第34話 悪意なき偽り
都市国家ムジカは帝国からそう遠くないためか、強固な城壁に囲まれていた。門の奥からはかすかに賑わいが聞こえてくる。そして、高い建物の屋根の向こうに巨大な建造物の一部が見えた。
「子どもたちは入らない方がいいぞ、危ないから」
事前の情報からの印象と違い、門番は親切に忠告した。
いくら治安が悪いとはいえ、すべての住民が凶暴なわけでもない。それを実感できて、旅人たちは少し安堵した。
「では、買い物の方はよろしくお願いします」
少年が代金を入れた小袋を差し出すのは、魔族の剣士と光の聖霊、金縁眼鏡をかけた長髪の医師。
聖霊が受け取ろうとしたのを、医師が素早く横取りする。
「オーロラさんは違う物を買ってしまいそうですし、わたしが預かりますね」
「ぐっ……仕方がないわね。まあ、ソロモンがあたしの財布みたいなもんだし」
聖霊のことばに今度はソロモンが、ぐっ、とことばを詰まらせるが、あながち否定はできない現状のためか、単純に波風を立てたくないのか、反論はしなかった。
「ドラクースもついているし大丈夫だろうけど、気をつけてな」
魔族の手が竜馬の首をなでると、肯定するように低い鳴き声が響く。
「ソルさまも……オーロラさんとソロモン先生も気をつけて」
馬車に残るのは兄妹とレジーナだ。そういうわけではないと知りつつも、ヒューは自分が留守を任されたつもりで〈シャグラの剣〉の柄の感触を確かめる。ふととなりに目をやると、幼馴染みもボウガンの挙動を確認したところだ。
「では、さっさと用件を済ませてしまいましょう」
「ちょっとくらいコロシアムを覗いてもいいわよね」
「行くなら一目見るだけですからね。時間的にも金銭的にも、賭け事をするような余裕なんてとてもとても……」
話しながら門の向こうへ去る大人たちを、残された少年少女たちは多少の緊張感をもって見送った。
ムジカの町の門に近い辺りは、予想より静かな様子だった。道は土を固めただけで、少し離れたところには畑も見える。しかし前方を見ると道は中心部に近づくと石畳に変わり、建物も増えていく。時折、喧騒が行く手から風に運ばれてきていた。
「ほら、あそこにいるのも参加者かもしれないわよ」
オーロラが奥に目ざとく武装した男たちの列を見つけた。コロシアムの大きな灰色の壁に沿うように歩いている。
「オーロラさんは本当にコロシアムが好きなんですねえ……一攫千金、なんてのは夢のまた夢だと思いますが」
「違うわよ。賭けで一攫千金、も夢があるけど、命をかけた戦士たちが自分の知恵と知識・技巧・肉体のすべてをぶつけ合う……ね、心躍るでしょう?」
あきれの溜め息交じりの医師に、聖霊は拳を握って力説する。その熱意にほだされたか、ソロモンは眼鏡を押さえ考えるような素振りをした。
「一試合見るだけならそれほど時間もかからないか。仕方ない、買い物はわたしが行くからその間に覗いて来るといい」
ソロモンが口を開く前にソルが提案する。
医師はさらに考え込むような様子だが、聖霊は満面の笑み。
「一試合だけなんてケチな話だけど、子どもたちも待ってるし仕方ないわね。じゃ、早速行ってきましょ」
「大丈夫なんですかねえ……」
疑問を口にしながら、医師はヒューに渡された財布を取り出し、そこに自分の財布から二千レジーを取り出して加え、ソルに渡す。
「子どもたちを待たせてしまうので、お菓子でも買って行ってあげてください。あ、残りはソルさまのお小遣いにでもしてください」
「子どものお使いじゃあるまいに……気をつけて行って来い、負けた参加者や観客の八つ当たりに巻き込まれるかもしれないからな」
ソルの親切なことばにソロモンは声をひそめ、
「こちらが八つ当たりされる側なら、それはまだマシかもしれません」
小声でささやくのに、ソルが目を細めうなずく。それを少し離れていた聖霊は怪訝そうに覗き込もうとする。
「なにをナイショ話して」
「いえいえ、こっちの話です。では、ソルさま、お任せしましたよ」
軽く連れの背を押して立ち去っていく白衣の背中を、魔族の剣士は少しの間立ち尽くして見送っていたものの、すぐに商店街へ続く道へとマントの裾をひるがえす。
試合中はコロシアムとその周辺以外にそれほど人の姿は多くないようで、行き交う姿はまばらだ。地元らしい風体の者よりは旅人、武装した姿が多くはあるが。
