第35話 好敵手のいる里

 ドラクースはいつまでも走っていられるかのように疲れ知らずな上、そのように広い大地を駆けることに喜びを見出した様子にも見えた。

 しかし、いくらその走りが柔軟で震動が少なくても、毛布などを厚く敷いてさえ長時間座っていれば人間の腰には限界が来る。体力、腹具合にも。

「この辺で休憩にするか」

 周囲に木々が増えてきたところで御者台のソルが手綱を軽く引き、ドラクースに合図を送る。

 かなり陽が高くなっていたが、行く手に枝葉を豊かに茂らせた大木がそびえていた。その根もとなら日差しも遮られ、涼しく過ごせそうだ。

 馬車の車輪が停止すると荷台を降りた者たちは、思い思いに身体を伸ばして筋肉をほぐす。

「水の匂いがするわね」

 腕を伸ばし背中を反らしながら、聖霊は鼻を小さくひくひくと震わせる。

「食事の後のお茶も飲みたいところだし、水辺を探してみるわね」

 周囲は木々がまばらに生える間に雑草が高く伸び放題の藪が広がっている。そこに草を踏み倒して分け入っていくレジーナに、「お手伝いするね」とララも続く。

「じゃあ、火も準備しないと」

 ヒューとソロモンは太い根の間のできるだけ平らなところに敷物を広げ、枯れ枝や乾いた草を集めて魔法の火を灯す。少年の魔法もすっかり手慣れていた。

 ソルはドラクースの身体についた土埃や草などを払って拭いてやる。馬とは違い逃げ出すことはないのでつなぐこともなく、食事もあまり必要としないようで手間はかからない。

 日陰とはいえ真昼間の気温なので、焚火は少し離れたところに起こされていた。聖霊が敷物の上で食糧の包みを開く。

「これもなかなか美味そうね」

 出てきたのは木の実や蜂蜜入りの饅頭に似た丸いパンと瓶入りピクルス、干し肉を食べやすい大きさに切ったもの、そして黄色の小ぶりの果実がそれぞれ六つ。

 それを人数分に分けようと、オーロラが手を伸ばしたとき。

「痛い!」

「大丈夫?」

 ララの悲鳴が響き、レジーナの少し慌てた声が続く。

 妹の声を聞いた時点でヒューは駆け出していた。ソルとソロモンも遅れず背中を追う。

「ララ!」

 踏み倒された草の道の先、ララが屈み込んでいるのをレジーナが覗き込む。近くで見ると、少女の足首に赤い点のような傷が散っている。

「ララね、蛇を踏んで怒らせちゃったみたいで……」

 痛そうな顔をしているものの、意識はしっかりしており声も弱くはない。

「蛇に悪意があるわけじゃないから、警告の指輪も発動しなかったか」

「毒もなさそうですね。すぐに治せますよ」

 ことば通り、小さな傷は医師の治療魔法ですぐに塞がる。

 その様子を、少し離れて聖霊も覗いていた。

「こんな藪を払うのなんて、男たちにやらせりゃいいのよ。蛭だの虫だのもいるかもしれないし」

「確かに、なにが潜んでいるのかもわからないし――」

 ヒューが反省してことばを続けようとした、そのとき。

 不意にソルが動き、聖霊を突き飛ばす。その背後の茂みに向けて。

「ちょっ!」

 背中から草の束の上に転倒しながらの彼女の抗議は、しなるような乾いた音により止められる。そばの木の幹に突き立った、短い矢が震えていた。それはレジーナが扱うものとよく似ていて、小型クロスボウガンの矢だと推測できる。

「誰だ!」

 刀の柄に手をかけてソルが声を張り上げる。

 その目が見据えるのは眼前に広がる藪のさらに向こう、小高い丘の上だ。

 応えるようにすぐに一人の男が現われる。その姿は予想していたような野盗などではなく、ヒューやレジーナとあまり変わりない年頃の少年に見えた。現われるなり彼は、一度驚いたような表情を見せ、

