第8話 騒乱の夜
なだらかな登り坂の続く道はそれほど揺れもなく、コトコトという振動はむしろ心地よいくらいだった。
眠気をこらえ、ヒューは〈法術の成り立ち〉のページをめくる。召喚魔法とはかけ離れてはいるが、なにか有力な知識が得られるかもしれない、と思ってのことだ。
「それ、あたしも昨日チラッと読んだけど、魔法と法術の体系はこの世界もあまり変わりないみたいね」
オーロラが覗き込む。
自然の法則を捻じ曲げるのが魔法や魔術であり、自然の流れに方向性を与えたり少し方向を変えるというのが法術である、というくらいは、魔法に興味のある者は知っている。
「召喚魔法なんて自然の法則をぶち壊しもいいところね。一応、この世界の召喚魔法は属性のバランスは取る仕様みたいだけど」
「法術は自然の法則をあまり乱さないから、神さまの使いがよく使うんですか。でも、召喚魔法は神さまが作ったんですよね?」
ヒューが質問すると聖霊は動きを止める。
「この世界ではそうだけど、神さまが作った法則の魔法だから神さまの意志で法則を乱すならそれでいいんじゃないかしら」
「はあ……そういうものですか」
少ししっくりこない気がしながらも、少年はそう応じた。
「あたしの神さまならそれは推奨しないでしょうけれど。法術がやっぱり人間のような生き物には最適よ? 同じ効果のある術でも、法術と魔法では作用の仕方が違うの」
美女は向かい側に視線をやる。対立属性の種族である上級魔族が木箱に寄りかかるようにして目を閉じていた。眠っているのかは不明だが。
「たとえば、同じ治療魔法でも魔法は術者や周囲の魔力からあるべきものを再生し、法術は相手の自然治癒力を高めることで傷の治りを速くする。だから違いとして、魔法による治療は服も再生できちゃう……って……」
聖霊の視線が、ソルと、その手を取って術を使っている医師の姿の上を数度行ったり来たりした。
「ふつう、人間が使うなら法術だけど、あなたは魔法なのね」
「ええ、まあ……」
ソロモンは少しギクリとした様子で、金縁眼鏡の奥の目を逸らす。
「白魔術を少々。こちらの方が便利に思えたもので」
ふーん、と、オーロラは怪しむような顔。ヒューも、そういえば、と疑問を持つ。クラリスは半分妖精の血が入っているそうだが、ソロモンはそもそも人間なのだろうか。
それを口に出す前に、薄目を開けたソルが口を開く。
「なんだ。治療法術より治療魔法の方が便利だと教えたかったのか?」
挑発的なことばに、美女の眉の端が吊り上がる。
「そんなんじゃないわよ。魔法だって、周囲にも術者にもある程度の魔力が必要とか、使う手順が複雑とか、色々弱点があるじゃない。その点、法術は一般人でも練習すればそこそこ扱えるし、失敗しても酷いことにはならないし、大変使い勝手も良くてオトク! 初心者の少年にもお勧めよ」
まるで商売人のようにまくしたてるのがおもしろいのか、ヒューのとなりで妹が笑う。それに、正面でそれを聞いていたソルも。
「最近の神の使いは、舌先三寸で勧誘するらしい」
聖霊が毒気を抜かれたような様子で眺めているうちに、ソルは目を閉じる。今度こそ眠ったらしい。
「なんだか、ソルさまなら惑いの森にも入れそうですね」
なにやら裁縫をしながら、クラリスがほほ笑む。
彼女のことばに、レジーナが思い出したように口を開いた。
「それなんだけど……たぶん、種族と悪しき心っていうのは関係ないんじゃないかしら」
「魔族が悪しき心を持っていないって言われると、敵対勢力のあたしとしてはなんとも……」
「でも、大体戦いが生まれるときは、正義と思っている同士がぶつかるって前にお祖父ちゃんが言ってたよ」
ララのことばにオーロラは目を見開く。
「幼いのに難しいことを覚えているわね。確かに、惑いの森に対する悪はどういう悪かっていうのは気になるわ。森に害を及ぼす者、悪しき心を持つ者……」
「物欲にまみれた者とか?」
レジーナが意味ありそうに見上げると、再びオーロラは固まった。彼女がエルレンの教会で硬貨を拾ったことは、二人しか知らない。
