第4話 静寂の夜を裂く者

 窓からの朝日のまぶしさに、少年は目を覚ます。

 ソロモンの姿もなく、爽やかな空気に小鳥のさえずりが響く外に出ると、建物の玄関を出入りする人々が目に入る。皆、出ていくときにはなにかしらの食べ物を手にして礼を言って去っていた。

 建物に入る機会を失い馬車の方へ向かうと、見覚えのある姿が目に入る。ソルとソロモン、商人が空になった袋や木箱を積んでいたところだ。

「おはようございます。朝食は中で用意してありますよ」

「おはようございます、ありがたくいただきますね」

 と商人のことばを受けつま先を返そうとして、少年はふと思い出したように足を止める。

「そういえば、ソルさまは昨日は帰ってきたんですか?」

 いくら爆睡していたとはいえ、起きてから見ても、誰かが近くにいたなら周囲になにか痕跡が残りそうなものだ。しかし、そこにはヒューとソロモンを除く誰かのいた様子はなかった。

「ああ……わたしは馬車の上で寝たからな」

「はあ、馬車の上……」

 とつぶやくと、荷台の幌の上のことだろうか、と見上げてみる。丈夫そうとはいえ、少しの凹みもできていないところを見ると、異界の人外は見かけより軽いのかもしれない。

「あ、お兄ちゃんおはよう! 朝ごはん、一緒に食べよー!」

 家の玄関前から妹に呼びかけられ、ヒューは慌ててそちらへ駆け寄る。

 彼らが朝食を食べ終えたころには、持ち込んだ食糧はかなり少なくなっていた。とても全体には行き渡っていないだろう。

「ハッシュカルから食糧を手に入れようと思います。それでも充分とは言えないでしょうが」

「それでも、弱っている人くらいは助かるでしょうし」

 商人夫妻が希望を込めて言う。

 ヒューがペルメールから持ってきたイノシシ肉も、すでに町に提供していた。さすがに町の人々の困窮した様子を直接目にしては、放っておく気にはなれなかった。

「僕らも一緒に戻ります」

「では、一休みしたら出発しましょう。あと二時間くらいしたらですね」

 手をかざしながら商人が太陽の位置を眺めて言う。時計はこの辺りではあまり普及していないが、大体の時間を読む手段は確立していた。多くの町には通りの中心など目立つところに、時計塔や日時計がある。

「少し町を見てみようか」

 夜には暗くて街並みもほとんどわからなかったものの、やはり村ではなく町というだけはあり、それなりに店が並んでいた。食べ物を扱う店はさすがに閉まっているが、食に関わらない店は大半開いているようだ。

「暇潰しにはなりそうね」

 ララとレジーナがヒューに続く。

 店は開いていても、商店街を歩く者の姿はほとんどない。店の者も疲れた顔で椅子に座っている姿がほとんどで、賑わいとはほど遠い。

 それでも、少年少女たちが近づくと雑貨屋の主人は笑顔で迎えてくれた。

「いらっしゃい。昨日よそから来た子たちだね。安くしておくよ」

「ありがとうございます」

 イノシシ肉を手放してしまったため、それに代わる祖父への土産でも買うことができるといい――ヒューはそう考えていた。

 祖父の店の調理道具なども古くなってきている。ヒューは包丁やまな板、おたまやフライ返しなどが並ぶ一角を眺めた。

「お祖父さん、大きな鍋がほしいって言ってた気がするけど、ちょっと値が張るし目立つかしら」

 レジーナが目をつけたのは、十人分も料理できそうな大きさの鍋だ。この辺りでもなかなか見かけない大きさで、値段もそれなりに張る。

「うん、さすがに一万レジー近くするのは……」

 安くしてくれると言われはしたが、半額でもヒューたちにとっては高い。土産に買っていっても逆に祖父に怒られかねない。

「それなら、こっちの方がまだいいかな」

 ヒューが目をつけたのはとなりに並んでいた包丁のセットだ。少し小ぶりだが、作りはしっかりしているように見える二種類の包丁が三千レジーで売られていた。

「包丁もいいわね。今使ってるのは、結構刃こぼれしてたみたいだし」

 少し使うたびに祖父が苦労して刃を研いでいるのを、その孫たちも何度も目にしている。

「じゃあ、これにしよう」

 レジーナの賛同も得られると心は決まる。店主は三千レジーのところを二千レジーにしてくれ、包丁二本にしては手軽な値段で手に入れることができた。

「おまけに、ブローチをつけようか。お嬢さんのそれは、壊れているようだね」

 店主が目を留めたのは、レジーナがいつもジャケットの胸に着けている片翼の形のブローチだ。翼の端に四つの窪みがあり、二つは小さな玉石が入っているが、もうふたつの穴はただの空洞になっている。

