第6話 紅の死地
町が燃えている。
あちこちから火の手が上がり、時折、人の叫び声や爆音が鳴った。生まれ育ったハッシュカルの異質な姿に、出身者の少年少女たちは茫然と目が離せないでいる。
「あまり近づくと危険だ。この辺りで待っていてください」
ソロモンが商人に指示し馬車を止めさせる。木々がまばらに生えていて、一目では馬車の存在がはっきりしない辺りだ。
馬が完全に足を止めると全員が降り、ソルが顔ぶれを見渡す。
「まず大人だけで様子を見に行こう。中に入ると、残酷なものを見ることになるぞ」
「それには賛成ね。小さい子が見たらトラウマになりかねないわよ」
オーロラが魔族に同意するが、すでに半分泣きそうな顔をしている幼い少女は激しく首を横に振る。
「一緒に行くよ! ララもお祖父ちゃんを助けるもん。もし、お別れをするなら……最後に会えないと後悔するんだよ。お父さんとお母さんが死んだとき、お祖母ちゃんが言ってたもん。ダメって言っても一人で行くからね」
「僕も行きます。足手まといにはなりませんから」
ララはすでに両親とも祖母とも別れを経験している。それでもできれば妹は置いていきたいが、ヒュー自身がどうするのか、彼の心は決まっていた。
「ここで行かないと一生後悔するかもしれないし、僕が行くことで少しでも助けになる可能性があるかもしれない」
おそらくレジーナも同じ心境だろう。彼女は黙って右手の小型ボウガンの動作を確かめる。
「後悔か。行ったことを後悔することもあり得るぞ?」
「行かずに後悔するよりは、ずっとマシです」
念を押すソルに向け、ハッシュカルの出身者たちはヒューのことばにうなずいた。その様子を見て聖霊も観念したように口を開く。
「仕方ないわね、ララちゃんはあたしがしっかり守ってあげるわ」
「では、急ぎましょう。少しでも生存者が多いうちに」
ソロモンとクラリスは大きな鞄を脇に抱えていた。
「はぐれないよう気をつけろよ」
ソルは刀の柄に手を置いたまま、一行を先導し始める。火の粉が灰となって降りそそぐ平原を駆け、門に辿り着く。
並ぶ家々は炎に巻かれ、どこか崩れているものが多かった。無事な建物もあるが、家々の前の通りも建物の残骸やなにかの部品、道具などが散乱し積み上がり、歩くのも苦労するようなありさまだ。
通りの奥には煙の中で逃げ惑うような人影が見えるが、近くに人の気配はない。
「ララちゃんはあたしが抱えて行くわ」
オーロラが細腕に似合わず軽々と少女を抱えた。足場の悪さもあるが、視線を胸で遮り余計なものを見ないようにとの配慮だろう。
どこかの柱だったものやスコップ、布の切れ端といった物を踏み越え、できる限り炎から離れて進む。残骸に火は燃え移り始めており、ヒューは内心、帰り道が炎に閉ざされるのではと心配になった。
やがて、少年の目に見覚えのある姿が映る。
「あ……レオ」
木材を中心とする残骸に腰から下を挟まれた状態でうつ伏せに倒れているため顔は見えないが、間違えなく自警団の少年の一人だ。
ソロモンがその脇に素早く移動し、手を取って首を振る。
「残念ながら、今は葬っている時間はありません。生きている者を探しましょう」
――レオ、死んだのか。
あまり実感の湧かないままヒューは受け入れる。仲が良いとは言い難い相手ではあったが、心のどこかがズシンと重くなる。
しかしそれにかまっている余裕はない。
「とにかく、まず店へ急ぎましょう」
頭を占める考えはひとつ。祖父の安全を確認するのが最優先だ。
町の外へと逃げ出していく人々の流れを横切り、声もかけることなくさらに進む。レオの後にも、窓に上体を投げ出したように腕を垂れた者、道端に倒れた者など、こと切れた者の姿が視界に入ることがあったが、ヒューは目を逸らし歩き続けた。
店が近づいてきたころ、爆音が行く手で響き振動に大地が揺れる。ソルが眉をひそめ足を止めた。
「まだ軍隊がここにいるのか……?」
「遭遇しないといいのですが」
不穏な予感を振り払うように再び歩き出す。
しかし、すぐにその予感は的中する。目的の店の寸前で、建物の向こうに銀色の甲冑姿がチラリと見えた。それも一人や二人ではない。