聖霊の脳裏には、ソルが入れた惑いの森に自分だけが入れずに弾かれる図がよぎっている。実際、クラリスから伝えられた話では、森の主の贈り物を狙った物欲まみれの者たちは森には入れなかったのだ。
「こ、今度からもう少し謙虚に生きるわ……」
シルベーニュへの道を辿る馬車の幌で包まれた荷台の上、光の聖霊の悔恨のことばが力なく響いた。
シルベーニュの街並みは、今までのヒューの短い人生の中でも見たことのない雰囲気をかもしだしていた。
白い清潔そうな石造りの建物に時計塔、風を受けて羽根を回す風車。青い山並みが遠く背後に連なる姿は一枚絵にでもなりそうだ。
それが夕日に照らされている。それも風情のあるものだった。
さらに、視界に入る景色はそれだけではない。岡からは広い範囲を見渡すことができた。遠い山々、緑の森、平原とその向こうに見えるエルレンらしき街並みや丘の土肌も。
「いやあ、それなりの町を旅しましたけど、ここほど風景の良い町は初めてです」
門の前で馬車を止めて御者台を降りた商人が、景色を見回して感嘆した。
エルレンで自由に動かせる馬車は限られ、一行の中で馬や馬車を扱えるのもソルとソロモンだけだったので、結局、御者も彼に頼むことになった。ついでに、避難についての伝令役も彼が請け負うことになっていた。
シルベーニュの門番は話を聞くと、上層部へと使いをやって話を伝え、近くの宿で待つように案内する。
門の近くの安価な宿は〈光のテーブルクロス〉亭という看板を掲げていた。建物は小さいがテラスがあり、どの部屋からも風景が楽しめるようになっていた。
「町との交渉はわたしが行いますので、お任せください」
商人に言われ、ヒューは早めの夕食を取りに出かけることに決めた。宿泊費が驚くほど安いだけに、食事は朝食のみの宿だった。
「ついでに、森の情報も集められるといいわね」
と口では言いながら、オーロラの目は店の上を目移りする。
ハッシュカルやエルレンはもちろん、ペルメールよりさらに大きな町だ。通りに並ぶ店も多く、どこも賑わっている。ここは景色や惑いの森を目当てにした旅人の姿が多い。森の珍しい生物を研究したい者、商売にしたい者、誰かのために病気の特効薬を手に入れたい者など、さまざまな者も訪れる。
「先のことを考えると、できるだけ安いところがいいんだけど……」
まだペルメールで得た資金は充分残っているが、今のところは収入の当てもない。
「まだ充分なくらいのお金はあるけどね。後で薬草屋で薬草を不要な分売りましょう。わたしたちにはあまり必要ないし」
レジーナの提案で、ヒューも鞄の片隅に忘れ去っていた、ペルメール西の洞窟で採集した薬草の存在を思い出した。ハッシュカルの自警団に持ち帰る予定だったものだが、持ち帰るべき先はもうない。
それに、怪我をしても治癒の術があるため、ヒューが持っていても使いどころは限られる。
「夕食が終わったら薬草屋を探してみるよ」
話しながら歩くうちに、飲食店が並ぶ通りに入る。よく賑わっているが、出入りしているのは旅装の姿がほとんどだ。
「こういうところは観光客向けで高いのよね。どこか安い大衆食堂でもないか……地元の人にきいてみた方が早いかしら」
言うなり、早速オーロラは地元の者らしい身なりの通行人を捕まえて安くて美味しいという店を聞き出した。その服装や尻尾はどこか異様にも映る姿とはいえ、美女に尋ねられると尋ねられた側も多くは素直に答える。
教えられた店は賑わう通りを一本外れたところにあった。
「いかにも、知る人ぞ知る的な……」
古そうな、あまり賑わいも洩れてこない狭そうな建物に、ソロモンが感想を述べる。
なかに入ると、内部も年季が入っている様子で壁にも傷や汚れが見えた。細長い一室に長いカウンターと三つのテーブル席、という構成の客席だ。奥のテーブル席は二つ埋まっており、身なりからして全員地元の者らしい。
