるという。

 当然、イルニダ襲撃はこの町の人々にとっても大きな関心事だ。門にも多数の兵士が配置されていて、街に入るにも身分を証明できる物が必要だった。ヒューは持ち歩いていた調査書に挟んだ、博士から父への手紙が証明となったためすんなり入ることができた。

 食堂で話を聞くとすぐに、エルリーズ博士は図書館に避難しているという情報が得られる。それを教えてくれた店主は、去り際の四人に付け加えた。

「今は荒っぽいのも増えているから、気をつけるんだよ」

 街を歩けば、そのことばの意味は否が応にも実感できる。

 道行く人々の中に旅装が多いのは観光都市にはよくある光景だが、その旅装の種類として金属鎧を着けたり、本格的な武器を携えている姿が多い。

「傭兵志望の者が集まって来てるんだろうね」

 ソルのことばを証明するように、武装した者は皆、一方向をめがけて流れていく。帝国に襲撃されたイルニダに近い北門の方へ。

 ヒューはペルメールが傭兵を集めているという話を思い出す。そして、金を稼ぐために命を懸ける傭兵というものが多いことに驚く。皆、それほど自分の腕に自信があるということか。

 腕に命を懸ける戦士の中には、血の気の多い者も少なからずいる。図書館へ向かう道中、四人は怒号と破砕音を耳にした。

「そっちが通路に足出してるのが悪いんだろ!」

「一声かけりゃいいだけだろうが、短足野郎!」

 酒場の一軒から、傭兵らしい姿が二つ転がり出てくる。野次馬たちが輪になって遠巻きに眺める中、酒のせいもあるだろうが、二人の男は顔を紅潮させてお互いをにらみつけている。

 野次馬の中には『いいぞ、やっちまえ』などとはやし立てる者もいて、すぐに殴り合いの喧嘩が始まった。

「物騒な……怪我人が出なければいいのですが」

「警備隊も巡回しているようだし、すぐに仲裁が入るんじゃないか」

 一度は足を止めるものの、ソルはあまり関心がない様子で、横を通り抜けるため人垣の隙間を探す。

 そのとき、不意に野次馬たちから悲鳴が上がる。その声につられて目をやると、二人のうちの一方が大剣を両手にかまえていた。

「おい、武器を抜くのは卑怯だぞ!」

 誰かが叫ぶ。暗黙の了解で、傭兵などの喧嘩の際は凶器を使ってはいけないことになっている。荒くれ者を雇いたい依頼主はいない。重宝されるのは、あくまで契約を守る傭兵だ。

 しかし大剣を手にした男は退かず、その相手の方も身を守るために仕方なく、短剣を抜いて迎え撃つ。

「さすがに、死人が出るようだとまずいのでは……」

 ソロモンの眼鏡の奥の目が追う先、野次馬の中から警備隊を呼びに行く者の姿もあるが、おそらく間に合わないだろう。

 大剣をかまえた男が相手ににじり寄っていくのを見て、ソルが肩を落とした。

「仕方がないな……」

 人込みに上手く身体を滑り込ませ、黒衣の姿はするりと野次馬の輪から抜け出した。まるで手品のように突如現れた姿に、その場の誰もが呆気に取られる。

「だ、誰だお前は!」

 大剣の男が目を見開き、剣先を自分よりかなり小柄な黒尽くめの剣士に向ける。

「誰でもいいだろう……ただ、子どもたちの前で血生臭いのは遠慮してほしいからな」

 ララもハラハラした様子で見ているが、周囲にある子どもの姿は少女だけではない。付近の住民らしい子どもが、なにが起きているのかよくわかっていない様子で眺めていたりもする。