「でも、これは別の物には代えられないわ。大事な物なの」

 彼女は常にそのブローチを身に着けている。その理由を、ヒューは知っていた。

 彼が初めてそのブローチを目にしたのは十年と数年前。父に連れられてとある遺跡を訪れたヒューははぐれてしまい、父に見つけられたときには、そのブローチを握って倒れていたという。

 それがレジーナの手に渡ったのは、彼女が初めて猟に出かけたときだ。崖崩れに巻き込まれた彼女が無事に救出された後、四つあったはずの玉石がひとつ消えていた。

 とても希少だが、この世界には熟練の魔術師が作る魔法の護符なども存在している。おそらく、そのブローチも魔法の守りの力が秘められているに違いない――人々はそう口々に言い、ヒューはブローチを彼女に譲った。

 本来なら、そのブローチの力はヒューやララを守るために使われるべきものだ。レジーナは秘かに、その分この兄妹を自分が守ろうと心に誓っている。

「だから、ブローチならララの着ける物がいいわ」

 彼女が言うと、幼い少女は目を輝かせる。

「いいの?」

「じゃあ、このなかから好きな物を選んでいいよ」

 店主は小さな木箱を差し出した。そこに入っているものは安物だろうが、幼い少女にはさまざまな形をした木のブローチは宝の山のように見えているようだ。

 ララはしばらく悩んで、ひとつを選び出した。五枚の花弁の花を象った木製の小さなブローチだ。

「着けてあげよう」

「ありがとう、おじさん!」

 胸もとにブローチを着けてもらいララが喜ぶと、店主も頬のこけた顔に嬉しそうな笑みを浮かべていた。

 店を出ると、並ぶ店先の商品を眺めながら歩いているうちに飲食店街に入る。さすがにほとんどが営業していないが、一軒だけ開いている店があった。

 酒場らしいその店の前で、見覚えのある背中がふたつ。

「あれ、オーロラさん、ソロモンさん」

 声をかけられると、二人は少しギクリとした様子で振り返る。

「どうしたんですか、こんなところで」

 まさか、昼間から酒盛りともいかないだろう。それも出発を前にして――と歩み寄ってみると、酒場の前の地面には木片や瓶の欠片らしきものが散らばっている。

「これはまあ……大人のお付き合いってやつの後始末よ」

 ホウキを手にしたオーロラはバツが悪そうに目を逸らす。

 しかし、それでは子どもたちは納得しない。特に、一応召喚士であるヒューは知らない間に聖霊がなにをしたのか気になった。場合によっては彼の責任問題になりかねない。

 ソロモンの方はあきらめた様子で、

「実は昨夜、色々とありまして……」

 と、語り始めた。

 話は、馬小屋でヒューが眠った直後までさかのぼる。

 馬小屋を抜け出したソロモンはエーノン邸の玄関前で、夜の散歩に出ようとしていたオーロラと出会う。

「良かったら、お近づきの記念に大人のお付き合いをしませんか。どこかには開いている店もあるでしょうし」

「でも、あたしは代金を払えないわよ?」

「わたしが奢りますよ」

 それなら、と聖霊が笑みを見せたところで、二人は近づく気配に気がつく。ソルが散策から帰ってきたところだった。

「あなたもどうです? 一杯奢りますよ」

 誘われて、戻ってきたばかりの魔族は一拍考える。

「酒場なら一軒開いていたが……わたしはあまり強くないぞ」

「じゃあ、潰れないようにミルクにでもしときます?」

 医師がほほ笑むと、魔族は少しムッとする。

「さすがに一杯くらいじゃ潰れんわ」

 決まりですね、とソロモンは軽い足取りで歩きだす。オーロラは同じように続き、上手く乗せられたことを自覚したらしいソルは少し仕方なさそうに続く。

 通りには街燈はなく、閉め切ってすでに眠っている家ばかりだ。三人は月あかりを頼りにしばらく歩き、やがて明かりの洩れる店を見つける。

 玄関をくぐると、店内には何組か先客がいた。食糧はなくても酒類は尽きていないらしく、そのため営業を続けているらしかった。

「いらっしゃい、旅のかたたち。おつまみは、漬け物かナッツくらいしか出せないよ」

 店主は若く、痩せてはいるが愛想のいい男だった。

「それで充分よ。こうやって旅先のお酒が飲めるだけでもいいものだし」

 オーロラの言う〈旅先〉とは、おそらく異世界のことだろう。話を聞いているヒューはどこの世界にも酒は共通して存在するのだろうかと気になったが、召喚元と文化が似ている世界から召喚されるということは、酒も存在する可能性が高いのだろう。

