第9話 惑いの森の洗礼
「あー、さすがに飲み過ぎたわね、昨日」
爽やかな青空の下、草原に延びた土肌の道を歩く一行の最後尾を頼りない足取りで歩いているのは、狐目の金髪美女だった。いつもは風になびく白い尾も力なく垂れさがっている。
「二日酔いの薬を差し上げましょうか。その辺りにも薬草が生えてますし」
「もらおうかしら。あなた、こういうのに詳しんだってね」
そばでララの手を引いて歩いていたクラリスが、道端に生えていた草の中から一本を選び出して手折る。先端に白い花がいくつかついた植物だ。
「薬草についてなら、ソロモン先生にも負けませんよ。……この花の蜜は二日酔いに良く効くんです。本当は根を煎じて飲むのが一番なんですが、蜜だけでも結構効きます」
「ありがとう、助かるわ」
「どういたしまして。ここは空気が良いですから、すぐ良くなると思いますよ」
クラリスは街の空気が合わず、空気の良い住処を探している――オーロラは医師の言っていたことを思い出す。
「精霊や妖精も住んでいるらしいし……あなたには森は過ごしやすいかもね」
「もしかしたら、惑いの森がわたくしの第二の故郷になるかもしれませんね」
クラリスが楽しげに話すのを、その前方でソロモンが少し複雑そうな表情でチラリと振り向いていた。しかしすぐに、彼は助手よりもその後方を歩く黒尽くめに目を留める。
「大丈夫ですか、ソルさま」
ソルは最後尾を歩いているが、それ自体はいつものことだ。全体を見渡せるしんがりが警戒し易いという考えなのだろう。
「なんともない。これくらい、激しい運動にも入らないだろう」
平然と言い、前方を占める森に目をやる。
シルベーニュを出て緩やかな坂を下り、まだ一時間も経過していない。惑いの森への距離はペルメールから西の洞窟までの距離より近い。
「まず、森の中に入れるかよね」
土肌の道は森の中まで続いていた。先に現われた木が道の上の空中へと枝を伸ばしている。まるで天然の門のようだ。門の向こうの景色は霧がかかったように薄くぼんやりしているが、綺麗な蝶が舞うのが見え、さまざまな鳥のさえずりが聞こえてくる。
「案外、わたしみたいに生き物を狩るような人は弾かれたりしてね」
「食べるため、生きるための狩猟は大丈夫だと思うけどねえ……森の妖精たちだって、肉を食べる者くらいいそうなもんだけれど」
門の前で立ち止まりためらうレジーナに、オーロラが言う。
不意に、その二人の横を駆け抜ける姿がふたつ。
ララとクラリスが先頭に出てなんでもないように門をくぐり、振り向いて手を振った。
「ほら、簡単に入れちゃったよ。お兄ちゃんたちも、早く!」
「そりゃ、あの子たちは入れるでしょうね」
悪意の欠片もない幼い少女と、森の妖精の血を引く少女。当然の結果と見えた。
「べつに、弾かれても死ぬわけじゃないんだろう?」
と、ソルのことば通り、森に入るのに不適格と判断されて亡くなった者がいるとは聞いたこともない。ヒューは試しに門の向こうへ手を突き出してみるが、なにも起こらない。
「大丈夫みたいですよ、ほら」
「そりゃ、あんたは入れるでしょうね」
あっさりと妹の横に並ぶ少年に、光の聖霊が再びそう感想を洩らす。
「ここで止まっていても仕方ないだろう。行くぞ」
「まあ、あんたもあまり悪の心はなさそうよね」
「それは凄く貶められている気がするけれど……悪の定義が違うんだろう」
肩をすくめ、魔族は何気ない調子で枝の下をくぐる。
それを見送り、オーロラとレジーナは顔を見合わせた。
「行きましょうか」
意を決して歩き出す。枝の下をくぐるときには少し緊張した表情を見せたものの、特に障害もなく通過できた。
「なんだ、あっけないわね」
「あとは……」
全員の視線が一点へ向く。
――あ。
そこにいる人物の姿を見たとき、ヒューはまさか、と胸に湧き上がる不安を覚える。今まで心配もしておらず、医師という悪の心とは無縁に思われる仕事をしているにもかかわらず、もしかして弾かれるのではないか、と思わせる怪しさがソロモンにはあった。
彼は門の下をくぐろうと、急に踏み出しかけた足を止める。まるで、爪先がなにかに引っ掛かったかのように。
「おや?」
かすかに驚きを含む声。
まさか、という思いを強くするほかの一同の前で、彼はペタペタと、空中にある見えない壁を触るようにして両手を動かす。
「ここから進めませんよ?」