「た、大変申し訳ありませんでした!」

 深々と頭を下げてそう叫んだのだった。


 旅人たちと遭遇した若者は名をワンタと名のり、近くのレジスタンスの拠点で訓練を行っていたところだという。どうやら、思ったよりも目的地に近づいていたらしい。

 昼食を簡単に済ませると、一行を彼は内部へ案内する。門番たちは驚き、ドラクースを珍しがりながら最初は旅人たちを入れるべきかと怪しんだ。しかし、ララの存在を見て一行がハッシュカルから来たと話すと、入れても安全だろうと判断したようだ。

 丘に囲まれた内部の空間に、新たな街が造られている途中のようだ。すでに半分以上は建物が出来上がってはいるが、残り半分は柱のみや壁が途中まで作りかけのものなど、ある意味、建物の構造や大工仕事の勉強になりそうな状態が晒されていた。

 ドラクースという見たことのない魔獣に牽かれた馬車を目にすると、迎えた誰もが驚き作業の手を止める。目立つことに慣れた者たちでも、なかなか経験しないくらいの反応だ。

「いやー、さすがに目立ちまくってますね」

「まあ、竜馬なんて見たことのある人は少ないでしょうからね……」

 医師とヒューが苦笑するのを、道行く人々の唖然とした顔が迎え、通り過ぎる。ワンタは彼らを厩舎に案内するつもりのようだ。

 その途中で、三人組の一団が歩み寄ってくる。

「あ、テューベンさま」

 ワンタが足を止めて姿勢を正すと、馬車も歩調を合わせ停止する。

 声をかけた相手は、あきらかに他とは雰囲気が違っていた。長い茶色の髪にバンダナを巻いた男がまとう空気は、穏やかながらも周囲を制圧するものに近い。

「これはこれは……竜馬は本の中で見たことがありますが、実物を目にすることになるとは」

 求める情報を持つ人物かもしれない。ヒューが馬車から降りると、妹たちも続く。

「僕たち、〈北の果て〉に行きたいんです」

 簡単な自己紹介をして、事情の話せる部分を話す。聖霊と魔族の正体は伏せて、生き別れの姉を探して果てへ向かっていると説明した。

 本来なら、『果てに行く』は自殺行為に等しい。テューベンは最初は驚くものの、顔触れを見まわすと納得したらしい。

「皆さんただ者ではなさそうですし、竜馬を連れているくらいですからね。おかしくはない話です。もし当てのない旅であれば我々の同志になっていただきたいくらいでしたが。では、後であちらの建物の方に来てください」

 と、彼はすでに完成している大きな建物を示す。議事堂のような外観だ。

 馬車で道を塞いだままいつまでも立ち話を続けているわけにもいかず、約束をして一旦別れる。

「我々の使っている厩舎へ行きましょう。まだ、馬はあまりいないんで空いています」

 ワンタは外れの方を目ざしているようだった。その道中にも建設中の建物が多く、馬車に気がついた者は手を止めて注目する。

 そうして旅人たちは目立っていたが、それを案内するワンタに注目する者も何人かいた。

「ワンタ、変わった人たち連れてるな。今日は剣の訓練はしないのか?」

「後でやるよ。ポルタもしっかり腕を磨いとけよ」

 ことばを交わし去っていく少年の年頃や服装はワンタとよく似ているように見えた。

「へえ、今の兄弟かしら?」

「同じ村出身で幼馴染みのポルタです。あいつの方が剣術が得意なのでオレはボウガンを練習して上手くなりたいと思っているんですが、まだ始めたばかりで……」

 彼の手には作りの簡素な練習用の小型クロスボウガンが握られているが、まだ手に馴染んではいないようだ。

「レジーナ、なにかコツがあるなら教えてあげたら?」

 ワンタもボウガンを携帯する少女を気にしている様子だったのもあってか、オーロラはそう水を向ける。

「そうね……今日はここに泊まるだろうし。後で少し、一緒に練習しましょうか」

「ありがとうございます! 実は一ヶ月後のペルメールでの大会に出てみようと思ってるんですが、このままじゃ惨敗確定なので」

「ああ、あなたも出場するのね」

 レジーナのことばに少年は驚き、競争相手になるように上達しなければ、と焦ったような顔を見せる。

 真新しい厩舎につくと、彼はテューベンさんとの話が終わった頃に迎えに来ます、と言い残し去っていく。建築の手伝いの手も少しでも多く必要らしく、仲間の一人が呼びに来たのだ。