 カウンター近くのテーブルに席をとった三人はそれぞれに酒を注文する。安い酒は売り切れが多く、選べる種類は少なかった。

「結構来てる住民はいるのね。まあ、食糧がないってだけでみんなが無一文になったわけじゃないか」

「空腹を忘れるために飲むとか、早く寝るために飲むんじゃないか」

「寂しいわね、できれば酒は楽しく飲みたいものだわ。この状況じゃ仕方ないでしょうけど」

 別のテーブルで飲んでいる住人達も一言も発することなく、黙々と定期的にカップを口に運んでいる。

「ま、あたしは今は美味しいお酒が飲めればそれでいいけど。せっかくだし、すべての種類制覇しちゃおうかしら」

「それはなかなかの出費になりそうな……」

 支払いはすべてソロモンの懐から出る。医師は苦笑し、口もとを引きつらせた。

 すぐに注文した酒と二種類のつまみが運ばれてくる。ソロモンは高級な葡萄酒を、オーロラは地元産の麦から作られたという名物の地酒を、ソルは一番弱い果実酒を手にした。

「では、我々の出会いと末長い友好を祝し、乾杯といきましょうか」

「末長い?」

 医師のことばをソルが聞き咎める。

「我々の関係はもうここまでで終わりのはずだろ」

「もうペルメールで目的は果たしましたし、わたしたちは普段、当てのない旅をしているんですよ。一応、クラリスの新しい生活の場を探すという目的はありますが」

 医師の助手をしているクラリスはあまり肺が丈夫ではなく、空気の良い新天地を求めているという。彼女は妖精の血を引いており、本来、街中で暮らすのには向いていないらしい。

「当てがないなら、誰について行ってもいいわけで。よろしくお願いします、ソルさま、オーロラさん」

「やだ」

「あたしはべつに……だけど、旅といっても帰るだけよ?」

 言って、美女はナッツを口に入れると酒をすする。

「うん、渋いけどなかなか深みのある味ね」

 なかなかの酒好きらしい感想を洩らす。

 そのとき不意に、勢いよくドアが開かれた。

 店内の者が一斉に振り向く。そこにいたのは、二人連れの男だ。布で髪をまとめ、革や木でできた軽鎧を身に着けており、腰には鞘入りの曲刀を吊るしている。どことなく、雰囲気が野盗たちに似ていた。

「やっと開いている店があったか。まったく、辛気臭い町だ」

 若い男たちは店内に入ってすぐに、カウンター前のテーブルの席に座る目立つ客たちの姿を見つける。

「ほう……なんの色気もない町だと思っていたが、綺麗どころもいるじゃないか。お嬢さん、あんたがお酌してくれたら少しはオレの苦労も報われるんだがな」

「奢ってくれるならいいわよ」

 声をかけられた金髪の美女はまんざらでもない様子である。

 その同行者たちは特に反応しなかった。当人がいいなら口を挟むいわれもない。

 しかし、彼らのテーブルに近づいてきた男たちの一方が、オーロラだけでなくそのとなりに目を留め、紋様のある頬に手を伸ばす。

「あんたも綺麗だな。となりに座ってお酌してくれよ」

 顔を上げさせられたソルはわずかに嫌そうに目を細める。

「どうやら、そちらは好みが違うようで」

 声を潜めたソロモンのつぶやき。

 豪奢な長い金髪と巻き付くような目を引くドレスの、いかにも明るく活発そうな美女のオーロラより、肩にかかる赤毛に理知的な服装で中性的な容姿もさることながら、物静かな雰囲気のあるソルの方が、女性的に感じる者もいるだろう――というのが彼の見立てだ。