「えっ……」
一同、目を見開き唖然。
否、これは予想してしかるべきだったのかもしれない。
「あんたが来れないと酒が持ち込めないじゃない!」
仕方がない、自分が荷物を引き取ろう――といった様子でオーロラが一歩踏み出したと同時に、ソロモンは足を出し門をくぐる。
「すみません、ちょっとやってみたくなりまして」
苦笑しながら申し訳なさそうに言い、逃げるように先頭へ。
「おい……」
「あんたねえ……」
白い目で見る皆の視線が突き刺さり、さすがに医師も冷や汗を流す。
「さ、さあ行きましょう。ほら、珍しい植物も生えてますよ」
門をくぐると霧はかなり薄れた様子だ。赤と青の混じった鮮やかな色合いの蝶が舞い、道の周囲に生えた木には見たことのない形状の葉が茂っていたり、見覚えのない果実が生っていたりする。
道はそのまま、森の奥へと続いていた。ほかに当てもなく、一行は道なりに進んでいく。
「地図が合っていれば、この先に湖があるらしい」
ソルが歩きながら図書館で写した地図を広げる。図書館でもらった植物性の古紙に写し取ったもので、裏に書かれた植物の絵と解説の文章が透けて見えるが、ほぼ邪魔にはならない。
森の主がどこにいるのかもわからない。森の中心部にいるのでは、とヒューはなんとなく考えていた。
「あ、キレイ」
唐突にララが指をさす。
高い木の枝の上に、トンボのような翅を背中に生やした、手のひらに乗る程度の大きさの少女が二人、見下ろしながら談笑していた。指をさされると、その姿はさっと葉の茂る中へと隠れてしまう。
「
「へえ、かわいいね!」
ソロモンの説明に少女が無邪気に声を上げると、小妖精も少しだけ警戒を解いた様子で顔を覗かせるが、近づいてくることはなかった。
「警戒されているみたいね。まあ、どう見ても怪しいし」
「その尾は魔獣や獣人には仲間扱いされそうだが」
「聖獣は寄ってくるけど、魔獣はないわよ」
この言い合いも久々な気がする、とヒューが思っているうちに急に前が開けた。嘘のように薄くかかっていた霧が晴れ、現われた景色に目を奪われる。
底なしのような水面下が透けて見える湖に、巨大で厚い蓮のような葉がいくつも浮かんでいる。そして湖の中心には苔むした石造りの神殿が浮かぶ。神殿は四方を壁のように並ぶ円柱で支える形になっているが、柱の間から見える内部は暗く、外からは覗けない。
「一応、地図は間違っていないらしい」
「となると、近くに遺跡があるはずですね。魔術師が住んでいるとかいう」
ソルとヒューは地図と目の前の地形を重ね合わせる。
その間、湖を覗き込んだレジーナは思わず身を引いた。
「ずいぶん深いのね」
透明度の高い水は、ほとんど空気と変わりない。透かし見える水面下はどこまでも底の見えない谷のように続いている。
「落ちるのは勘弁してほしいけど、あの神殿に森の主がいる可能性もあるでしょうね」
と、少女は神殿に目を向ける。湖の周りを囲む木々や草むらには鳥や小動物、珍しい虫などの姿が見えるが、神殿に生き物の気配があるのかはここからはうかがい知れない。
「とりあえず、呼んでみたら?」
オーロラが言うなり、両手で口の周りに筒を作る。
「すみませーん! 誰かいませんかぁぁぁ!」
湖の向こう岸にでも届くのではと思われる大音声。
湖畔に姿を見せていた小さな生き物たちも驚いて逃げ出し、そばにいたヒューとレジーナは耳を押さえる。
「ちょっと、オーロラさん」
「あら、ゴメン。でもほら、こうすれば耳の良さそうな相手に届きやすいかと」
森の妖精や獣人など、確かに人間ではない種族には、人間より聴力の優れたものもある。
「あのな……聞こえたからって、素直に出てきてくれるとは……」
ソルのあきれの声は、地鳴りに似た音で遮られた。
突き上げるような震動に続いて目の前の湖面の一点に黒い影が揺れたかと思うと、水流が空中めがけ噴き上がる。
白い鱗の巨大な蛇に似た龍が頭をもたげた。
「ほら、来てくれた」
「シーサーペント? あまり友好的には見えませんが……」
シーサーペントは本来、海でたまに目撃される海龍だ。伝承では神の使いだとも縄張りに入ると船を沈めてしまうともされているが、あまり人里に近づかず、たまに船乗りが見るといいことがあるという他愛のない呪いで名前が出るくらいだ。
龍は鋭い銀色の目で湖畔の生物たちを見下ろし、不意に身をくねらせる。