 だが、魔族のことばに男は笑う。

「武器を抜いたらもうここは戦場だぁ。いくらでも血に染めてやる!」

 支離滅裂なことを叫ぶなり、標的を新しく現われた姿の方に変えて、振り上げた大剣を相手の脳天めがけて下した。

 それなりに腕に覚えはあるらしく、一般人の目には素早い一撃と見えた。野次馬の中からは悲鳴が上がる。

 しかし、ヒューの目にすらそれは歪みのある攻撃に見えた。酒が入っていなければもう少し切れがあったのかもしれないが。

 ソルは半歩位置をずらし一撃を簡単に避け、相手の足を払って転ばせながら、その手に握られていた大剣をはぎ取った。何度も似たような場面を経験したとうかがえる早業だ。

「そちらはまだ続けたいか?」

 問われると、短剣を握る男は慌てて首を振った。武術や剣術の腕を測りかねたとしても、ソルが場慣れし過ぎているくらいなのは見ればわかる。

 転倒した男の方はソルに足で足を押さえられてもがく。そのうちに、警備隊たちがやってきて酔っ払い二人を引き取った。

「ソルさまは、やっぱり凄いね」

 合流する際に幼い少女が称賛すると、魔族はほほ笑む。

「そうだろう。ま、人間相手には負けないよ」

 少し得意げな彼の左右に近づく気配があり、すぐに表情が変わる。酔っぱらいの仲間が復讐しに来た――というわけではない。二人とも、制服姿だ。

「なにか用か? わたしは捕まるようなことはしていないはずだ」

「ええ、もちろんです。ただ、我々は腕のいい傭兵を探していまして……」

 警備隊員たちとしては、街を防衛するための傭兵にも腕の立つ者が欲しいらしかった。その方が街を守りやすいのは当然だが、彼ら自身の命の安全性も上がる。

「しかし、わたしは傭兵になりたくて来たわけではないからな。用事を済ませたらゴスティアを離れるから、傭兵稼業は無理だ」

 そう断ると、警備隊員たちは残念そうにしながらも引き下がる。

「傭兵と言ってもピンからキリまでですからね。質のいい者をそろえたいのでしょう」

 戦乱が起きると、傭兵稼業で身を立てようとする者が一気に増える。しかし実際のところ、その半分以上は自分の身も満足に守れるかどうか怪しいとされていた。

 しかし、傭兵に割ける人員などヒューの同行者にはいない。散り散りになる野次馬たちに混じり現場を離れた。

 それから通りを歩いている間にも、時折、どこからか荒々しい物音や怒鳴り声が流れてくることはあるが、視界に入らないものまでかまってはいられない。

 図書館は多くの町と同じように、公共施設の集まる中心部にあった。内部に入り司書に尋ねると、博士は閉架書庫の一角を借りているという。

 当然、誰もが自由に博士に会えるわけではない。しかしここでも、ヒューが持っていた例の手紙が役に立ち、すんなり案内された。

 貸し出されない書籍を保存する閉架書庫は照明も薄暗く、窓も表よりずっと小さい。しかし司書に案内された一角だけは、どこか生活感があり雰囲気が違う。

「初めまして。覚えているよ、よく資料や遺跡の出土品を寄贈してもらっていたんだ」

 訪ねてきた少年の名を聞いた白髪に白髭の老紳士は、最初はやや怪訝そうだったものの、すぐに納得顔になる。その後ろで助手らしき眼鏡の青年が資料を整理していた。

「こちらは、助手のマキシム・スロースだ」

「ど、どうも」

 紹介された助手は少し気後れした様子で、焦げ茶色の髪を掻きながら軽く会釈した。

 ヒューも簡単に同行者を紹介し、今までの経緯を話す。ハッシュカルが襲撃されたことはこの辺りにも伝わっており、博士も心配していたという。

「そうか、惑いの森に。調査書が無事なのは、考古学的には不幸中の幸いだったね。こう言っては悪いかもしれないけれども」

 博士は、調査書や遺物を預かってくれるという。貸し出されている閉架書庫の一角は広いとは言えないが、ゴスティアに留まるならその間、いずれ広い仮の研究室を提供してもらえることになっている。