「何者だ!」
ソルが足を止めたところで声がかかる。瓦礫の山の陰から帝国兵が飛び出した。手にはすでに抜かれた剣をかまえており、最も近くにいたソルに斬りかかる。
ソルは刀を抜きざまに相手の剣を弾き飛ばし、同時に術で発生させた氷の塊で相手の足と地面をつないだ。そのうち周囲の炎でとけるだろうが、足止めには充分だ。
その間にも、建物の向こうではなにかが行われているらしい物音が届く。
さらに、誰かの呻き声。
聞き覚えのある声だ――そう感じるヒューの目に映るのは、建物の陰になった部分から前のめりに倒れていく祖父。
頭の奥が熱くなる。嘘だ、と思いたいがその姿を見間違えるわけがない。
「お祖父ちゃん!」
走りだそうとするその手を、ソルがつかんで引き留める。
「相手は軍隊だ。今のわたしには軍隊と戦えるような力はないぞ」
「でも、このまま見てるわけにはいかない。僕一人でも戦います!」
ヒューはソルの手を振り払い、短剣を抜いた。
今までになく、彼の心は戦意に動かされている。どんな相手だろうと恐れはしない。必要なら相手を殺したってかまいはしない。
駆け出していく少年を、すぐにソルらも追う。
「ちょ、ちょっと!」
「隙を見て連れて逃げるしかない」
迷うオーロラに声をかけてソルは帝国兵へ向けて突進し、ほかの者たちは兄妹の祖父のところへ駆けつける。
「お祖父ちゃん!」
ララが目を見開いてオーロラの手を離れ、倒れた祖父にすがる。
祖父は脇腹のあたりを斬られていた。意識はあるようだが、浅い傷ではない。
ソロモンがそばに屈み込んで治癒の術を使う。それを確認して視線をずらす少年の目に、二人の男の姿が入った。
二人とも銀色の甲冑を着込み、一人は兜を被った長身の男で、肩に大砲に似た銃器のようなものを担いでいた。もう一人は黒髪をさらした青年で、手にした剣の刃からは血がしたたっている。
「な、なんで……こんなことを」
短剣をかまえ、ヒューは問いかける。恐怖ではなく怒りで声が震えた。
男たちの近くではソルが兵士たちをほぼ一蹴しているが、二人の帝国士官たちの表情に焦りはない。
「これが仕事なんでな。しかし、坊やがオレたちの相手をするか。勇敢じゃなくて無謀っていうんだよ、それは」
「待て、イクタール」
剣を手にした男を、銃器を担いだ男が制した。
「こいつを人で試したい。わたしの獲物にさせてくれ」
「はあ、趣味のいいことで」
「実験できるなら、その方が一石二鳥だろう?」
ことばを交わすと、イクタールと呼ばれた男は剣の刃を布で拭った後に鞘に納める。
「恨むなら自分の無謀を恨め」
無感動に言う男の肩当の上に担がれた銃器の大きな口に、周囲の空気中から光の粒のようなものが集まっていく。
「あ……」
胸にズシンと不安がのしかかる。短剣をかまえたまま、ヒューは動けなかった。足が鉄の塊と化したように重い。
――正体不明の兵器。
脳裏に、馬車の中でソロモンが話していた内容がよぎる。
周囲を照らすほど兵器の口に光が集まると、周囲の誰もがそれに釘付けになった。
一番早くにそれを目にしながら、ヒューは逃げることを考えることもできない。凶悪な化け物に睨みつけられたときよりも、無機質な筒状のその先端とそこに溜まりつつある光は心を冷たくつらぬいてくるようだ。
弾けそうな光を目にして、かすり傷を負いながら十名を超える帝国兵たちを大半転がしたソルが裾をひるがえして走り出す。
「さようなら」
光を肩に担ぐ男が笑う。
その笑みが少年の視界内で、光の中に溶けた。
――ドスッ。
鋭い音が鳴った次の瞬間、光が去ったそこに血飛沫が舞う。
太い光の矢を突き立てられ、黒衣の姿が仰向けに倒れ込む。右胸から血を噴き上げながら。
その背中を目にしたときに、少年の足を地面につなぎとめていた重さは魔法のように解けたようだった。
「ソルさま!」
「ほう、あれで死なないか」
ヒューが駆け寄り、地面についた手の感触で、血溜まりが広がっていくことに気がついて唖然とする。帝国軍の男の声も耳に入らない。