「みんな忙しそうだね」

「後で、少し手伝いしましょうか。僕らだけのんびりしているわけにもいかないし」

「泊めてもらわなきゃいけないものね」

 宿の恩義だけではない。情報を得るのに見返りなしでは不興を買うかもしれないと、一行は事前に謝礼となる品をまとめていた。馬車を厩舎に入れる前に、ヒューが包みを荷台から持ち出す。

 包みの中身は惑いの森で採れる珍しいものを含む薬草が数種類とダドリー手製の茶葉とジャムが少し、そして香木だ。香木も森から持ち出したもので、森の外では希少らしい。

「後で香りを試してみましょうね」

 聖霊は包む前、少しだけ香木を削っておいたようだった。彼女の故郷でも香りを楽しむ文化は一般的だという。

「獣の鼻には濃過ぎるんじゃないのか」

「あらご心配なく。まったく味気のない魔族と違って聖霊は色々な匂いの中からでも嗅ぎ分けられるもの」

 軽口を叩き合いながらも、馬車で来た道を徒歩で引き返す。

 この辺りは新入りや若者が多い地区らしく、厩舎のそばにはすでに完成している宿舎、訓練所も近くにあり若い剣士や弓兵などが技を磨いている姿もある。外周の丘には見張り用の楼閣があり、それも若い者たちの役目らしく監視に立つ二人も少年の輪郭だ。

 中央部に戻ると建設中の現場が多く目に入るが、やはり重要施設はすでに早々と出来上がっている。

「どうぞいらっしゃいませ。お茶とお菓子を用意しました」

 テューベンは建物の中ではなく、出入り口の近くに並ぶ長テーブルと椅子の前に立って一行を迎えた。テーブルの上にはカップに入った飴色の液体とスコーンが髪を団子にした少女の手により並べられ終えたところで、香ばしい匂いを漂わせている。

「わあ、おいしそう!」

 ララの素直な感想でテューベンも、その部下らしい傭兵風の男たち二人も頬を緩める。

「お客さんには、ここのお茶もスコーンも美味しいと評判ですよ」

 席に案内されてすぐに、ヒューは相手に包みを渡す。テューベンはこちらも有益な情報を得られそうだから気にしなくても、と最初は遠慮するが、包みの中身も彼らには有益だったらしく受け取ると喜んでいた。

「このジャムも珍しい果物ですね。後でスコーンに添えてみましょう。これは、こちらも相応の情報が必要ですね」

 と、彼は尋ねたことはなんでも教えてくれた。帝国はジャストリオンの北の砦に二ヶ月交代で兵を送り、〈北の果て〉への関所を設けて監視している。しかし夜は多少は手薄になるし、昼と夕方に交代の機会がありその間は隙ができるという。

「北のリチュアに行くと関所に物資を送る商人らもいますから、もっと詳しくわかりますよ。もちろん危険も伴いますが」

 リチュアは帝国兵が普通に通りを歩いているような街だ。今までとは勝手が違う。

「ありがとうございます。こちらも知っていることはお話しします」

 ハッシュカルが帝国に滅ぼされ、エルレンの人々とわずかな生き残りが惑いの森に避難していること、南の大陸で帝国の飛空艇を見たこと、〈超兵器〉についても。海賊については少し迷ったものの、どうせもうすぐわかることだ。ボラキア共和国との関係だけは伏せて話す。