土を踏み固めた道は歩みを再開してすぐに石畳に変わる。そこから数歩進んだところで、小さな悲鳴に似た叫びが魔族の耳に届く。
道の両脇に等間隔に並ぶ木々の向こう、古そうな家と家の間に動く気配を追って、彼は素早く細い隙間に駆け込んだ。右手は刀の柄に置きながら。
「なにをしている?」
薄暗い周囲に血の臭いが漂う。
左腕に厚く布を巻いた焦げ茶色の髪の少年が布の上から斬られて血を流し、三人の少年たちがそれを囲む。一番体格のいい灰色の髪の少年が剣を握っている。刃から鮮血をしたたらせながら。
「なんだ、あんたは?」
「こちらのセリフだ。剣を抜いた者はその刃に責任を持たなくてはいけないと知っているんだろうな?」
ソルの右手が短い金属音を鳴らす。少年たちは表情を引きつらせ、目を丸くした。
「よ、よそ者が手を出すな! た、ただオレたち、試し斬り屋の客なだけだ」
「試し斬り屋……?」
それは、彼が聞いたことのない単語だった。
その動きが止まる間に、三人は逃げ出していく。止めようと身を返しかけたのを、負傷したままの少年が右手でマントの裾を引いて止めた。
「だ、大丈夫……それにピラムたちの言う通りだし」
痛みに顔をしかめながらも、慣れた様子で幾重にも巻いた布を取り、袖をめくる。できたばかりの傷の他、肩から腕にかけて、いくつも刃物によるらしい傷跡が刻まれていた。古いものから最近治ったと思われるものまで。
「わたしが治してやろう」
ソルがが少年の腕を取り、治療魔法を使う。少年は目を見開いた。
「凄い、魔法……? 初めて見た」
声を上ずらせてはしゃぐ姿はまだ無邪気な、十代半ばの少年そのものに見える。しかし来ている服は裾が千切れたようで、繕ったような跡も多数あった。
「家族はいないのか? 名前は?」
「ヴァルナスだよ。両親は七年前に病気で死んだ。でも、親父はあいつ、ピラムの父親に借金があって……だから、試し斬り一回で一ヶ月の返済をチャラにしてもらっていて」
「だからって、こんなことをしていたら死んでしまう!」
怒気をはらんだ声に、少年は一瞬怯む。
「でっ……でも、なんの取り柄もないオレには他に方法が……それに、借金はコロシアムで優勝でもしないと返せない金額だし」
傷を治しながら、ソルは目を細める。
「コロシアムの試合とやらには、誰でも出られるのか?」
「ええ……二〇人受付で溜まると、ひとつの大会が開催される仕組みです」
それを聞いた魔族の赤茶の目が、街の中心部に向けられる。
「大会で優勝すれば借金は返せる、と」
「でもそんな、無理ですよ。勝つためには試合で相手を殺してもいいんだ。つまり、殺される可能性もあるんです」
少年は慌てて首を振り、さらに説明する。
コロシアムが動き出して、この町にはさまざまなことが起きた。一獲千金を夢見る荒くれ者どもが流入して治安が悪化し、自分の子どもを試合に参加させる親たち、賭け事で身を亡ぼす大人たち、誘拐してきた子どもを参加させる犯罪者――平穏を望むまともな親子らは他の町へ脱出するが、そのための資金がない者は怯えながらどうにか暮らしているという。
「両親はオレを生かそうとしてくれた。だから生きていたいんです」
傷の消えた腕を眺めながらそう訴える少年に、ソルは疑問の目を向ける。
「しかし、試し斬り屋などやっていたらいつか死ぬぞ? 血も足りなくなっているだろう」
見るからに少年は血の気が薄く、手足も痩せ細り頬もややこけている。
「これでも、一週間もすれば平気になりますよ」
それは若さゆえかもしれない。しかし、他の一般的な同年代の少年より細く小柄で、栄養が足りていないことはあきらかだ。
「ちょっとこの辺りで待っていろ」
そう言い残して、魔族は商店街へ向かった。
必要なものを買い馬車で待っている子どもたちにお菓子類を買っても、ソロモンに渡された金額は少し余る。ソルはそこから、ハーブソースで味付けされた大きなパンと日持ちしそうなチーズと干し肉の塊、木の実の詰め合わせを買う。
「いいんですか、こんなに?」
遠慮がちには言うものの、空腹の育ちざかりの少年が久々に食べ物を前にして食欲に勝つのは至難の業だ。結局、ヴァルナスはむさぼるようにパンを食べ始めた。食事ができたのは三日ぶりだという。
「……試し斬り屋は借金を返すためにやっているなら、生きるためにできていることは他にあるんだろう?」