 ソルが口を開きかけるが、彼がことばを放つより早く、テーブルを叩く音が響いた。

「ちょっと、あんたたち……あたしだけじゃ不満なの!?」

 立ち上がって声を上げるのは、この場にいる唯一の女性。どうやらプライドを傷つけられたらしい。

 その剣幕に男たちは少し怯む。

「いや、別に不満はないが……でも綺麗どころは多い方がいいだろ」

「良くないわよ。男と、しかもこんなのと同列にされるなんてこっちはゴメンだわ。あんた、趣味悪過ぎなんじゃないの?」

 当然、男は目の前にいるのが光の聖霊とその対立勢力である魔族とは微塵も知らない。最初はオーロラの剣幕に引いていたものの、彼女の侮辱とも取れることばに頬を紅潮させる。

「なんだと! お前みたいな生意気な女こそ、こっちから願い下げだ!」

「なんですって!」

 ガタン、とオーロラが立ち上がり、男たちの方は脅すように曲刀を抜き放つ。

 オーロラは対抗するように座っていた椅子を持ち上げた。

「……酔ってるのか?」

「さあ?」

 男の手から逃れたソルと静かにカップを傾けているソロモンが、喧嘩に巻き込まれないように椅子ごと少し離れる。

 男二人は曲刀をかまえるが、オーロラも椅子を頭上に持ち上げたまま獣が威嚇するように牙を見せて相手を睨みつけ、一歩も引かない。

 店主もほかの客もこの展開に怯え、身動きが取れないでいる。

「喧嘩をするなら外でやれ」

 ソルの至極真っ当なことばで、三名はピリピリとした空気をまとったまま外へ出ていく。

 それを一度は見送りつつ、ソロモンが立ち上がった。

「やはり一人で行かせるわけにもいかないでしょう。怪我人が出るかもしれませんし」

「面倒な……ま、酒の肴にでもするか」

 溜め息交じりに立ち上がり、ソルも医師とともに外へ出る。

 出て視界に入るのは、男一人が振り下ろした曲刀を椅子で受け止めるオーロラ。しかし、椅子の脚は切り飛ばされてしまう。

「腕は悪くないらしい。得物がいいだけかもしれないけどな」

 平然と感想を口にするソルにもう一人の男が気がつく。

「得物がいいだけかは、自分で確かめな!」

 突き出された剣先はそれなりに鋭いものだったが、ソルはあっさり避けて相手の剣を握る手を取り捻り上げる。

「ぎゃっ!」

 男は痛みに悲鳴を上げて剣を落とす。

 それでも根性を見せて、涙目になりながら逆手で懐からなにかを取り出し、振り上げる。しかしそれも標的をまったく捉えることなく、みぞおちに一撃を受けて手から落としながら石畳に倒れる。