残るテーブル席について木彫りのメニュー表を見たヒューはホッとする。良心的な値段だ。料理は一般的な食堂にあるものばかりだ。ヒューは祖父の店にはなかったチーズリゾットを頼む。祖父の味と比べてしまうと、純粋に味わえない気がした。
一方、妹のララは気にせず祖父の店にもあったハンバーグを頼む。
「惑いの森についてなにか知らないか?」
夕食もほとんど食べ終えたころ、ソルが店主に単刀直入にきく。
店主は気のいい男で質問になんでも答えたが、大半は既知の情報だった。ただ、森の主らしき者は毎度違う姿で現われ、特に法則性もなく町のあちこちの酒場に出没し、酒の好みも偏っていないらしい。
「惑いの森はそれほど人を拒絶しないけど、森の植物で一儲けしようとした商人や妖精をさらおうとした野盗なんかは入れなかったようだね」
「森に珍しい果物でもあるなら食べてみたいなー、とか思うだけでも入れないかしら?」
金髪美女がそんな心配をすると、店主は笑う。
「それくらいは大丈夫だと思うけれど、心配ならお返しになる物を持って行けばいいんじゃないか。森の主のほかにも森の住人がたまに商店街に来て、物々交換で服や食器、雑貨なんかを持って帰るよ」
しかし、異界の住人たちは私物を持っていない。オーロラは一瞬目を輝かせた後、再び考え込む。
「まあ、お酒を買っていけば大丈夫なんじゃないでしょうか」
ソロモンはクラリスと自分の分の代金を払う。彼は医療行為で代金をとっているわけでもないのに、なぜか金に不自由していないようだった。
「まずは薬草屋を探しましょう。わたしも補充したい物がありますし」
これ以上はめぼしい情報も得られないだろう。店を出たときには、周囲はすっかり夜の闇が降りている。
都会の裏道を行く雰囲気に、少年少女たちは少し、後ろめたいような楽しさに心が浮き立つようなものを覚えた。
「ね、せっかく酒場を回るんだし、一杯ひっかけるくらいいいわよね」
聖霊の方もすっかり大人の時間の雰囲気に浮足立っていた。
「いいですね……と言いたいところですが、幼い子どもを連れて酒場を巡るのもなんですし、薬草屋を出たら大人だけで巡った方がいいかもしれませんね」
「ああ、それならわたくしがララちゃんと一緒に宿に戻りますね」
クラリスがそう提案する。ララも酒場までついていくとは言わないようだ。
少し歩いて賑やかな通りに戻ると、すぐに薬草屋を見つけることができた。ヒューは薬草のほとんどを売り、手もとに残した分も一束を除いてソロモンに預ける。
ソロモンは少なくなっていた薬草をいくつか補充したが、店主の女性に少し安くしてもらっていた。
「ララ、これでお菓子でも買って食べて待っててね」
店を出るとヒューは妹の手のひらに、薬草の代金から二〇〇レジーを取って握らせる。
「いいの? クラリスお姉ちゃん、美味しいお菓子買おうね!」
「ええ、いいお菓子を選びましょう」
ララが目を輝かせるとクラリスもほぼ笑みを向け、手をつないで向かい側の並びにある菓子店に歩いていく。酒のことはよくわからないし、とレジーナもそちらに続いた。
酒のことがわからないのはヒューも同じだが、酒を購入するなら財布を持つ彼が居なければならない。もっとも、オーロラが当てにしているのはソロモンの財布のようだが。
「とりあえず、あそこ!」
光の聖霊は手当たり次第に入るつもりのようだ。目につく酒場に入っては、ここで一番評判のいい酒はなにかと問い、珍しい種類の物があればソロモンに買ってもらう。ヒューの懐は痛まないが、少年は少し気が引けた。
「いいんですよ、必要なものですから。それに、子どもが酒を買っていたら怪しいでしょう」
「それはまあ……」
祖父の店では感じなかったのに、ヒューは酒場に立つ自分が酷く場違いに思えていた。
酒の種類も四つに至ると、購入したのは小瓶とはいえ、抱えるソロモンの腕もさすがにしびれてくる。
「あそこで最後にしましょう」
と、オーロラが指さしたのは、最も森から近い酒場である。
