第5話 閉ざされた道
気温はさほど高くないが、じめじめとした空気が洞窟内に充満していた。高い天井に不規則に並ぶツララ状の鍾乳石からは、時折、ポタポタと雫が落ちる。
「泉には古来より手のつけられない化け物がいるとされ、泉に落ちた者は誰も帰っておりません。本当に行くつもりで?」
魔法の灯をともしたカンテラを手に、案内人は額の二本の角の下に並ぶ鋭い目を背後にやりながら表情を曇らせる。
「ここまで来たのだから当然だ。封じられた秘宝のひとつを手に入れられれば、魔界の治世もさらに安定するからね」
案内役の心配など意に介さず、黒い帽子に外套の貴族は言う。その正体が上位魔族であることも、その腰に吊るした片刃の剣の威力も案内役も聞き及んでいる。
それでも案内役の鬼はいかつい肩をすくめた。
「わたしは責任は取れませんよ」
「キミに迷惑はかけないさ」
高位魔族は少し笑って言った。
深い洞窟を少しずつ下っていく道のりにも、やがて終わりが訪れる。
広く天井も高い空間に泉があった。泉の周りは木柵で囲まれており、水面は風もないのに細波に震え続けている。透明度が高いのに底はうかがい知れない。
「ありがとう。ここでいい」
黒衣の裾がひるがえり、柵を軽々と跳び越えて内側へ降り立つ。灰色の鬼はもう引き返せないところまで来たと理解する。
「どうかご無事で」
せめてものはなむけにそう送り出す。
高位魔族の背中は迷いなく、泉へと歩み寄っていく。
ただ泉に近づくだけではなにも起きなかったという者も多い。泉に触れた者はその多くが行方不明になっているが。
今回の場合、何度もここへの案内役をやった鬼も、これまで目にしたことのない事態が起きる。
泉の水面がさらに激しく波立ったかと見えると、中央が大きく隆起した。大瀑布のごとき水の流れをまき散らした下から現われたのは、大きな鎌首をもたげたような、銀色の龍。
魔族が見上げると、竜は赤い目を向け、笑ったかに見えた。
そして一瞬にして長い鉤爪のある手を伸ばし魔族の身体をさらい、そのまま引きずり込むようにして自らも泉の底へ向け頭から潜り込む。その勢いに天井を濡らすほどに水の柱が吹き上げた。
水の冷たさと圧力になぶられながら、魔族は泡の向こうの透き通る水の底に小さく輝くものを見つけた。
名を呼ばれ、ソルは目を開ける。
彼が身を丸めて寝ていた馬車の幌の上から覗き込むと、馬車は小川を渡る際にあった段差に車輪をとられ、どうにか乗員で押し上げようとしているところのようだ。
「ちょっと、あんたも手伝いなさいよ」
怒りを含む聖霊の声。
ソルは馬車の上から軽く跳び下りると、目をこすりながら口を開く。
「そんなの、術でどうにかすればいいのに……」
「術もタダじゃないし、使わなくていいなら使わないの。ま、あんたみたいな魔族なら積極的に魔法で世界の法則を捻じ曲げようとするんでしょうけど」
術は召喚魔法と同じように、精神力や魔力、生け贄など、代償を払って使うものが多い。
それも上級魔族からすれば些細なものかもしれないが、ソルは術を使わず、力で馬車を押し上げる方を選んだらしい。
幸い、すぐに馬の引きに合わせて押し上げると段差を登ることができた。
「ありがとうございます。もう少し行ったら休憩にしましょう」
馬車の御者台から商人が声をかける。
エルレンからハッシュカルへの道は、ペルメールからハッシュカルへの道より近いが、大きな丘を迂回していくことになる。平原を真っ直ぐ歩くだけとは違い、障害物が多い。
それでも、自分の足で歩かなくてもいいだけ、ヒューたちには楽に違いながった。
「召喚された者が召喚魔法を使える、なんて状況はあり得るんでしょうか」
〈魔導書イグマ〉を開いて読んでいるのは、ヒューではなく彼によって召喚された上級魔族だった。
「わたし、召喚魔法は使えるぞ。この世界のものとは構成も違うし、この世界じゃ無理だろうが。おそらくこの世界でのわたしの魔力の限界はキミの魔力に比例するだろうから。キミが頑張って鍛えてくれないと使いようもないな」
「と、言われましても……」
どうすれば召喚士として鍛えられるのかなど、少年には見当もつかないことだ。
困惑したヒューに、ソルは笑みを向ける。