ソロモンがクラリスに後を任せて即座に駆け寄る。
ソルは薄く目を開いていた。
「だいじょう、ぶ……これくらい、すぐに再生する」
言って、魔族は咳き込み血を吐く。人間と変わりない赤い鮮血。
「しゃべらないで。再生が追いつく傷ではないでしょう」
「少し寝る……後は任せた」
ソロモンの術の光が傷へそそがれ始めて間もなく、ソルは目を閉じる。
「助かるのよね?」
このまま目を覚まさないのでは――そう心配になったのはヒューだけではない。駆けつけたオーロラが少し不安げに問う。
医師の答に迷いはなかった。
「絶対に死なせません」
周りの者たちは、それを信じるしかない。
ソロモンは周囲など気にしないが、未だに状況は治療に専念できるようなものではない。まだ二人の男たちがそれぞれの武器を手にこちらを見ている。
オーロラが庇うように前へ出た。
「あまりやりたくはないんだけど……」
その声に被るように、どこからともなく少年の声が響き渡った。
『おーい、将軍とバラキア卿はいつまで遊んでいるのかな~? もう、撤退命令は出ていたはずだよねえ~?』
嫌味を含む、どこか異質な響きのある声。
その声に顔をしかめ、二人の男は視界を交わす。
「もう少し実験してみたいところだったが……」
「仕方がないな。撤退だ」
後ろに控えていた数人の帝国兵たちに声をかけ、兵士たちは転がっている同僚たちを回収していく。
イクタールは去り際、少年たちを一瞥する。
「運のいい連中だ。ここで命を拾ったからにはせいぜい生き延びるがいい。オレが剣の錆にするまではな」
ただ感情のない捨て台詞とともに、銀の甲冑姿は炎の彼方へ消えていく。
どうやら、切迫した脅威はひとまずは去ったようだ。
「オーロラさん、頼みたいことがあります」
治療を続けながら医師が口火を切る。
「いいわ、なんでも言って」
「馬車を呼んでほしいんです。門のできるだけ近くに待機していただくよう言ってください。それと、逃げ延びた人々にはエルレンを目ざすように伝えてください」
北のペルメールには強固な城壁があるが、地理的に次に狙われるのはペルメールだろう。資源も乏しいエルレンと違い、未だ鉱山資源もあるため支配下に置く意義がある。
「わかったわ、任せておいて」
光の聖霊は足場の悪い中でも、軽々と走り去っていく。
「あとは、多少なりとも食糧などあるといいのですが……」
「僕が探してきます」
立ち尽くしていたヒューが動くと、レジーナも続く。ソルの様子は気になるものの、そばにいても役には立たない。
幸い、店には火は回っていない。変わりない店内を見て、ここを捨てなければならないことにヒューは改めて衝撃を受けるが、立ち止まってはいられない。店の裏に二輪の荷車があるのを思い出し、素早く食材を抱えて裏口に出る。荷車は壊れもせずそこにあった。
レジーナは作りかけのサンドイッチやミートパイを見つけて鍋に入れて持ち出した。さらに時間の許す限り色々と運び出す。
時間が経つにつれ、周囲の家々にも火の手が回り始める。
「お二人とも、そろそろ行きましょう。どなたか手を貸してください」
クラリスが二人を呼んだ。戻ると、兄妹の祖父が立ち上がっている。怪我人二人も運べないので、祖父を先にある程度治療し、自分の足で歩いてもらうことにしたらしい。
「お祖父ちゃん、大丈夫?」
ヒューがクラリスとともに左右から腕を担ぐ形になる。
「ああ、すまん。歩くのに支障はなさそうだ」
「参りましょう。道が残っているといいのですが」
ソロモンが意識のない魔族の身体を抱えて嘆息する。
彼の心配は当たっていた。通りの残骸に火が燃え移り、炎の壁となって行く手を阻む。それを避けて一本となりへ移ると、今度は建物が崩れたらしく、道に瓦礫が高い山になっていて進めない。
そのような障害を前にしながらも、何度か道を変えては進むのを繰り返し、どうにか入ってきた門をくぐることができた。
ハッシュカルを出る前、一度、ヒューは燃え上がる街並みを振り返る。
生まれ育った町は赤い炎の中へ消えようとしていた。
太陽は一番高いところを過ぎ、だいぶ傾きつつあった。