「おや、スォルビッツさんのことをご存知でしたか。会ったことはありませんが、海賊の話は聞き及んでいます。ここへ合流していただければ心強いですね」

 その会話が終わる頃には、すっかりテューベンは少年らの話を信用したようだ。竜馬の力かもともと敵の可能性は薄く見てはいたらしいが。

 話すうちに陽も少しずつ傾いてくる。

「そろそろ日も暮れてきますね。どうぞ、好きなところを宿としてお使いください」

「いきなり来て、色々とお世話になってすみません」

「いいんです、貴重な話も聞けたことですし。できれば、剣術や薬草の知識などを若い連中に教えてやっていただけるとありがたいですが」

 と彼の目が向くのは、黒衣の剣士や白衣の医師。

「一宿の恩義もあるし、それくらいの時間はあるわよね」

 レジーナも当然、ワンタとの約束を忘れてはいなかった。


 西日の中、気合の声がいくつも重なる。

 その中で熱心に木刀を振るっていた少年の一人が、銀髪の少年に稽古の相手を申し込む。

「えっ、僕もまだ、教わる側なんだけど」

 慣れた様子で指導しているソルや、ワンタと射撃場の的を狙うレジーナを眺めてなにをしようか考えているところだったヒューは、急に話しかけられて少し焦る。

「でも、そんないい剣を持っているじゃないですか」

「これは、本当に剣がいいだけで……でも、弱くてもいいなら相手になるよ」

 無邪気なことばに、それを拒絶するのも忍びない。手持無沙汰だったこともあって、ヒューは木刀を借りた。ソロモンは医療班へ薬草の扱いを教え、オーロラは魔術師志望に法術の初歩を実演し、妹すらレジーナらに矢を渡す手伝いをしている。自分だけいつまでも突っ立ってはいられない。

 挑んできた年下らしい少年はイアンと名のり、どうやら剣術を習って日が浅いらしかった。最初はまったく安定感がないが、少しかまえを修正してやると段々と良くなっていく。

 何度か試合形式で稽古をつけるうちにそれなりに勝負になるようになっていた。それが嬉しく、そして相手も手応えを感じているのがわかる。

 ――僕に教えてるときのソルさまも、こんな気分なのかな。

 チラリと目をやると、ソルは複数の新人たちに剣術の知識を教えているところだ。聞いている若者たちは真剣そのもので、教えている側もやはりやり甲斐を感じていそうな、やや嬉しそうな顔。

「そろそろ休憩しませんか、まあ、夕食も近いですが」

 声を張り上げたのはソロモンだ。気がつけば陽もほとんど丘の向こうへ沈みかけている。訓練に集中しているうちに思ったより時間が経過していたらしい。

「ちゃんと休むのも訓練のうちだし、水分補給も必要ね」

 レジーナも同意し、水筒を開ける。それぞれが思い思いの場所に座り、水を飲んだり筋肉を揉みほぐす。

「ヒューさんも、すっかり剣の扱いが堂に入ってましたね」

 ソロモンが疲労回復効果があるハーブティーを入れたカップを手に歩み寄ってくる。

「木刀は軽いからなんとか……それにしても、人に教えるのも勉強になりますね」

「そうですね。知っているつもりで忘れかけていたことのおさらいにもなりますし」

 医師も納得の表情で同意する。

 早々に休憩を終えた射撃場の者たちが移動するのを目で追いながら、ヒューもそろそろ立ち上がろうか、と視線を巡らせると視界に見覚えのある姿が入る。ポルタが木刀を手に駆け寄ってくるところだ。少し離れて、包みを手にしたお団子頭の少女も歩いている。

「ああ、ポルタ」

 迎えに行こうと、ワンタが駆け出す。

 その一瞬後、ガタン、と乾いた音がした。

「あ」

 ポルタが歩いてきた横手で建設中の家の壁から、立てかけてあった角材が数本崩れ落ちようとしていた。倒れていく地面の上には、運悪く通りがかっていた団子頭の少女が一人。

 呆けたように見上げる彼女の上に、黒い影が降りる。

「危ない!」

 オーロラが懐から投げた木片が飛んでいくが、あまりに遠過ぎた。気がついた者は駆け出すが、一番近いのはやはりポルタとワンタだ。

 しかし、家を支えるくらいの太い角材が何本も落下するところを少年たちだけで支え切れるのか――そう心配したのはヒューだけではなかっただろうが、二人はそれぞれに少女の左右に立って両手で頭を覆う。

 角材もすべてが三人の上に落ちるわけではない。それでもその重さが頭や背中に当たった衝撃はかなりのものであり、角が当たったらしいワンタは頭から出血するが。

「大丈夫?」

 大人の男たちが中心になってのしかかっている角材を退け、ソロモンら医療班もすぐに駆けつけた。

 傷や打撲、大きな瘤を頭に作りながらも、二人の少年は笑い合う。

「よく合わせられたな、ポルタ」

「当たり前だろ。何年、仲間や好敵手をやってると思ってんだ」

 それはよく知らない者でも、彼らの関係性を想像させることばだ。

 ――好敵手、っていうのもいいものかもな。

 ヒューは自分に好敵手がいたら、と想像した。そのような人物が身近にいれば競い合い、剣術ももっと早く上達していたかもしれない。周囲の者は実際にはソルは好敵手というより目ざすところであり、レジーナやララも競い合う部分はあっても好敵手という感覚はない。