これまで訪れた酒場でも話をきくと、どこも「うちにも森の主らしいのが来たよ」と答えていた。訪れる姿は老若男女さまざまで、酒を手に森に向かう姿が目撃されてからそれが森の主だと判明するという。
「ああ、うちもつい先月に来たね。そのときは女の人の姿だった」
最後の店の主人もそう答える。
「どうやら好みは偏ってないというのは本当みたい」
今までの酒場で森の主が買った酒はどれも、強さも種類もどれも統一性がなかった。五本目も、今までに買った物と違う種類の酒を買う。
「これくらいにしておきましょう。さ、仕事の後の一杯よ」
「まあ、一杯くらいなら……」
財布の中身を見ながら医師は恐る恐る言う。エルレンの酒場でも結局、一杯だけではおさまらなかったが。
オーロラとソロモンは四人掛けのテーブル席に着くが、ソルは座ろうとしない。
「森そのものの情報が少ない。わたしはもう少し情報を集めて宿に戻る」
「あまり無理されるのは……」
「人間とは作りが違うんだ。一緒にするな」
医師のことばにも、そう言い残して酒場を出ていく。
「もう命に関わるようなことはありませんが、傷全体を治せたわけではありませんので、激しい運動をすると傷が開く可能性があります」
街中で激しい運動をする機会はほとんどないかもしれない。いや、しかし旅人の出入りが激しいような店では、悪い者も多く入ってくるものだ――どこかで聞いた話を思い出し、ヒューは足をドアへ踏み出す。
「一人にはできません。ここはお任せします」
「ええ、頼みますよ」
背中に声をかけられて送り出されたものの、実際のところ、自分になにができるのか、と少年は思わないでもなかった。
――無茶を止めることくらい、できると思いたい。でも、そもそも怪我をしたのは僕を守るためだったし……。
やや複雑な思いを抱えながらでも、人混みの中に見慣れた背中を見つけると安堵する。彼は人の間をかき分け、走ってその背中に追いついた。
「大した面白くはないかもしれないぞ?」
「いいんです、安全なら」
ソルが足を向ける先は、賑わいから離れていった。向かうのは町の中央部。
ある意味、彼らしい場所だ――と、綺麗な装飾のある大きな建物を見上げ、ヒューは思う。しかし、情報を求めるなら当然行き着く先ではあった。
シルベーニュの図書館は今までヒューが見たどの図書館より大きく、多数の観光客の目にさらされるためか、この町の他の建物同様に、趣のある装飾が施されている。
「時間があれば少し覗いてみたいものだけど、仕方ないな」
身長よりずっと背の高い本棚の並びを見上げ、魔族は少し口惜しそうにぼやく。
閉館時間も迫っているらしく、職員が掃除を始めていた。ソルは手っ取り早くその職員に尋ね、惑いの森の地図を書き写させてもらった。
「三〇年以上も前のものらしいが、なにもないよりはマシだろう」
「じゃあ、もう宿に帰ります?」
「ほかに情報が得られる場所があれば……と思うが、普通は酒場に行く。でも、あれ以上の情報は聞けそうにないし、ほかに人の集まるところがあれば……」
図書館を出ると、足は再び賑わう方向へ。夜ならではの岡からの景色が見られるのではないか、そこに観光客が集まるのでは、とヒューは思いつくものの、具体的な場所までは浮かんでこない。
結局、行き着く先は飲食店街だ。人が集まるのは確かだが、地元の者らしい姿は通りを行く中には少ない。
「少しその辺で休もうか」
不意に、ソルが目を向けたのは小さな公園だ。
いつもと振る舞いがほとんど変わらないので忘れかけていたが、ヒューは同行者が怪我人であることを思い出す。
早く公園で休憩を、と口を開きかけたとき、叫び声が通りの喧騒を引き裂いて夜の空気を震わせる。
「食い逃げだ、捕まえてくれ!」
悲鳴じみた声。
周囲の通行人たちもざわめく。その一部を押しのけ、突き飛ばしてくるのは、いかにも荒くれ者といった風体の大柄な男だ。その手には見せつけるように大剣が握られている。
「ソルさま!」
周囲の人々が道を空ける中、大男の行く手を塞ぐようにソルが進み出る。
――大丈夫なのか?