 倒れた男の脇でガシャンと音を立てて飛散するのは、瓶と赤い液体。かすかに酒類特有の匂いが立つ。

「うわ、もったいな!」

 声を上げるオーロラの隙を突くように、曲刀が盾代わりの椅子に叩きつけられる。椅子は背もたれも座席部も壊され、ほとんどバラバラになってしまう。

「大事な店の備品が! ソロモン、弁償お願いね」

「ええっ……」

 医師は抗議の声を上げるが、聖霊は意に介さない。

 今や、彼女の手には手のひら大の小さな木片だけが残っている。それは、もはやなす術のない無力な姿に男には見えていたのだろう。

「観念しな、お嬢さん。大人しく従えば可愛がってやるよ」

 その顔には笑みすら浮かべている。同行者のことは視界に入っていないようだ。

「誰が従うものですか。あたしが従うのはただ一人だっていうの」

「ちょっとは痛い目、見ないとダメらしいな」

 曲刀が閃く。殺すつもりはないのだろう、肩口を狙った一撃だ。

 その刃が標的に至る前に、彼は衝撃を感じる。

「がっ……?」

 見下ろす目に映るのは、腹に食い込む木片だ。それはいつの間にか、美女の手のひらから消えていた。

 なにが起きたのかはっきりとは理解しないまま、男は泡を吹いて前のめりに倒れる。

「やれやれ、これでゆっくり飲めるわねえ。このまま世界各地のお酒を飲み歩く旅でもやりましょうか」

 両手を腰に当て、美女は勝ち誇ったように胸を張る。

「早く元の世界に帰りたいんじゃなかったのか?」

「それは変わりないけれど、どうせ長居するなら探しものをするのもいいかと思ってね」

「探しもの……この世界でですか?」

「そう。この世界に召喚されたとは限らないし、どこにいるのか痕跡も残ってないけど」

 探しもの、とはいうものの、オーロラの探すものは人物らしい。

「ま、とりあえす飲み直しましょうか」

 ソルが倒した男を目覚めさせると、男は慌てて倒れている男を引きずるようにして、逃げるように去っていく。

 それを見送り、三名は酒場に戻る。

 椅子代を弁償させられるかとソロモンは恐々としていたが、荒くれ者たちに困っていたのは店主も同じなので、掃除することで弁償はなしにしてくれたという。

「はあ、それで……」

 木片がホウキで集められ、ゴミ箱代わりの使い古された袋に入れられた。

「これで終わり、と……まったく、あいつは手伝いもしないで、どこ行ったのかしら」

 オーロラが八つ当たり気味に毒づく相手は、おそらくこの場に姿のない上級魔族のことだろう。エーノン邸にもここまでの道のりでも、その姿は見かけなかった。

 しかし、ヒューはなんとなく彼の行き先が予想できた。

「ソルさまはたぶん……」

 エルレンは小さな町だが、中心部には一通りの公共施設がそろっている。その中には、やはり小さな民家を改装した程度の大きさではあるが、図書館も存在している。

 玄関をくぐると、ヒューの狙い通り、本棚の間に今や見慣れた黒衣の姿が見える。手を伸ばして頭上の本を取るその表情は少し楽しげに見えた。

「案外、学者肌なのかしらね」

 オーロラがそう評する。実際のところ魔族の服装は、剣士や戦士よりも学者や貴族のそれに近い。

 狭い室内だ。ソルもすぐに玄関から近づく気配に気がつく。

「なんだ、キミたちか。まだ時間にはなってないだろう?」

「ええ、僕らも時間を潰していたところです」

 ここは時間を潰すのに向いているに違いなかった。小さい方とはいえ、家の書斎にあるものよりもさらに多くの本が並んでいるのを目にして、ララやレジーナも本の表題を目で追い始める。

「色んな本があるよ、お兄ちゃん」

 ララが喜んで手に取った本は、〈世界の動物〉と題されたものだ。

「へえ、こんな幼い子でも本が読めるなんて、識字率は結構高い……の割に、利用者はほかにいないけど」

「ええ、ほとんどの人は必要最低限しか読めません」

 ヒューとララ、それに幼馴染であるレジーナには、兄妹の両親が残した本がずっとそばに存在した。だが多くの人々は本を読む機会も少なく、それゆえに字も読めない者が多い。

 もう少し大きな町では、学校などで読み書きを教えていることもあるが。

「なるほど。じゃ、ここで時間を潰しますか」

 オーロラも文章を認識できるのだろうが、彼女は絵の多い美術書を開く。開いたものの、ふと思いついたように椅子に座ってテーブルで本を開いているソルの上から覗き込む。

「魔族はなにを読むのかと思ったら、植物事典……?」

「今は知識を得られる本がいいだろう。食べられる野草や魚を知っておいた方が役に立つかもしれない」

「勤勉ですね。わたしが一緒にいれば、植物や薬草についての知識はお任せできますよ」

 懐から手のひら大の薬草図鑑を取り出して見せる医師に、魔族はどこか白けた目を向ける。

「間に合ってるよ」

「まあまあ、そう言わずお試しくらいしていただければ」

「やだ」

 大人たちが話している間にヒューは召喚士や魔法についての本を探してみるが、一冊もないようだ。魔導書というものは、簡単に見つかるものではないらしい。

 光の聖霊と上級魔族を召喚した魔導書だけは、肌身離さず持ち歩くことにしていた。それが失われれば、いずれせっかく召喚したものを還す方法を見つけたとしても、還せなくなる可能性もある。

 少年があきらめて振り返ると、動物の絵を興味津々で眺めている妹の向こうで幼馴染みが一冊の本を開いていた。チラリと見えた表紙に書かれた題字は、〈季節の着こなし術〉。

 レジーナと出会ってから十年と少し。ヒューは毎日のように彼女の姿を目にしてきたが、いつも彼女は機能的で飾り気のない服を着ていた。もちろん高価な服など買えないのも理由だろうが、アクセサリーひとつ、ヒューがブローチを譲るまでまったくなかった。