「まあ、召喚魔法を使うような事態が起きなければいい話だ」
ヒューは、召喚した者たちを還す方法が見つかるまでの間、できる限り平穏無事に時間が過ぎるように内心祈った。もちろん、還した後の日常も平穏が第一に違いないが。
「できた」
不意に、馬車の荷台に強い思いのこもった声が響く。
注目されると照れたようにほほ笑んだのは、眼鏡の少女だ。彼女は馬車の揺れにも負けず、針に糸を通して今まで細かい作業を行っていた。
「できたって、なにを作っていたの?」
オーロラが尋ねると、クラリスは手もとの布を顔の前に広げて見せる。
「これです!」
少し誇らしげな彼女の両手に吊るされたのは、元は黄色の無地の、地味なスカーフだったもの。それが端によりが入れられ、刺繍で花と蔓の模様が縫い込まれた今は、高価な別物にすら見える。
「あら、凄いじゃない」
「レジーナさんに似合うかなと思って。こういうの少し得意なんです」
クラリスも図書館での出来事をオーロラやララとの会話で聞いていた。そこで、せめて作れる物を作ろうと思い立ったのだろう。
スカーフを差し出されると、レジーナは少し怯んだ。しかし、周りに促されて普段着けている地味なスカーフと替えて見せる。
いつもはまったく飾り気がない彼女と比べれば、だいぶ華やかな雰囲気になる。
「似合ってますよ」
「あら、いいじゃない」
「でも、汚したら困るし、これは街中とか、もっといい服をを買ったときに着けるわ」
レジーナはすぐに、それを大切に畳んで懐にしまい込む。
「ありがとう、クラリス。凄く器用なのね」
「ホント、なんでこんな才能あふれる子がこんな軟派医師に捕まったのやら」
オーロラのことばに、医師は余裕の笑みを浮かべる。
「柔よく剛を制す、と良く申しますからね」
「確かにソロモン先生は綺麗な女性と見るとすぐに口説こうとするし、まずい状況になったらいつの間にかいなくなるし、他人のことに首を突っ込む割に自分は秘密主義だし、すぐに気に入った相手をからかって遊ぶような性格のかたですが、医師としての腕は確かです」
クラリスの素直なことばに、ヒューは少し反応に困る。当のソロモンの笑顔は若干引きつっていた。
しかし、助手は悪気があるわけではないらしい。続けて、彼女とソロモンの出会いの話を語り始める。
森の妖精族の父と人間の母の間に生まれたクラリスは、遠方の町の郊外にある、小さな森の家で母とともに暮らしていた。
そこで彼女は母から様々なことを教わった。料理や裁縫といった日常生活に関わる技術もそうだが、森の動植物についての知識も幼いころから蓄えられた。
やがて母が病死するとその遺言に従って町へ降り、森や野山で採った薬草や食用の野草とキノコを売って暮らすようになる。人々にも受け入れられ、数年間は穏やかな暮らしを送ることができた。
しかし、あるとき、彼女は森で運悪く雨で地盤の弱っていた崖から地面の一部ごと滑り落ちてしまう。崖はそれほど高くはなく、すぐに通りがかった者に発見されたものの、彼女は両足に大きな傷を負った。
町の空気や水も合わないのか、傷の治りも悪くこのままでは歩けるようになるとは思えず、親切な街の人々に迷惑をかけながら生きていくしかないのか――そんな悲痛な思いを抱えているところに、一人の医師がやってきて傷を治してしまった。
妖精の血を引く彼女は、自然界に存在する精霊の気が薄いところで長期間暮らすのに向いていない。そう判明すると、彼女は迷いなく医師についていくことを選んだ。
「だから、ソロモン先生はわたくしにとっては、どんなに性格がねじ曲がっていようと、どんなに軽薄で怪しくても、英雄だし先生なんですよ」
彼女がニッコリ笑うと、そういうものか、と不思議なことに誰もが受け入れてしまうのだった。
「そろそろ休憩にしましょう」
前の方で手綱を握る商人が声を張り上げ、馬の脚の動きが緩むのがわかる。
ヒューが幌の後ろの出入り口から身を乗り出して前方を覗くと、あまり雑草の生い茂っていない、木々に囲まれた広場のような空間が見える。
広場の、一本大きな木が生えたそばで商人は馬車を止めた。ただ馬車に乗っているというだけでも、脚はともかく腰や尻に負担が来る。乗員は皆、馬車を降りて地面に立つと思い思いに身体を伸ばした。