少年の胸に急激に不安が募る。止めたいが、この状況で止める手段が思いつかない。短剣の柄に手をやるものの、手を出そうとすればむしろソルを危険にさらすだろう。ならば足手まといにならないようにするしかない。
「邪魔だ、どけ!」
大男は夜の闇に溶け込むような黒衣の姿を、障害物と認識したようだった。
ソルは刀を抜いてかまえる。その格好を目の前に、大男も戦意を感じた様子で大剣を振りかぶった。
「おりゃあ!」
野太い気合の声が響く。
突進の勢いと体重を乗せた大剣が小柄な魔族の頭上めがけて打ち下ろされる。
ソルはそれを受け流そうと刃を合わせ、その瞬間、わずかに顔をしかめ後ろに跳び退く。
その様子を怖気づいたと見たのか、大男はなんの警戒も抱かずに追撃を仕掛けようと身を乗り出す。
手を出すべきか、と迷うもののヒューが動く時間的な隙は生まれなかった。大男がソルを間合いに入れる前に、地面から発生した氷の槍が大きな足を閉じ込め、動きを封じる。
「ぐっ、魔術師か!」
大剣で氷を壊そうというのか、大男は剣先を引く。
その隙を与えず、ソルは大剣めがけて炎を噴きつけた。直接身体に当ててはいないが、大剣の柄まで熱くなり大男はギャッと叫んで剣を落とす。
丸腰になった相手を刀の柄で叩いて気絶させたころには、騒ぎを聞きつけた警備隊が駆けつけて来るところだった。
食い逃げ犯を引き渡すとヒューは魔族の手を引く。
「早くそこで休みましょう。傷は大丈夫ですか?」
「過保護だな。傷は開いてないし」
大人しく手を引かれ公園の丸太を真っ二つにしたような長椅子に座り、ソルは自分の胸を軽くなでる。
街燈一つだけの小さな公園だ。ほかに人の気配もなく、ヒューは静けさに妙な安心感を抱きながら同行者のとなりに座った。
「でも、痛んでいたように見えましたが……」
彼の目にも、あきらかにソルが表情を変えたのは映っていた。
「痛くはない。ソロモンに痛み止めをもらって飲んでいる。違和感があるときはあるから、そういうときは気をつけているだけだ。さっきのもね」
「だといいんですが」
「もう放っておいてもしばらくすれば再生する程度だし、そんなに気にかけることもないだろう。長い付き合いでもないのに」
「気にはなりますよ」
目を合わせるのが少し恥ずかしくて、ヒューはわずかに目を逸らしたまま応じる。
最初は魔族が恐ろしくて近づき難かったが、もう恐怖はない。むしろ、近くで見ると綺麗な女性のような外見にどぎまぎしてしまう。
「だってその、ソルさまが怪我をしたのは僕を庇ったから……」
「そんなことを気にしてたのか?」
ソルは少し驚いた後、ほほ笑む。
「召喚士が死ねば帰れなくなる可能性もある。それにわたしが勝手にやったことだからキミが気にする理由はないよ」
その声はいつもより柔らかかった。
――まるで、魔族とは思えないような。
そう思うものの、ヒューはもしかしたら、自分の中の〈魔族〉の想定の方が間違っているのでは、と考え直す。
この世界の人々にとって魔族はあまり馴染みはない。悪人の魂が死後堕とされるという冥府には妖魔や魔族、恐ろしい魑魅魍魎が闊歩している、などと本には書かれているが、実際のところ魔族が存在しているかどうかすらあきらかではない。存在したとしても、それが異界の魔族と同一ともわからない。
「まあ、キミはもっと鍛える必要はあるだろうな。昼間は術の話をしていたが、それよりまずは武術を練習した方がいいと思う」
術を習ったところで、ヒューは召喚した二名を送り返さない限り魔力を使えず、実際には使用できないままだ。
「それは確かに……」
「その短剣は手足より間合いが短いから、慣れないうちはなにをどう使うか考えながら戦う必要がある。格闘能力の高い者向けだな」
「そ、そうなんですか」
ただ、父の使っていた護身用の短剣があったから使っているというだけだ。それがどういう武器で、どういう戦い方をするべきかなど考えたこともない。