 そういうことなら、とヒューがノヴル東の島の遺跡で入手した遺物を机の上に並べると、博士も助手も目を輝かせて眺め回し始める。まるで、新しいオモチャを手に入れた幼い少年のような目だ。

「書物の解読は時間がかかりそうだが……これなど興味深い。実際に開くときには魔術師の協力が必要だろうけど、鍵を探せるか資料や情報源を当ってみることはできるな」

「確か、どこかの遺跡で発見されたという資料があったはず……」

 それからしばらくの間、ヒューたちは待たされることになった。博士と助手は片っ端から資料を求めて棚や机の上を探る。目の前の机に置かれているのはもちろん、鍵穴がついた封印がなされたあの本だ。

「あの……」

 妹も立つのに疲れてきたように見える上、当人も待つのに飽きてきたヒューが口を開いたところで、博士は溜め息を洩らし首を振った。

「どうやらここにはないようだ。まさか、この状況でこのような本に出会えると思ってなかったからね……」

 彼らは襲撃の事前情報があって半日足らずで準備をして避難はしたものの、さすがに研究所のすべての資料は持ち出せず、貴重な資料や直近で使う予定のある資料を中心に運んできたのだった。

「探して取り寄せることはできるだろうが、少し時間はかかるね。数週間か、長ければ一ヶ月以上は」

「イルニダに取りに行くことはできないか?」

 ソルが提案する。それはヒューの脳裏にも浮かんだことだ。まだ待ち合わせまで時間はあるし、イルニダは近い。

「監視している警備隊に許可をもらえれば……しかし、帝国の手の者が入り込んでいるかもしれず、非常に危険だ」

「危険は慣れている。警備隊に掛け合ってみよう」

「そうですね」

 自らも本の中身が気になっているらしい魔族と視線を交わし、少年はうなずいた。


「何度経験しても苦手ね、列に並ぶのって」

 太陽がかなり高く昇っている空の下、少女二人と並んで通りを歩きながら、聖霊は肩をほぐすようにして回す。

 料理自慢大会の受付には、ユーグの宝石美人選定祭ほどではないものの、参加希望者の列ができていた。受付では調理可能な道具を持っているのか確認されるが、数名、道具の問題で辞退した者もいた。

「早めに会場入りしたいし、みんな、もう待っててくれるといいけど」

 レジーナはすでに大会のことだけしか頭にない。

 会場は中央区の開館を使うことになっている。予選として、簡単な試験が行われるのが夕方少し前からだ。

 待ち合わせの時間にはほんの少し早いが、三人は〈碧眼の水面の物語〉亭に到着する。

 それと、ほぼ同時だった。

「なんだあれは?」

 道行く人々の中から声が上がり、人の流れができる。建物と建物の間、北の方角へ。

 それを目の前にすると、三人もやはり気になってしまう。人々の集まっているところに近づいて視線を追うと、湖の向こうに黒い煙が一筋、立ち昇っていた。

「あれは……」

 その光景は記憶の中にあるものと重なる。

 炎上するハッシュカル。それに、レジーナは何度か山の向こうに昇る煙を見ている。見た翌日にはどこかの町や村が壊滅したらしいと報せが届くのだ。

 ゴスティアの人々の多くにも、似た光景の記憶があるらしかった。

「あれは……イルニダの方じゃないか?」

「まさか、また帝国兵がイルニダを……警備隊が監視しているはずだけど、大丈夫かねえ」

 不安と心配の混じったざわめきが広がる。中には、急いで自宅へ走り去っていく者もいた。近隣の町が襲撃された町の住民は、いつでも避難できるように準備をしておくことが多い。