凝った筋肉をほぐしながら、ヒューは祖父に渡されたハーブティーの茶葉が残っているのを思い出す。
「水音がします。綺麗な川があったら水を汲んできますね」
クラリスが商人たちとともに消え、ソルも散歩に出ると言い残して姿を消す。
太陽はだいぶ昇ってきてはいるが、まだ昼食には早い。ヒューの用意する茶に、ソロモンのクッキーでティータイムにするくらいだ。
クラリスが綺麗な水を水筒に汲んでくる。
「冷たいのもいいけど、熱いハーブティーが飲めれば贅沢よね。ソルがいれば火を起こしてもらおうと思ってたの忘れてたわ」
「少し時間はかかりますが、そう急ぐこともないでしょう」
と、ソロモンが鞄から取り出したのはこの大陸ではまだ高価なマッチ箱だ。手慣れた様子で焚火の準備を進め、いつも持ち歩いているらしい鉄瓶を火にかける。
「沸くまでちょっと散歩でもしてましょうか。ララちゃんもどう?」
光の聖霊が指さした行く手には、雑草に混じり色とりどりの花が咲いている。花々の鮮やかな色に、少女は青緑の大きな目を輝かせる。
「準備ができたら教えるよ」
幼馴染みに言われ、レジーナも自分の水筒を満たそうと木々の間に入っていく。その奥からは確かに、川のせせらぎの音が聞こえてくる。音を頼りに歩くと、細いが透き通った小川が流れていた。時折、川底を小魚が泳いでいくのが見える。
安全な水のようだと確認し、レジーナが水筒に水を補給していると、少女の耳に澄んだ歌声が届く。
美しいメロディーの歌だ。しかし、それにのせられた歌詞はどこか異国のことばのようで、意味は聞き取れない。
歌声に引き寄せられるように小川に沿って下っていくと、小川は小さな池に流れ込んで、その向かいから再度川となって流れ出している。その池の前で黒衣の姿が歌いながら水面を覗き込んでいた。
つられてレジーナも済んだ青の池を見下ろし――目を疑う。白い泡で縁取られたような少女たちの姿が笑顔を向けていた。
「精霊の歌だ」
歌を中断してソルは説明する。
「精霊を使役するのはこの世界でも召喚魔法の基礎らしいな。ま、わたしが今さら精霊を使役したところで、精霊に引き寄せられる人間を闇の道に誘うくらいの用途しかないが」
池の中の精霊は歌が止まるとどこかに消えてしまっていた。あとには、水面にわずかに泡がたゆたうのみ。
上級魔族は水面から顔を上げて小さくほほ笑みを浮かべていた。しかし、レジーナは鋭い目を向ける。
「あなた……家族はいるの?」
「いや、いない」
唐突な質問にあっさり答え、ソルは少し怪訝そうな顔をした。
「なぜそんなことを?」
「わたし、ヒューやララのことは本当の家族のように思ってるの。あなたがあの兄妹を守ってくれるというならそれでいいけど、もし二人を間違った道に導いたり傷つけるようなことがあれば、わたしは許さない」
「それはどういう意味で〈傷つける〉のかによると思うけれど、召喚士が無事じゃないとわたしは帰れないからな」
「帰りたいのは事実なの? 待つ人もいないのに」
「人じゃないし、家族じゃなくても待つ者はいるだろう? 帰らなくても代わりはいるかもしれないが」
少女を振り向き、魔族は首を傾げる。
「そういえば……そのブローチ、どこかで見た気がするな。似たような別の物でも見たのかもしれないが」
大事なブローチに注意を向けられると、それを奪われるのではないかと感じたように、少女はブローチに手を当てて後ずさりする。
「似たようなものくらい……たくさんあるでしょ」
言い残して、彼女は逃げるように木々の向こうへ走り去っていく。
その背中を見送り、ソルは肩をすくめた。
「嫌われたな」
鉄瓶に入った水はすでに湯気を立て、ヒューは畳んだ布の上にカップを並べていた。
「丁度良かった。そろそろ呼ぼうと思ってたよ」
幼馴染みの少年の笑顔に迎えられると、レジーナは内心ホッとする。
そこへ、つい今しがたまで花畑に屈み込んでいたオーロラとララが駆け寄った。
「見て見て、ほら、キレイでしょ?」
幼い少女が差し出したのは、色とりどりの花をまとめた小さな束だ。白い大きな花に、可愛らしい黄色と桃色の花、形の良い緑の葉が添えられている。