いつの間にか昼食時間を過ぎていたことに気がついたころ、周囲の人々に心苦しいものを感じつつ、ヒューたちは大人に勧められてエルレンから持ってきた昼食をとった。避難民でまだ昼食をとっていなかった者の中で体力のない者に店から持ってきたサンドイッチや、クッキーの残りが配られるが、さすがに全員には行き渡らない。
歩いてエルレンに向かっている生き残りは百余名。なかにはヒューらとも顔見知りの近所の者や行きつけの店の者もいるが、憔悴しきっていて声はかけられなかった。
避難先へ向かう人々の先頭には、馬車が人の足に合わせてゆっくりと歩いていた。
「大丈夫なんでしょうか……?」
馬車に追いつき、幌に覆われた荷台に乗り込んだヒューは、治癒の術を使い続けている医師に尋ねる。
ずっと治癒の術を使われ続けている側のソルは目を閉ざしたままピクリとも動かない。顔は青ざめ生きている者とはかけ離れているようにすら見える。
召喚された者が異世界で命を落とすことはあり得るのか。
もしそうなれば、召喚したことがとても罪なことなのではないか――召喚士はそう思う。召喚されなければ安全だったかもしれないのだから。
「致命傷に至る部分はすでに治しましたが、傷が深いので完治には時間がかかります。一週間前後でしょうか……わたしも一日中は使っていられませんからね」
今のところ疲労の色は見られないが、ソロモンはすでに何時間も術を使い続けている。
怪我人のためだけではなく、とりあえずは早くエルレンに着きたい――そう思っているのはヒューだけではないだろう。この先どうすべきかはわからないが、とにかくどこかに落ち着きたい。落ち着かないからこそ悲劇から多少は目を背けられているのもあったが。
休憩を挟みながら歩いて、夕方に差し掛かろうというころ、見覚えのある街並みが行く手に見えてくる。
「エルレンだ……」
疲れ切った人々の顔にも少し安堵の色が浮かぶ。
しかし当然、迎えたエルレンの人々は困惑し事情を聞くと不安そうな顔をした。期待していた食糧が得られなかった上、いつエルレンも襲われるかわからないのだ。
侵略には最短でも三日あるだろう、避難先について話し合おう――町の重役たちが議会に集められる一方、ハッシュカルの人々は空き家や空間に余裕のある家、公共施設などに宿を提供されることになる。
兄妹の祖父はエーノン邸に留まっていた。
「せっかくレジーナが食材や調理器具を大量に運んでくれたのだし、少しは恩返しをしないとな」
ヒューが買った包丁二本を受け取った祖父はほとんど怪我の影響もない様子で、意気揚々としていた。その姿に兄妹とレジーナも安堵する。
だが、エーノン邸も多くの人々で空間が埋まっている。
「できれば、広くて静かなところがいいのですが」
重傷者を抱えた医師がつぶやくそれを、エーノンが聞き咎める。
「まだ掃除は完全には終わっていないけれど、一応、広くて静かな場所はないことはないが」
それでも、綺麗に片づけた部屋はあるという。場所を聞くと、ヒューたちはエーノン邸を出る。兄妹は祖父のそばにいるべきか迷ったが、いたところで邪魔になるだけだ。
代わりにソロモンの言いつけでクラリスが残る。料理の手伝いをするためという名目だが、人々の健康状態を見る役目もあるのだろう。
彼らが通りを歩くころには、空は橙色から紺色に染まりつつあった。
「よりによって教会ですか……」
西日に尖塔の影が伸び、教会全体が不気味に夕日色に燃えているかに見える。石のレンガを積み上げた外壁は一部がすすけていた。
「ソルは嫌がるでしょうけど、仕方がないわね」
オーロラが足を踏み出す。玄関へ向かう石畳も少し黒く汚れていたが、雑草は短く刈り込まれ、手入れはされているようだ。
重い両開きの扉を開くと、左右に待合室のような空間があり、正面にはさらに大きな扉がある。
「ここは清潔そうですね」
待合室の一方は大きめの石の長椅子と、暖炉と積み上げられた薪がある。もう一方には木の長椅子が二つ並び、端に丸椅子が重ねられていた。