 不吉な光景に焦燥感を覚えるものの、なにもできることはない。聖霊たちは野次馬の集まりを離れ、待ち合わせの店の看板の下に戻る。

「危険だから中止、みたいなことにならないといいけど」

「そうですね。それもありますけれど、先生たちが危ないことに巻き込まれてないといいですね」

「う……それはありそう。結局、イルニダまで学者を探しに行くことになったとか」

 通行人がほとんどいなくなった通りを前に、三人は並んで男性陣を待つ。

 日影なので熱やまぶしさはさほど感じないが、待つうちにも陽が頂へと昇っていく。もう待ち合わせの時刻は回っていた。

「まったく、こんな乙女たちを待たせるなんて……」

 オーロラがぼやき始めたころ、行き交う通行人の間を抜けて近づいてくる姿が視界に入る。

「お姉ちゃんたち!」

「あれ、ララちゃんだけ?」

 歩く人々の陰から現れたのは、小さな少女の姿ひとつだけだ。

 少女は急いで走って来たのか、息を切らせながら三人の前に立ち止まり、膝を押さえて息を整えてから話し始める。

「あのね、となり町に探し物を取りに行ったの。そしたら、帰りに隠れていた帝国兵たちが警備隊の人たちを襲ってて、ソルさまが足止めのために残ったの」

「帝国兵が……? 大丈夫なの? ヒューたちは?」

「お兄ちゃんは届け物をしに行ってる。ソロモン先生は船着き場でソルさまを待ってるよ」

 いくらソルが強くても、軍隊までは相手にできない――それは彼自身が言っていたことだ。

 ともかく、待ち合わせ場所にいても仕方がない。ララに案内してもらい、聖霊たちは湖畔の船着き場まで移動する。

 ララが伝えたとおり、湖を行く小舟と同じものの並ぶ桟橋の前に、白衣の医師が鞄の中身を整理しながら座っていた。

「あいつはまだ?」

「ええ、まだ戦闘中かもわかりませんし……ヒューさんが警備隊の応援を呼んでくれるはずなので、それがもうすぐ来るとは思いますが」

 対岸へ渡った舟は五人乗りだったが、警備隊員に重傷者が出たため、ソルが残りソロモンが治療しながら湖を渡ってきたという。怪我人は近くの病院に搬送されていた。

 間もなく、湖畔への道が騒がしくなる。振り返った者たちの目には、慌ただしく駆けつけてくる制服姿が映る。街中で見かける姿と違い盾と短剣で重武装している一団が、空いている小舟へと殺到した。

 湖には今もいくつか小舟が出ているが、それを蹴散らさんという勢いで二隻の小舟が美しい湖面へ滑り出していく。

 それを見送っていた時間は、そう長くはなかった。

「お兄ちゃん!」

 警備隊を追いかけるように近づいてきた気配は、見慣れた少年のものだ。

「資料を置くだけ置いて、警備隊と戻ってきました。ソルさまは……?」

 息を切らせながら顔ぶれを見渡し、返答を察する。

 湖の向こうには、もう煙はひとつも昇っていない。どうやら戦闘自体は終了したと見てよさそうだった。

「無事だといいんですけど……」

 警備隊を襲撃した帝国兵たちは屋内に分散して潜んでいたようで、ヒューたちが気がついた頃には警備隊を取り囲んでいた。その数は百に届くほど。

 イルニダに派遣されていた警備隊は、せいぜい三〇人程度だ。ヒューたちが介入しなければ早々に全滅していてもおかしくない。とはいえ、ヒューがやったのは警備隊の逃げ道を作る手伝いくらいであり、百名近くの敵を足止めできるのが想像もつかない。

 ――一度に百人を相手にするわけじゃないし、ソルさまなら勝算はありそうだけど……。

 彼らは息をのみ、湖を見渡す。

 警備隊の舟が真っ直ぐ進んでいく一方、のんびりと浮かぶ舟がいくつもある。釣り船か、事態を知らない観光客のものか。

 向こう側からこちらへやってくる舟はないかと、待ちわびる気持ちでいると。

 ガサリ。

 湖畔の茂みかなにかが音を立てるのにつられ、皆の視線がそちらに向く。

「あっ……ソルさま!」

 最初に気がついたララが声を上げて駆け寄ると、ほかの皆もそれに続く。

 茂みの間を抜け木の幹に手をかけて立ち止まった黒衣の姿は、一見したところ大きな怪我もなさそうだが、近くで見ると服のところどころがほつれ、左脚を軽く引きずっているようにも見えた。