橋の下、少年のとなりに座って小川を眺めながら魔族は問う。
「食べられる野草や魚を取って食いつないでいるけど、それも競争で……最近は身寄りのない子をさらう人買いがうろついているからなかなか手に入れられないんです」
「この町を出たくはないか? 借金なんて放っておいて」
「それは……一応、ピラムの親にはうちの両親が世話になったんだし」
自分の命がかかっているというのに、あきれるほどの義理堅さだった。思わず魔族は苦笑する。
「なら、わたしがコロシアムの大会に出て賞金を稼ごう。どうせ旅の者だ、もう一人くらい馬車に増えたところでかまわないから違う町へ送るよ」
黒衣の旅人の申し出に、少年は目を見開いて驚く。
「どうして、そこまで親身になってくれるんですか?」
その質問に、相手は一拍だけ考えた。
「簡単に言えば、わたしの気が済まないからだ。放置して行けばきっとこの先も気になって後悔することになる」
その目が小川の向こうの、土手ではなくどこか遠くを見つめる。
「どうしてそこまで気になるか……わたしは子どもに優しい、と言った者がいたけれども。それはもしかしたら、キミたちがわたしにないものを持っているからかもしれないな」
ソルには子ども時代というものはない。ヴァルナスは知る由もないが、深く追求することはなかった。少年には、大人が昔を懐かしんでいるようにも思えたかもしれない。
「でも、それじゃあなんと礼を言っていいか……」
「元気に暮らして、たまに思い出してくれればいいさ」
ほほ笑み、魔族は遠くに見える大きな建物を振り返った。
丁度門の方を見ていたヒューは、すぐにその下をくぐり近づく姿に気がついた。
「ソルさま! オーロラさんとソロモン先生は一緒じゃなかったので?」
帰ったのは黒尽くめにマントの姿だけだ。彼は荷台に買ってきた物を置く。
「ああ、コロシアムにな。すまないがわたしも用事ができた。少し時間がかかりそうだ」
これはソロモンから、とクッキーや飴、芋を細切りにして固く揚げた菓子が袋に入った物も並べられる。ララは目を輝かせるが、その兄は不思議そうに見返す。
「用事って、ソルさまはどこへ?」
「わたしもコロシアムに用がある。できるだけ早く片付けるから待っててくれ」
言うだけ言うと、さっと馬車を離れていく。声をかける間もなかった。
ヒューは幼馴染みと顔を見合わせる。
「ソルさま、なにかに巻き込まれてるんじゃ……」
「コロシアムに用がって、他の二人とは一緒じゃないのよね。ということは……まさか、試合に参加するつもりなんじゃ?」
ソルは賭けには興味を抱かないだろうし、自分の意志だけで試合に参加するとも思えない。なにか事情がありそうだ、と簡単に想像できる。
しかし彼は一人でも大丈夫だろう。追って街の中に入ればララを危険にさらすことになる。
理性では理解している。しかし気になった。好奇心と、異変に気がついていながら放置することへの罪悪感、一抹の心配。
「お兄ちゃん、ソルさまはなにか隠してるよ。そういうときは、周りに止められそうな無茶をしそうなときだよ」
妹のことばはそのまま兄の心境を代弁している。
「今なら自分ともう一人くらいは守れそうかもしれないわね」
レジーナは軽くボウガンを叩く。
再び目を見合わせたときには、三人の心は決まっていた。
コロシアムはこの辺りの町の中でも、かなり巨大な建造物だ。帝国ならばともかく、ひとつの町がどうやってこれほどの物を建造したのか――そう疑問を抱いた者も近くで眺めると納得する。ここは古代遺跡を改装したものだ。
中央に試合が行われる四角い舞台があり、それを囲むように輪状に客席が配置されていた。席は階段状になっており千人近くは入るだろう。現在はさすがに満席ではないが、半分は埋まり歓声や激励、ときに罵声を下に浴びせた。
今、観客たちは様子をうかがうように静かだった。
舞台上の審判が声を張り上げて新しい大会の第一試合第一回戦の参加者を紹介する。体格のいい流れ者の傭兵と、小柄な旅の魔法剣士。観客の多くは紹介と外見を頼りにどちらに賭けるのかを決める。
試合が始まる前に、観客が賭ける側を示す印付きの小石を係の者から購入する。石はいくつか種類があり、賭けた額が値段になる。
「あ、いたいた」