「あら、いいじゃない。きれいな花ね」
レジーナがほほ笑むとララは花束をオーロラに渡し、渡された方はそれを、なにごとかと一瞬固まる少女の頭に飾る。
少女の高い位置で一本に束ねた髪の根もとに、鮮やかな花々が咲いた。
「ほら、作り物の髪飾りよりこっちのが綺麗なくらいだわ。服だけは買わないといけないだろうけど」
「そんなに、あの本を気にしなくても……」
少女の顔がかすかに赤く染まっている。
「好きでやってるんだからいいのよ。昔はよく、同僚や後輩の子に服やアクセサリーを選んだり贈ったりしていたものだわ」
楽しげな光の聖霊のことばから、レジーナはエルレンで聞いた話を思い出した。
「それって、行方不明になったとかいう人も……?」
ある人物を探している。という割には、オーロラはその人物について尋ねて回るようなこともない。それが彼女たちには不思議だった。
「その行方不明になった人物って、なんて名前なんですか? それがわかれば、少しは僕らも手伝えるかもしれない」
ヒューが質問すると、オーロラは少し考え、
「名前はね……ルナよ。どう訳されているかわからないけれど、それで通じるはず。茶色の髪で背が低くて目の大きな可愛い子だったんだけど、でも見つけられる可能性は低いわよ?」
そう言い切った。
「だって、いなくなったの二百年前くらいだし」
そのことばにはヒューもレジーナも目を丸くする。
しかし、光の聖霊は人間ではない。その寿命も人間のそれをはるかに超越しており、考えてみれば充分に有り得る話だった。
「だから、焦ることはないのよ。探すと言っても、見つからなかったら見つからないで仕方ない、くらいのものよ」
そういうものなのか、とヒューは相手の感覚を理解できないまま納得した。この世界の人間の寿命はせいぜい六〇年程度だ。永遠に近い時間を生きる者の感覚などわからなくて当然、と思うことにする。
ハーブティーを入れ終わったころにはソルも戻ってきて、馬の世話をしていた商人夫妻も自分たちのカップで茶会に加わる。二頭の馬たちも足を休め、草をはみながら水を飲んでいる。
「エルレンも早く立て直したいですが、できればエーノンには我々と一緒に故郷へ来てほしいところです。この辺りも段々と戦火が近づいていますから」
「すでにこの辺りの町にも、帝国のスパイが入り込んでいるという噂はありますね」
商人のことばにソロモンも同意する。二人とも戦地を抜けてやってきたのだ。信憑性のある話に、ヒューは背筋に冷たいものを感じる。
「僕らもそろそろ、町を捨てる覚悟が必要なんでしょうか……」
「残念ながら、そうでしょうね」
ソロモンがそう言い切る。
「エルレンの夜に見た二人も、あの町に住んでもいない、我々のような旅人でもない、野盗のように見えても野盗ではないという怪しげな連中でしたし。あれは帝国の斥候だったのかもしれません」
「確かに、あの町になんの用事があって来たのか不明な二人だったな」
ソルもエルレンの酒場で出会った二人を思い出し、カップから顔を上げる。
「となると、エルレンも侵攻される日が近いということで……人々が元気を取り戻したら、すぐに避難先を探さなければ。それにしても……」
と、商人が続けるのは、多くの人々が抱く疑問。
「帝国はなんのために、どこまで侵攻するつもりなんでしょうね?」
ジャリス帝国の目的がわかれば対策のしようもあるかもしれない。だからこそ、帝国の脅威にさらされるあらゆる町で何度も議題にあがってきたことだ。
今のジャリス帝国の皇帝ランハルベッセ四世がその座について一四年ほどが経つ。皇帝には皇女、ぺリンダ姫という一人娘がいた。姫は心優しく快活な性格で、何年もの間、率先して周辺国との貿易や交流を進めていた。噂のいくつかによると、帝国の若い将軍と恋仲だとか、よくお忍びで城下の人々の生活を眺めていたという。
しかしあるときから姫はまったく表に出なくなり、その消息も、噂ひとつも聞こえなくなった。しばらく後、帝国は侵攻を開始する。
姫は暗殺され、それが侵攻の引き金となったのでは。あるいは、姫は侵攻の邪魔なので幽閉されたのだ、いや侵攻派の貴族に捕らわれ脅迫された皇帝が侵攻を開始したのだ――ほか、すでに姫は宮廷を出てレジスタンスと合流している、という説を唱える者もいる。