「ソルさま、お怪我は?」

 ソロモンが医者らしく顔色や脈を診るのに任せながら、魔族は大きく溜め息をついた。

「ああ、大丈夫……少し疲れたが。帝国兵の相手より、その後の怪我人の治療と、ここまで歩いてくるのがな……」

「舟は残っていたと思いますが、なにか問題が……?」

「残っていた舟は焼かれてな。治療に集中していて気がつかないうちにすべて燃え尽きて沈んでいた」

 おそらく、先ほどオーロラらも目撃した煙は舟が燃やされた煙のようだった。

 帝国兵たちは全員武装解除して閉じ込めてきたという。応援に向かった警備隊たちだけでもあとは対応できるだろう、というのがソルの見立てだ。

「では、先に宿を取って休憩していましょう。博士の方も、資料を調べるのに時間がかかるでしょうし」

 どれが鍵に関する資料かなど、とても確認している余裕はなかった。イルニダの研究所は半壊しており、回収できる物を手当たり次第に手にして持ってきただけだ。

「じゃあ、その間にわたしたちは会場に行っておくわね」

 束の間の騒動が終わると、少女たちは大会のことを思い出す。今は遺跡の出土品やイルニダの状況よりも、レジーナとクラリスにはそれが大きな関心ごとだった。


 資料については明日話そうとなり、ヒューはエルリーズ博士のもとを出ると料理自慢大会の会場に駆けつけた。ソルとソロモンが宿に残り、残り五人が会場入りしている。

 参加者は百人を超え、一次予選で一割が、二次予選で三割が落とされた。一次予選では料理はせず、道具の使い方、清潔さ、なにを用意したかを見られ、二次予選では包丁の扱い方や茹で加減といった基本的な技術を見るためロールキャベツを作らされる。

 それでもまだ、五〇人を超える参加者がいる。

「まだ、ルナっていう参加者は見当たりませんね」

 自作のフリル付きのエプロン姿のクラリスが会場を見渡して息を吐く。

 会場には樽や食器の用意された長めのテーブルが何列も並び、奥に少し高くなった審査員たちの席、左右に観客席がある。観客には出場者の関係者のほか、整理券で抽選を経て入った純粋な見物客、そして大会関係者席では腕のいい料理人を求める業界関係者も目を光らせているようだ。

「ルナさんとお会いするためにも、このまま勝ち進まないとですね」

 ここまでは二人とも勝ち進んでいる。しかし、当人たちもヒューやオーロラも、二人はかなり不利だろうと見ていた。優秀な料理人に教わることはできたものの、ほかの参加者とは準備期間が違い過ぎる。技術があったとしても、作れる料理の種類が圧倒的に少ない。

 三次予選の準備をする少女たちをよそに、観客席から兄妹とオーロラはルナという名の少女を探してみるが、茶色の髪の可愛らしい少女、に当たりそうな人物は複数いた。オーロラが見ても、数人は似た雰囲気の者がいる。

「あとは、もっと近くで見るなり声を聞くなりしないとわからないわね」

 大会が進めばルナという名の参加者が近くで見られることもあるはずだ。

 二次予選の後、少し休憩を挟み三次予選が始まる。ここでかなり振るい落とされるようだ。発表された課題は串焼きとサラダだ。串焼きの具やサラダに使う食材は、用意された中から自由に選ぶことになる。