この場にそぐわないような若い声に、観客席の端のできるだけ目立たないところに座っていた二人連れは、驚きと理解が半分ずつ混じったような顔をする。
「皆さんおそろいで……無事に来られましたか」
「道中は意外と静かでしたからね」
医師に答えながらも、ヒューは妹と幼馴染みと一緒に二人の同行者の横に腰を下ろすと緊張の糸が切れたように長い息を吐いた。
その直後、さざ波のような感歎の声が観客席を駆けていく。
眼下の舞台上では試合が開始され間もないが、すでに大柄な傭兵は舞台の下へと転がされていた。
「よっし、勝ったわね!」
聖霊が購入していたらしい小石を軽く弾き上げ、空中でしっかりと捕まえて握りしめる。周囲の人々も悲喜こもごもの声を上げていた。
「このままソルに賭け続ければ大金が手に入るんじゃないかしら」
――しかし、そう良いことばかりに行き着くだろうか。
ヒューは楽観的な気分になれず、緊張を残したまま地上を見守る。舞台上は手際よく試合が進められていく。二〇人の参加者が十人、五人と減り、準決勝は以前の大会の優勝者も含め四人で戦う。
準決勝まで進んだ頃には、淡々と敵を即座に倒していく黒衣にマントの魔法剣士はそれなりに人気を集めていた。勝利条件は相手を殺す、降参させる、場外に落とすのうちのどれかであり、常に相手を場外に落として勝利するため、血を見たい者たちには不評だったが。
「ん……?」
準決勝の相手の姿を見て、舞台上のソルは小さく首を傾げる。
「確か、ピラムといったか」
控室から出てきて舞台上に向かい合って立つ少年は、見覚えのある顔。灰色の髪の少年が手に握るのは、ヴァルナスで試し斬りをしたあの剣だ。
「これに出るのが稼ぐのに手っ取り早いからな。あんたみたいに、他人に賞金くれようなんて余裕のあるよそ者とは違うんだ」
審判が手を挙げて試合開始を告げる。
ピラムは一気に走り出して間を詰める。不意討ちには距離が開き過ぎている。ただ、勢いをのせるためだけの突進だ。
しかしそれを、ソルは刀で難なく受け止める。
「余裕はない。でも、知ってしまえば放置はできないからな」
「なにを、甘いことを……」
少年は力をかけようとするが、さすがにまだ成長期で未熟な少年の腕力はソルに及ばない。
刀が横に振り抜かれる。その勢いのままにピラムは転がり、舞台の下まで落下した。
「勝負あり!」
審判が手を振って合図をすると、どっと観客から歓声が降ってくる。
十数秒で勝負を終えたソルは刀を納め背を向けるが、戻ろうとして足を止める。観客たちの声にまぎれて、少年の声がその耳に届いた。
「ちくしょう……ちくしょう!」
彼が声の元に近づくと、ピラムは場外の石畳の上に倒れ伏して鼻血を流しながら、悔しげに顔を歪めていた。
「これで外に出られると思ったのに……金を手に入れて、ここから脱出して、そうすれば。なのになんで……ヴァルナスにはあんたみたいなのが現われるのに」
「ここまで勝ち進んだんだから、いずれ優勝できるだろう?」
「ここまで来るのに何度もかかったし、今回は運がよかったんだ。優勝するまでに死んじゃうよ。オレだってヴァルナスみたいに、誰かに助けてほしかったんだ」
涙声で訴えるその様子は、今までより子どもらしく見えた。大人に助けを求める、未熟な子どもそのものに。
魔族の剣士は舞台を飛び降りると、少年のそばに屈みこむ。
「なら、ヴァルナスとも協力し合えばいいだろう。こうして傷つけ合うような場所にいる必要もない」
その手から温かそうな光がそそがれる。すぐに少年の出血も止まったようだ。
放って置いてもすぐに自然治癒するような軽い怪我であり、長い時間ではない。治療のわずかな間に少年の手が動くのが、背後側の観客席にいたヒューたちには見えた。
あ、と思ったときには遅い。叫んでも周りの歓声にかき消されてしまう。駆け寄ろうとするが、あまりに遠かった。
ピラムが倒れたまま持ち上げた右手には隠し持っていたらしい短刀が握られていた。それは魔法に集中していたソルの背中を容易く捉え、後ろから腹までつらぬく。
「ここまで勝ったなんて根回しに決まってるじゃないか。まったく、あんたのせいで計算狂っちまったぜ」
ピラムのことばはまだ階段を駆け下りるヒューたちに聞こえていないが、短刀が引き抜かれ倒れ込むソルに、再び刃が振り下ろされようとする光景はしっかり目に届く。