「仲間って、お互いにすり合わせないといけないから大変なこともありそうだけどね。あたしは集団生活が長いから、ときどき、気楽な一人がいいかもって思うわ」

「それは仲間が沢山いるから思うもので、ある意味、うらやましいことね」

 聖霊のことばに、レジーナが口を挟む。

「レジーナなら、仲間のための最善を常に選びそうね」

「ええ、わたしには他になにもないもの」

 家族も地位も師匠もない。レジーナを過去から現在のこの世までつなぎ留めている最大のものは、確実に仲間の存在だ。

 自分も少しはレジーナの生きる意味になっているのかもしれない――それは喜ばしいような不憫なような、幼馴染みは複雑な心境になる。これから彼女にも、もっと大切なものが増えるといい、と。

 同じように思っていそうな聖霊の顔を見て、その背後が視界に入る。

 魔族が一旦ワンタとポルタのもとに駆けつけた後、距離をとって治療を受ける少年二人を見守っている。

 ただそれだけのことだが、その表情もたたずまいも寂しげに見えた。二人の少年たちが友情を確かめ合いながら治療を受けている様子のどこにもその表情になる要因はなさそうなので、強く印象に残る。

「ソルさま、どうしました?」

 歩み寄って声をかけると、相手は驚いたような顔をしてから苦笑する。

「いや……好敵手というものを持ってみたいものだと思ってな」

「僕と同じこと……て、ソルさまは優秀過ぎるからで、僕とは理由が逆でしょうけど。でも、きっとそのうち、僕が好敵手になる日が来るかも」

 内心はそこまでの自信は持てていないが、つい大きなことを言ってしまったのは誰かに教える体験をしたからか、相手が喜ぶと判断したからか。

 事実、相手は嬉しく思ったようだ。

「それは楽しみにしておこう」

「願望ですけどね」

 魔族が笑うと、今度は少年が苦笑した。


 夕食は料理班が大鍋で作った肉と豆のスープと出来立てのパンが配られた。ヒューたちもいくつが果物を提供し、切り分けられたそれも食事に加わる。

 宿には一人一室、宿舎の空き室が与えられる。真新しいベッドとテーブルに椅子、空の棚という味気ない部屋でも、孤独や寂しさはない。別の部屋にもそれぞれ人がおり、それに交代での見張りなど、誰かは常に起きている。

 まるで、街全体が家族のようだ。

 それは惑いの森にいるときにもたまに感じたことのあるものだ。ヒューはとなりの部屋の妹がすっかり寝入ったのを確認すると妙に安堵した気分で目を閉じる。

 一方、窓の外では同じ頃に宿舎を抜け出す、夜の闇に溶けるような姿。

「星でも見に行くつもりですか?」

 建物を出してすぐに声をかけられても、彼は驚きはしなかった。

「さすがに、ここは星を見るのに向かないからな」

 丘に囲まれ、夜通し焚かれるかがり火も高い建物も空を狭く、星を薄くしている。

「それはいいんですが……また一人で危ないことに近づかないでくださいね」

「言われなくても……」

 ムジカでの出来事を思い出して視点を逸らす魔族の目の前に、医師は手のひらを開いて差し出す。手のひらの上にはバサールに渡された護符がのせられていた。

「それはキミの分じゃないのか?」

「わたしはさほど危険な目に遭いませんので。ソルさまが守られた方が、皆の安全も確保されるでしょう」

 ソルは一瞬、今さらながらその正体を怪しむように白衣姿を足もとから見上げるが、すぐに笑って護符に手を伸ばす。

「もらえるならもらう。返してって言ってももう返さないからな」

「そんなことは言いませんよ」

 苦笑する医師からひったくるように護符を奪い取り懐に仕舞うと、軽い足取りで歩み去る。

「あまり長く留守にしないでくださいね」

「わかってる」

 闇に溶けていく背中を見送り、口の中で『楽しそうなのはいいかもしれませんがね』とつぶやくソロモンの眼鏡の奥には、一抹の不安がにじんでいた。

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