「あ」
悲鳴を上げる間もない。背後に強い衝撃を受け、気がつくとヒューは水しぶきに似た噴き上がる土の中で宙を飛んでいた。
後ろの地面に尾が叩きつけられたらしい。驚き、受け身の体勢を取る。幸い落下地点にあった蓮の葉は弾力があり、背中から落ちてもあまり衝撃を感じることはない。
いくつかの水音が耳に届く。慌てて葉の上で膝をついて見回すと、すべての同行者の姿は視界に入らない。
シーサーペントはゆっくり水中へ沈んでいく。まさか落ちた者を食らうのでは、と気が焦るがどうにもならなかった。
「ララ、大丈夫?」
少し離れたところに浮かぶ葉の上に、幼い少女と金髪をかき上げて身を起こす聖霊の姿が見えた。ヒューを除く姿はその二人だけである。
「うん、平気。でも、レジーナお姉ちゃんたちは?」
「浮かんでこないわね」
水面を覗いてみても、ただ湖の端の土肌が下へ続いているのみだ。
もしかしたら、水面から見えているのは本来の姿ではないのでは――そう少年は思いつく。ここから見えているのは幻覚かもしれない。この森ならあり得そうだ。
「ちょっと水中の様子を探ってみるわ」
オーロラが懐から取り出し、その手を離れた二枚の白い葉は、水面に降りるとまるで魚のようにスイスイと泳いで潜っていく。
それはしばらくして、跳ね上がって主の手のひらに戻ってくる。
「水中にはなにもいないみたい。感触としては、いくつか穴があるようよ。どの程度続いているかはわからないけど」
落下したレジーナたちは穴に入り込んでしまったのだろうか。穴が空気のあるどこかに通じているならいいが、そうでなければ溺れてしまうのではないか。
「あっ」
心配を募らせるヒューの背後へ、妹が指をさす。
つられて振り向くと、手の届かない位置を保ちながらも小妖精たちが近づいて来ている。金髪の少女の小妖精と、淡い赤毛を束ねた少女の小妖精だ。
「あなたたち、仲間とはぐれたんでしょ?」
金髪の小妖精が声をかけてくる。
「なら、大丈夫よ。この湖は落ちたものはみんな神殿の地下に集まるから」
「そうなの? じゃあ、神殿に行けば合流できるのね」
「うん。あの神殿、結構広いから気をつけてね」
忠告すると、二人の妖精は去っていこうとする。それをララが手を振って見送った。
「ありがと、妖精さんたち!」
「どういたしまして。可愛いお客さんには、親切にしないとね!」
小妖精たちも小さな手を振り返し、もと居た木の方へ飛び去って行く。
探すべき場所、行くべき場所が判明し、そしてなにより皆が無事である可能性が高いと知ってヒューは安堵した。
「神殿へ行きましょう」
「そうね。一人にしといたら心配なのもいるし」
オーロラに同意してヒューは妹を手伝いながら、神殿へと続く巨大な蓮の葉の連なりを跳び移り始めた。
いかにも古そうな、ところどころ苔むした大きな岩の塊を組み上げた壁は濡れ、手をついたレジーナはぬるりとした感触に思わず手を引く。
「大丈夫、クラリス?」
持ち物がなにもなくなっていないことを確かめ、彼女はとなりに尋ねる。
感触に気色悪さを感じたものの、嫌な臭いはない。壁には等間隔に小さな籠が付けられ、中に青白く発光するサンゴに似た植物が入れられている。
二人の背後では、壁に開いた出口から水が吐き出されて屋内の水路にそそがれていた。水路は奥にある水車のようなからくりに向かっており、水の流れはそこから上へと向かっているようだ。
「無事……ですが、どこかで鞄の中身を乾かさないと。たぶん、いくらかは使えなくなってしまったでしょうね」
どんなに水流に揉まれても放さなかった大きな鞄を見下ろし、少女は嘆息する。
そして、彼女は気がついた、いつもより視界が広く感じることに。
「あ……ない。眼鏡が……!」
「大丈夫よ」
レジーナが小さく笑い、クラリスの額に上がっていた眼鏡を下ろしてやる。
この大陸では眼鏡は高価な物だ。辛うじて一般に流通しているそれはどれも、頭の後ろで鎖や紐でつながっている型である。気軽に耳にかける型は、一部の富豪や貴族の間だけで使われていた。
「よかった……これがないと、少し離れたところのものはぼやけてなにも見えないんです。ソロモン先生はなくても不自由しないみたいですが」
「伊達眼鏡なのかしら……」
極力服から水分を追い出そうと絞り、靴の中の水を捨て、二人は奥へと歩き出す。見上げる目には、水を螺旋階段のように配置された羽根が組み上げていくからくりが映る。