しかし、事実がどうなのかは姫の生死すら不明だ。
「よく聞くのは、ぺリンダ姫は暗殺され、暗殺者の故郷の国を討つために侵攻を開始した、という話ですね。それも誰かの想像に過ぎませんが」
ソロモン同様、ヒューもハッシュカルの町で一番聞いた説がそれだ。目的の国までの間も侵略し力を蓄え、移動に障害が出ないようにしようとしているのだろう、という。
「周りの国からすれば迷惑な話ね。いずれ、帝国には天罰が下ることでしょう」
「だといいのですが……」
珍しく神の使いらしいことを言うオーロラのことばを受けても、商人は不安を拭い切れないようだった。
間もなく、休憩を終えた馬車は再びハッシュカルを目指して出発する。ただ平原が続くのみのハッシュカル北への道とは違い、視界は丘に遮られていてなかなか目的の街並みは見えてこない。
荷台で揺られながら、ヒューは少し不安を覚えていた。
――早く祖父に会いたい。そして、できる限り早く避難について考えた方がいいかもしれない。そういったことは大人たちが上手く考えてくれるだろう……と、今までは他人任せにしていたけれど。
「お兄ちゃん、これあげる」
妹が差し出したのは、ペルメールで買った飴だった。
「甘くて美味しいんだよ」
「ありがとう。自分の分はあるのかい?」
「うん。残り少なくなっちゃうけど、みんなと一緒に食べた方が美味しいから」
笑顔で言い、一人一人に飴を渡していく。
その姿と、口に含んだ飴のほんのり優しい甘さにどこかほっとするものを覚えてヒューは頬を緩ませる。そう、いくら考えたところで仕方のないことはある。
だが、思考は否が応にも引き戻された。
「ソロモンさんたちは戦地を抜けてきたんでしょう? 途中の町はどんな様子だったの?」
レジーナもやはり、帝国の脅威が気になっているようだった。
「我々が見た侵略された町は一ヶ所だけですけども」
ソロモンとクラリスも同乗したこの馬車は、帝国の侵攻する領域を抜けてペルメールまで移動した。ほとんどはできる限り帝国兵の目に入るような場所を避け、帝国の支配下にある町には近づかないようにしていたという。
ただ一度だけ、どうしても水や食料の補給のために町に寄る必要があった。立ち寄った町の近くの林に馬車を隠し、彼らはとある町に寄る。
人々は家に閉じこもり、帝国兵が時折巡回している様子だった。開店している店は必要最低限で、あまり戦闘は行われなかったらしいが、それでも町の一部には崩れた建物や焼け焦げた跡など、戦いの名残が見えた。
「まだ統治部隊が来ていないから巡回程度だけど、もうすぐ部隊がやってくる。そうしたら出入りも厳しくなるだろう。早めに出た方がいい」
店の主人の助言を聞き、ソロモンらは必要な物だけ素早く購入し町を出ることにした。買い物の間に聞いた話では、町も自警団を作り抵抗していたが、帝国側の兵器の威力の前には歯が立たず、すぐに陥落してしまったという。
より詳細を聞きたかったものの巡回までの時間がないと急かされ、一行は店を出て真っ直ぐ門へ引き返したが、そこで帝国兵に見つかってしまう。
「それで、どうやって切り抜けたの?」
武器すらなにも持っていない一行が、一体どうやって危機を切り抜けられたのか。
レジーナに応えて、ソロモンは白衣の懐から手のひらに収まる程度の大きさの球体を取り出した。灰色の布で巻かれた球体の中身はうかがい知れない。
「催涙効果のある煙幕ですよ。これでどうにか、文字通り煙に巻いて逃げおおせました。馬車まで辿り着ければ、こっちのものですからね」
帝国兵たちはまだ、追跡に人員を割けない。林まで逃げられた一行はそこに隠していた馬車に乗り、加速して帝国の支配下にある町を離れることができた。
「そうだったんですか。それにしても、帝国の兵器ってどんなものです?」
「それはわたしも知りたかったんですが。今まで一般の人々には知られてはいないものでしょうし」
ヒューの問いに医師は肩をすくめる。
帝国の技術は進んでおり、帝国兵の使う武器も他の国々のそれより優れた物が多い。銃器を手にする部隊も存在する。