ソロモンは石の長椅子を選び、布を敷いて怪我人を寝かせ、持ってきた丸椅子に座って治療を再開する。
春も中頃に差し掛かろうかという今の時季も、日が暮れると少し寒いくらいになる。ヒューは薪を暖炉に並べて持ち歩いている火打石で火をつけた。炎の明かりに照らされると、石造りの室内の雰囲気もやや温かみのあるものに変わる。
しばらく椅子に座って休むが、ここにいてできることもない。
「奥を調べてみようかな」
「そうね。手分けして探せば役に立つものが見つかるかも」
ヒューが立ち上がると、レジーナとオーロラ、当然ララも続く。
「さすがに食べ物はないでしょうけど、せめて毛布なんてあると嬉しいわ」
「皆さん、気をつけて」
奥への扉を開けて踏み込んでいく一行を、医師は声をかけ見送った。
「毛布は欲しいところですねえ」
つぶやき、一旦治療を中断して鞄から取り出した毛布をソルに掛けてやる。多めに持ち歩いているとはいえ、もう彼の毛布は使い切っていた。
布を丸めて頭の下に敷こうとしたところで、わずかに横たわる肩が揺れた。
「ん……」
かすかに声が洩れ、青白い頬に影を落とす睫毛がしばたかれる。
それを注視していた医師は、相手の赤茶の目の焦点が合うのを待って声をかける。
「大丈夫ですか? 痛みます?」
「いや……」
ソルは少しぼんやりした様子で天井を見上げているものの、声にははっきりと意志が宿っていた。
「薬が効いているようで……とりあえず、生き残りの人々と一緒にエルレンへ逃れたところです」
説明しながらソロモンはカップを取り出し、その中へ粉薬と水筒からの水をそそぐ。すると血そのもののように赤く生臭い液体ができた。
「かなり血液を失ってしまいましたからね。見た目も味も匂いもきついでしょうが、これが一番効きますよ」
助け起こされてカップを差し出されると、ソルはその匂いに眉をひそめ閉口したが、受け取ると文句も言わずに思い切って一気に飲み干した。
「……気持ち悪い」
口の中に残る匂いに顔をしかめるところに、ソロモンはカップを洗ってからハーブティーを入れて渡す。爽やかな香りのハーブを煎じたもので、消臭効果があるとされていた。
「しばらくは安静にすることです。その間にしっかり治療しますから」
再び長椅子に横たわり、毛布を被ってソルはうなずく。
「ほら、わたしが一緒に来て良かったでしょう?」
ソロモンがからかうような調子で言うと、魔族は一瞬、悔しげな顔をする。
「べつに、一緒に来なければ来ないでいくらでも……」
早口で言い、頭から毛布を被る。
「でも、役に立ったのは確かだから、うん。感謝してあげてもいいけどな!」
「はいはい」
ソロモンが笑みを浮かべる顔を、ソルは一向に見ようとしなかった。
教会の奥へ続く扉をくぐると、そこは長椅子や焼け焦げた布のような物が散乱していた。どうやらここには掃除の手も入っていないらしく、壁や床の一部が黒く染まっている。そしてそれは奥に四つあるドアの一つに続いていた。
「厨房からでも出火したのかしらね」
正面には祭壇があり、奥には祈りを捧げる女神の姿の石像が無傷で残っている。
壁に等間隔に並ぶ窓から差し込む夕日が室内を染めた。どこか遠くの黄昏を見ているような感覚に立ち尽くしていたヒューは、妹に手を握られて我に返る。
「手分けして探してみましょう。ララは一緒に行こうね」
廃墟とはいえ町のなかだ。まさか獣が潜んでいたりはしないだろうが、廃墟を根城にした盗賊などがいないとは限らない。それに、火事と年月の経過で弱った建物の一部が崩れてくる可能性もあった。
祭壇の左右に二つずつあるドアに、兄妹、レジーナ、オーロラが分かれて入る。黒く焦げ付いたドアは後回しにされた。
兄妹とレジーナが入った左二つは、司祭や神官たちの寝室と執務室、書斎と倉庫につながっていた。どの部屋もところどころ焼けた痕跡があり、無事だった調度品や道具はほとんどが持ち出されたようだ。
そんな中、倉庫に古いカンテラとひび割れの多いロウソクの束、書斎に無事だった本を二冊見つける。本の表題は〈古代神と精霊〉と〈法術の成り立ち〉だ。