聖霊が懐から木片を手に取るより、レジーナがボウガンの矢を発射する方が早かった。矢は灰色の髪の少年の手から的確に短刀を弾き飛ばす。
駆け付けた聖霊が少年を蹴り転がし、医師はソルのそばに屈む。
「ソロモン先生」
「大丈夫です、急所は外したようですし」
ソロモンの手にはバサールから渡されていたソルの分の護符が真っ二つになっておさまっていた。意識はなく傷は貫通しているが、傷自体はそれほど大きくもない。
「でも、なんのために……」
観客たちがざわめく中、治療魔法を使い始めた医師のとなりでヒューが視線を巡らせると、少年が二人、転がされた少年に駆け寄ってくる。
「ピラム、上手くいったぜ。そこそこの値で売れた」
「そうか……優勝賞金には足りないけど仕方がねえ。まったく、無駄骨だぜ。この大会で優勝して賞金を渡そうにも、もうヴァルナスはいないってのによ!」
少年たちは笑う。
それは、近くで聞いていたオーロラの神経を酷く逆撫でしたようだ。
「ヴァルナスって誰よ。教えなさい!」
細腕に似合わぬ怪力でピラムの襟首を締め上げる迫力に、その友人たちも恐れをなした。
「貧乏人の、身寄りのない子だよ。ピラムの親に借金があるんだ。この大会で優勝すれば返せるくらいの金額の借金だ」
そこまで聞くと、ヒューらも事情を理解する。
オーロラはさらにピラムを締め上げ、少年の唇は青くなり泡を噴き始める。
「今すぐ、その子をここに呼び戻しなさい。いいわね?」
有無を言わさぬ迫力。
もともと吊り上がった美女の目はさらに鋭く少年たちを射抜き、目で殺されるのではないかと見る者に思わせるほどだ。
視線を向けられている者たちはガタガタと震えて腰が抜けたように地面に座り込み、舌もよく回らない様子だ。
「そっ、そんな無理です、もう人買いと一緒に馬車で町から出て、どの道を行ったかもわからないよ」
それを聞いた聖霊は牙のような八重歯を剥き出しにしばらく少年たちを睨みつけていた。まるで、相手を喰らおうかと考えている獣の表情にも見える。
しかし、いくら気が晴れなくても、現実的には無理難題だった。
ギリギリと歯ぎしりしながら、美女は少年の身体を放り出す。それを見ていたヒューは、あまりの怒気にオーロラがさらに少年を攻撃するのではないかと心配した。だが、彼女は振り切るように身体の向きを反転させる。
「助けたかった子がいなくなっちゃったって知ったら、ソルさまは悲しむよね……」
ソルの脇に座って手を握っているララのことばに、周囲の皆はことばを返せずただ顔をしかめるしかなかった。
ドラクースの牽く馬車は震動も少なく快適だが、速く走っている分、段差などは強く感じられた。たまに石畳の出っ張りなどに車輪が乗り上げると、幌に覆われた荷台もガタンと大きく上下する。
何度目かの揺れを切っ掛けに、魔族は目を開く。
「ん……?」
「ソルさま、大丈夫ですか?」
馬車は動き、御者台で手綱を握る白衣の背中がまだ曖昧な視界に映る。そして次に、覗き込んでくる子どもたち。
「もうムジカを離れたか……」
彼は独り言のようにつぶやくと、目をしばたいて身を起こし、少しぼんやりとした表情で見回した後、思い出したように顔を上げる。
「ヴァルナスは? あの町に知り合った少年がいて、賞金はその子に行く手はずになっていたんだけども」
今となっては意味のない質問かもしれない。ソルは少し不安げに尋ねた。
しかし、ヒューはすべて知っている様子で応じる。
「ええ、聞きましたよ。手に入った分の賞金と、ソロモンさんからの寄付と、多少の食糧を渡しておきました。行きつけのお店の人に違う町への脱出を考えている人がいたようで、近いうちに協力してエルメアに行くことにしたようです。お礼を言ってましたよ」
少年の笑顔はやや硬くも見えたが、ソルは疑うことはなかった。
「そうか。それなら良かった」
――これで良かったんだろうか。
ヒューの胸を罪悪感がチクリと刺すが、目の前の笑顔を見ると、彼を悲しませるだけの事実を告げることに何の意味があるのかと思う。
「帝国の方がまし、なんて町があるなんてね」
荷台の端、幌の出入口の巻き上げられた布の外の景色を眺めながら、聖霊が誰にも届かない小さな声でつぶやいた。
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