 限られた時間の中、レジーナは豚串と季節の野菜のサラダを、クラリスは鶏肉の団子のハーブ煮を串に刺した物と豆とキノコと根菜のサラダを作る。

「ここにいるとお腹が減るわね……」

 匂いは観客席まで漂ってくるが、観客席は大会終了後の試食まではただ見ることしかできない。ほかの観客も同じ心境のようで、どこからか腹が鳴っているのが聞こえてくる。

 予選が終了すると、合格者が読み上げられる。その中に、レジーナの番号はなかった。

「やっぱり、準備期間が短過ぎたかしらね」

「悔しい……けど、確かに。みんな、この日のためにずっと長いこと頑張ってきた人も多いんだろうし」

 エプロンを脱ぎ、レジーナは観客席に回る。

「ちょっと楽しみながらなんて、甘い考えよね」

「まあ、まだ先は長いから、いつか再挑戦しようよ。凄く楽しそうだったし」

「へ……そ、そう?」

 となりに立つ幼馴染みのことばに、少女は意外そうに返事をした。

「ああ、レジーナがボウガンの訓練とか、生きるために必要なこと以外であんなに熱中しているのを初めて見た」

 短い人生の多くの年月の部分を共に過ごしているが、ヒューはレジーナが趣味に打ち込んでいるような場面は見たことがない。読書や散歩などをすることがあっても、それはあくまで実用的な目的があったり、暇潰し程度に見えた。

 それも仕方のないことだ。家族もなく一人、毎日を生きるだけでも精一杯に近い。ヒューも生きるのに必死なのは同じだが、祖父や妹がいるだけでも良い方だ。

「そう……そうかも。確かに、楽しかったし。また機会があれば腕を磨いて、こういう大会にも出てみたいわ」

「もう一年も勉強したら、きっとかなり上達するわよ」

 一年先のことまで考えられる余裕のある生活ではないが、それでも少女にとって大きな目標として胸に刻まれたようだ。

「これより本選を開始します」

 審査委員席の声で、皆は我に返る。

 参加者は三〇人足らずに減っていた。ここからは五人ずつで一試合とし、一回戦六試合、上位二名の一二名を四人に分け二回戦三試合、準決勝二試合、決勝と進む。決勝に出られるのは二名だけだ。

 本選一回戦の課題は〈スープ〉。参加者は、思い思いの具と味付けで、渾身の料理を手早く作っていく。時間は無限に使えるわけではない。審査員席の前にある大きな砂時計が落ちるまでの間、約十分が与えられた時間だ。

 休憩を挟みつつ試合は進み、二時間以上が経つ頃には窓の外もすっかり暗くなっている。

「ああ、わたくしもまだまだ修行が足りませんね」

 クラリスは二回戦が終了したところで観客席に加わる。

「初出場でこれくらい行けたら凄いのでは。何度も出てる人もいるみたいだし。ほら、ルナさん、って人も……」

 そこまで言って、ヒューは本来の目的を思い出した。彼だけでなく同行者たちも、勝負の行方や美味しそうな料理の見た目と匂いなどに気を取られ、目的を忘れかけていた。

「勝ち残っているかしら。あの子はどう?」

 すでに準決勝が始まっている。レジーナは向こう側のテーブルで料理の腕を振るう女性を指さした。小柄で茶色の髪、顔はよく見えないが、眼鏡をかけている。

「うーん、確かに似てなくはない……」

 聖霊は自信なさげに言う。これまで参加者は番号で呼ばれており、その名は確かめようがない。

 しかし、数十分後。

「今回の優勝者は、ルナ・フィルナーさんです!」

 審査員がその名を呼び、歓声が上がる。呼ばれたのは茶色の髪の、小柄なあの女性だ。

「やった! ありがとうございます!」

 彼女は喜びを爆発させ、眼鏡を取って目もとを手の甲で拭う。見上げたその目は、鮮やかな緑色。

「あの目、あの声……別人ね」

「そうですか……」

 ヒューは肩を落とすが、落胆は当のオーロラの方が大きいだろう――と目を向けると、聖霊は少し嬉しそうに、準備されてテーブルをつなげられていく中央部を眺めている。

 テーブルの上にはさまざまな料理が並べられ始めている。観客も参加できる試食会が開催されようとしており、それがオーロラの心をしっかりつかまえているらしかった。

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