「な、なによ?」

 視線に気がついたのか、レジーナが少し恥ずかしそうに振り向く。

 その瞬間、ヒューからは少しだけ少女が見ていたページが見えた。そこに描かれていた若い女性の絵は、薄桃色のワンピースのスカートに綺麗な花柄のケープをまとい、頭には花を模した髪飾りを着けていた。

「いや、レジーナもそういうオシャレとかに興味あるんだなと思って」

「興味あるっていうか、まあ……一度くらいこういう格好もしてみたいということくらいは思うわ」

 誤魔化すように答える少女の頬は、かすかに赤く染まっている。

 そこへ、どこかで話を聞いていたらしいオーロラがいつの間にか歩み寄っており、レジーナの手もとの本を覗き込む。

「あら、いいじゃないの。たまにはオシャレしなきゃね。ほら、ヒュー、服の一着くらい買ってあげてもバチは当たらないでしょ?」

「まあ、それは……」

 ヒューも少し気になってはいた。レジーナはもともとシチューパイと引き換えだったのだからと、薬草の代金からお礼を渡そうとしても受け取らなかった。ここまでついて来てくれたのに、彼女に少しも得るものがないではないか。

「でも、ここはあまり服の種類がなさそうだし……」

「い、いいわよそんなの。服を買うくらいなら、食費をもらった方がまだ嬉しいわ」

 色気のないことを言い、彼女はバタンと本を閉じた。

「まったく、あたしみたいに永遠に美貌を保てるならともかく、花の命は短いんだからオシャレは楽しめるときに楽しめばいいのよ」

「そうですね」

 ソルの向かいの席で本を開いていたソロモンが、にこやかに同意した。

「やはり、美しく着飾った女性を見るのは良いものです。美しい宝石も、原石のまま置かれては真の価値が見えづらいのと同じように」

「……内容には大体賛成なんだけど、なんか、あなたが言うと少し軽薄に聞こえるわね」

「いや、それは誤解です」

 目を細める美女に、少し慌てる医師。

 まだ出会って間もないが、オーロラの中のソロモンという存在の見方も、第一印象とは変わりつつあるようだ。

「そろそろ、出発時間が近くなってきたな」

 しばらく植物事典を読んでいたソルが顔を上げ、窓の外を見上げた。狭い空に少しずつ高く昇りつつある太陽が輝く。

 そのまぶしい光の近くに、ヒューは奇妙なものを見つける。

「なんだろう、あれ……」

 窓の向かいに見える民家の屋根の向こうに、先端が少し崩れ、石造の外壁にひび割れが走った尖塔が見えた。

「時計塔……には見えないな」

 本を閉じたソルもそれを見上げる。

「ああ、あれですか」

 同じく読んでいた本を閉じたソロモンは、訳知り顔で口を開く。

「あれは教会でしょうね。二年前までここの教会には司祭や神官がいて、それなりに町の人々も交流があったそうですが、火事で司祭や住人の何人かが亡くなってからは全員引き揚げ、今は寄り付く人も少ないそうです」

 となり町で火事があった――それくらいのことは当時に聞いていたかもしれないが、ヒューは覚えていない。

「教会なんぞに用はないからどうでもいいな」

 肩をすくめ、ソルは本を元の棚に戻した。

 商人たちを待たせては悪い。ヒューたちは図書館を出ると、真っ直ぐエーノン邸へと戻る。商人の親戚の家では、クラリスがエプロンを着けて弁当を作り終えたところだった。

「お料理は少し得意なんです」

 少し照れたようにほほ笑む彼女の前で、彩り豊かなサンドイッチや柔らかそうな肉団子、ふくよかな煮豆などが包まれていく。

「準備万端ね」

 すっかり荷物がまとめられると、レジーナが率先してそれを抱え積み込む。ヒューたちもそれに倣った。ここで積み込む物は空の木箱や袋くらいでそう多くはなく、そのまま馬車に乗り込む。

「時間がかかるから、みんな、飴を食べようね」

 ララが得意げにペルメールで買った飴を出して見せた。

「小腹がすいたらクッキーもありますよ」

 ソロモンが無料で手に入れた菓子の半分は、エルレンの子どもたちへと配られた。それでも充分な量が残っている。

「では、出発しますよ」

 商人が手綱を引き、馬に合図を送る。

 荷台にヒューたちとからの木箱や袋、そしてエルレンの人々から預かった食糧を購入するための代金を乗せて、馬車は町の外へと動き出した。

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