だが、改めて見下ろしてみてヒューは気がつく。その短剣は数少ない父の形見だと。
「前にも言ったが、そのうち稽古をつけてやろう。さすがに怪我が治ってからじゃないとうるさいのがいそうだが」
「そりゃそうですよ」
自分もそのうるさいのに入っているのだろうと、ヒューは思わず笑った。
人の気配のない薄暗い公園に、不意に別の気配が生まれる。しかし、警戒するまでもなく正体は視界に入る――賑やかな通りへと続く出入り口に、白いエプロンをつけて盆を両手に抱えた若い女性が近づいてくるのが見えた。まるで出前でも届けるような格好だ。
彼女は真っすぐ、長椅子の二人のもとを訪れる。もちろん、出前など頼んでいないが。
「あの、食い逃げ犯を捕まえてくださったかたたちですね?」
「確かにそうだが」
確認すると、女性は頬にそばかすのある顔に安心したようなほほ笑みを浮かべ礼を言った。彼女は食い逃げされた店の店主の娘で従業員でもあり、店主に言われ礼を届けに来たという。
――僕はなにもしていないのに、いいのかな。
二人分あるチーズパイを見て、ヒューは少しうしろめたい気になる。
「店主の娘ということは、地元の人間だな」
ソルが口を開くと、栗色の髪を団子状にまとめた女性は、そうです、と簡単に肯定した。
それならば、と魔族は惑いの森について尋ねる。今まで聞いた情報と被らないよう、森の主のことを除いて、と付け加えて。
「最近、森の住人が食料を買いに何度か食料のお店を訪ねていると聞きました。あと、年配のかたに聞いた話だと、森には遺跡があるのですが……」
遺跡は古い地図にも描かれていた。それは湖のそばから谷の底へと続いている。
「遺跡には凄い魔術師が住んでいるらしいです。大昔には遠くの国の宮廷魔術師もやっていて活躍していたけれど、世俗のしがらみが嫌になって隠居したとか」
「魔術師か。森に入れるということは悪意のある人物ではないんだな」
「ええ、森の主と意気投合して、森の守りにも力を貸しているらしい、と言われていました」
それ以上の新しい情報はないらしく、二人は礼を言って女性を見送った。
「魔術師に頼めば、避難してきた人々を守ってくれるかもしれませんね」
「上手く行けばな……これはわたしには大きいな。宿に戻ったら誰かにあげるとしよう」
ソルは手のひら二つ分はあるチーズパイを持て余していた。多少はこの世界の大気からも彼の生命力の源でもある魔力を得られるためか、彼はあまり食事を多く口にしない。
まだまだ夜はこれからだと見える通りの賑わいを抜けて〈光のテーブルクロス〉亭に戻ったところ、部屋には先に商人の姿がある。
「町長さんも議会の方々もできる限りのことをすると約束してくださいました。馬車をありったけ動員して迎えをやっていただけるそうです」
周辺の町への信仰の情報はシルベーニュにも届いており、ハッシュカルから昇る煙はここからも見え、町の人々も不安と心配を抱いていたという。
「それで、わたしも迎えに戻りたいのですが、大丈夫でしょうか?」
そのことばに、ヒューは内心、少し迷った。
今こうしている間にもエルレンに危険が迫っている可能性すらある。早く祖父をここへと連れて来たい。それに商人も妻や親戚を置いてここまで来ている。
しかし、歩いて惑いの森まで行けるだろうか。
「それほど森は遠くないし、大丈夫だろう。少なくとも、ハッシュカルとペルメールの間ほど歩かないだろう?」
その程度歩くくらい平気だ、とソルは言いたいらしい。
「確かに、近くはありますが」
「では、わたしは朝一番に戻りますね」
商人はほっとしたように言い、早々にベッドに入ってイビキをかき始める。
「あの二人は、いつまで飲んでるんだ?」
「さあ……」
残された二人はテラスから外を覗き見るが、夜道を戻ってくる見覚えのある姿はなかった。
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