「神とか法術とか内容的には合わなそうだけど、ソルの暇潰しにはなりそうね。しばらく動けないでしょうし」
そう評したオーロラの手には、畳んだ毛布が積まれている。埃が熱くこびりついているが、内側は綺麗だという。一応、外で埃を叩き落として使おうということになった。
「わたしが入ったとこは食堂と厨房になってたんだけど、食堂の燃え方が激しいわりに厨房はそうでもないのね。出火はとなりだったみたい」
火事になった原因に少しは興味を引かれたものの、残酷なものを目にするかもしれない、とヒューはためらった。もう充分、衝撃的なものを目にしてきたのに。
しかし、有用な物が残されているかもしれないという現実的な目的がある。
「あたしが見てくるわ。たぶんすぐ終わるでしょうし」
毛布をヒューに渡し、オーロラが半ば炭化したドアを開いて踏み込む。チラリと見えた奥は真っ黒だった。
当人のことば通り、オーロラはすぐに戻る。
「ほとんど燃えてはっきりしないけど、客間と寝室みたい。来客用の寝室が火元だったのね。なかなか迷惑な話でしょうね」
泊めた客人の火の不始末が原因ならいたたまれない話だ。寝室の燭台のロウソクがなにかの拍子に倒れた、教会の者が利用者のいない寝室で火を使う作業や遊びをしていた、といった可能性もあるが。
「なにもなかったわ。戻りましょう」
「毛布とカンテラが見つかっただけでも充分ね」
もうすぐ陽が沈み完全に夜の闇に閉ざされる。カンテラの存在がありがたいが、なかの油が古くなっていたり、尽きているかもしれない。
試しに火をつけてみると、問題なく灯が入る。
「大丈夫みたいね」
それを確認すると付属していた火消しを被せて火を消す。どうせすぐに使用することになるとしても、少しでも油を節約したいのだ。
それなりの物を手にして待合室に戻った四人の目に、長椅子に身を起こしたソルと、丸椅子二つをテーブル代わりに焼き上げたミートパイとハーブティー入りのティーポットにカップを並べているクラリスの姿が映る。
夕食より目を引いたのは、やはり一度は死の淵にいたはずの魔族。
「ソルさま! 大丈夫なんですか?」
「ああ、生きているよ」
顔は白く少しぐったりしたように背もたれに身を預けてはいるが、その声も態度もほとんどいつもと変わりない。意識なく横たわっていたときと比べれば、起きているだけで相当しっかりして見えるに違いないが。
「ま、しばらくは力仕事はできないだろうが。そちらは、なにか役立つ物を手に入れたらしいな?」
彼はレジーナの手にした二冊の本に目を留める。
しかし差し出された本の表紙を眺めて渋い顔をした。
「これはまた、趣味の悪い……まあ、趣味の悪い場所にある本なんだから仕方がないか」
「この魔族は……相変わらず口の減らない」
オーロラがあきれた口調で言うが、その顔に浮かぶ苦笑いには、かすかに安堵の色がにじんでいた。
「とりあえず、皆さんも座って夕食にしましょう。ソルさまも食事をとって薬を飲まないといけませんし」
クラリスが人数分のハーブティーをそそぐ。
ハーブティーは道端でもよく見かける、ホワリという花を使ったものだ。ほのかな甘みがあり、整腸作用があるともされていて、この辺りの人々は日常的に口にするお茶だった。
祖父のミートパイと馴染みのあるお茶を口にして、ヒューは色々なことを思い出す。
――ハッシュカルはもうないんだな。
行きつけの店、昔よく遊んだ公園、自警団の集まる広場や見張り台、そして我が家である店も。両親の遺品も大半が燃えてしまったはずだ。
そして、馴染みの顔も減った。団長もロンもレオも、顔を合わせればことばを交わしていた仲間たちも、ほとんどこの世にいない。
でも家族が助かっただけ自分はマシかもしれない――そう思うことで自分を慰める。親兄弟を喪った者も沢山いるのだ。その命を喪った者は、もっと沢山。
まぶたに浮かぶ炎の中の故郷を振り払うように、ヒューは窓の外の紺色が濃くなってきた空へ目をやった。
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