「まあ、それを前にするような状況になったら、とにかく逃げ出すことです」
「見てわかる兵器とやらならいいけどね」
光の聖霊が口を挟んだ。
「一見わからないような……例えば鍋とか花束が兵器だったりしたら、逃げるのにも迷いそうよね」
「町のお店の人が兵器と言っていたくらいなので、たぶん普通の町の人々でも兵器だとわかりやすい形なのではないでしょうか。……しかし、花束が武器になる、武器を隠しているというのはたまに聞きますね。なかなか良い演出かもしれない」
最後の方はなにかを思いついたように小声で言うソロモン。オーロラは、なにを企んでいるんだか――という不審そうな目で見るが、追及はしなかった。
「兵器はともかく、軍隊が問題だな」
「ソルさまでも、やはり難しい相手はいらっしゃるので?」
聖霊の視線から逃れるようにソロモンが尋ねると、ソルは素直にうなずく。
「部隊の規模にもよるけど軍隊を相手にするというのは、多勢に無勢が過ぎる。召喚魔法でも使えれば大勢も相手にできるが、今の状態ではな」
魔族にとっても、不完全な今の状態なら人間の軍隊の数の暴力は脅威になり得るらしい。
それはどうやら、聖霊も同じことのようだ。
「ま、軍隊なんて遭ったら逃げるだけ」
そこまで言った途端、不意に彼女の碧眼が見開かれる。
「……おかしいわね。ちょっと焦げ臭くない?」
彼女は嗅覚が鋭い。それはペルメール西の洞窟近くにある温泉の件で判明している。今回もヒューたちにはなにも感じられないが、それでも彼女にはきっとなにかが嗅ぎ取れているのだろうと予想できる。
匂いの元はどこなのかと皆は馬車の荷台をあちこち調べてみるが、それらしき物も個所も見つからない。
匂いは外から来ているのでは――とヒューは馬車の外を見るが、木々や茂みに囲まれた土肌の道が続くだけだ。身を乗り出して前方を見てみると、背の高い木々と丘の崖に視界がしばらく閉ざされている。御者台が目に入るが、特に焦げた匂いがしそうな異状は見当たらない。
そのとき、不意に崖が途切れて空が広がる。
雲のほとんどない透けるような青空。その高い位置に向かって伸びていくのは、見覚えのある幾筋もの黒い煙。
「あ……」
それは今までに何度も目にしたものだ。薬草がなくなったのを自警団で確認した、その日にも。
――見間違えじゃないのか。これは現実か?
そう思い込みたくて目を凝らしても、目の前の光景は変わらない。
「なにかあったの?」
レジーナも前方へ顔を向け、動きを止める。彼女の目にも確かに、その光景は映っているのだ。
御者台から商人が声を張り上げる。それが現実を決定的にした。
「様子がおかしい。あの煙はハッシュカルからと思われますが……とりあえず、危険のない範囲で街が見えるくらいまで近づいてみます」
「きな臭いな……」
「あまり危ないことになっていないといいけど」
大人たちも顔をしかめる。
しかし、そんな中でも一番不安げなのはやはり、最も幼い少女。
「お兄ちゃん……お祖父ちゃん大丈夫かな」
それはヒューも一番気にかかることだが、事実は今は知りようがない。そんなことは、いくら幼いとはいえ、妹もわかってはいる。
「大丈夫だよ、きっと。お祖父ちゃんは頭がいいし」
それでもヒューは慰めのことばを口にする。ほんの気休め、根拠のない無責任な出任せに過ぎないとわかってはいたが。
いつかこんな日がくる。それはわかっていたが、彼は再び前方を見ると目が離せなかった。まばたきをした瞬間に、あの煙は風のいたずらかなにかだったと判明しやしないか。これがなにかの間違いだという証拠が現われやしないか。
だが、現実は曲がらず続いていく。目的地が近づくにつれてオーロラ以外の鼻にも、奇妙な匂いが届き始める。匂いだけでなくそれを運ぶ生温いような風自体がどこか不気味だ。
やがて馬車は丘から完全に離れる。
前方に遮るものがなくなる。そこへ視線をやったヒューは絶句した。
黒い煙を立ち昇らせた町は今も赤い炎に包まれ、時折、爆音のような衝撃があちこちで弾けていた。
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