「凄いですね。これほどのからくり、初めて見ました」
「わたしも。でも、古そうにも見えるわね」
「ええ……もしかしたら、古代機械の一種だったりするかもしれません」
この大陸には大昔、とても文明の進んだ人類が住んでいたとされる。いくつか、何千年も前の遺跡から機械文明の痕跡が出土していた。
からくりの周りを歩くうち、からくりに隠れていた上への階段と、その先に出入り口があることに気がつく。
レジーナは小型ボウガンがきちんと作動することを確かめる。
「ここにいて。奥の様子を見てくるわね」
クラリスを階段の下に残し、彼女はボウガンをかまえながら、慎重に階段を登っていく。
もう少しで出入口の奥が見える。そこまで近づいたとき。
想定外のことが起きた。
「あっ」
出入口の向こうから、栗色の巻き毛の女性の顔が覗き込んできたのである。女性は目を丸くしてぽかんと口を開けていた。レジーナも目が合い、離せなくなる。
「あ、あの……」
とりあえず、なにか言わなければ。
しかしなにを言えばいいのかと迷ううちに、向こうも口を開く。
「お、お客さん? あ、わかった。あなたたち流されて来たのね?」
するり、と女性は出入口をくぐる。
長身で、額に縦に入った筋が特徴的な、エプロン姿の女性だ。額の筋にはレジーナも覚えがある。かつては三ツ目だったが、邪悪な者の干渉から逃れるために第三の目を閉ざした種族とされている、ウィデーレ族はそれなりに有名だ。
「わたしたち、この森の主に会いに来たんだけど、みんなとはぐれてしまって」
相手を信用したわけではないが、レジーナはボウガンを下げる。人間よりは妖精など異種族の方が素直な者が多いと本にも書かれていた。それに、悪の心を持っていては森では暮らせないはずだ。
「よくある話だわ。後で周りの妖精たちに誰か見たか尋ねましょう。ただ、今、手が離せなくて……でも、そのままだと風邪をひてしまうわね」
二人の少女がずぶ濡れなのに目を留め、彼女は手で出入口の方を示す。
「暖炉に当たるくらいならできるわ。ちょっと騒がしい中だけど」
レジーナはクラリスと目を見合わせる、ほかに出入口もなく、選択肢はない。
「ありがとう。甘えさせてもらいます」
クラリスも階段を登り、二人はウィデーレ族の女性の後をついていく。
出入口を抜けると、通路とも呼べない短い空間を通り抜け、後からつけられたらしい木製のドアを開けた後、広い部屋に出る。そこは、言われた通りの騒がしさだ。
ウィデーレ族、背の低くがっしりした妖精の一種であるターデン族、鱗のある肌とひれのような耳の魚人族、狼をそのまま人の体勢にしたような獣人の一種など、さまざまな種族の姿がある。全員、エプロンや割烹着をまとっていた。
なにをしているのかは一目でわかる。ある者は野菜を切り、ある者は鍋をかき混ぜ、ある者はかまどに火を起こそうとし、果物を皿に盛り付けて運ぼうとするターデン族が目の前を通りかかったりもする。
「お、フリウ、新しい手伝いか?」
よほど忙しいのか、見上げる目には期待が映る。
「いえ、湖から迷い込んできた旅のかたよ。……ごめんなさいね、これからお館さまの古いご友人がお客さんでやってくるとかで、みんなパーティーの準備に忙しいの」
暖炉の前まで案内すると、フリウという名らしいウィデーレの女性は自分の持ち場に戻る。薄焼きパンにチーズと野菜を載せて二つ折りにする作業だ。
「お館さまってどんな人なんだろう」
「ええ……それにしても、この森にも色々な食材や料理があるんですね」
鞄の中身を暖炉の前に並べながらも、クラリスは厨房で料理をする者たちを見てあきらかにうずうずしていた。料理したくて仕方がないらしい。
「ここの独特の料理があれば練習したいものです」
その声に、近くで忙しなく野菜を切っていたターデン族の女性が顔を上げる。渡りに船、といった表情だ。
「あんた、料理できるかい?」
問いかけに見せた眼鏡の少女の笑顔は、そのとなりの少女の目には輝いて見えた。
天井からポタリと雫が落ちる。
その下を黒尽くめの姿が通過していく。その足もとにも水が滴っており、もはや多少濡れたところで関係がない様子だ。
彼――ソルは水音に引かれて足を向けていた。通路を出ると、広い空間が広がる。その壁際には水路があり、壁に開いた排水口から水がそそぎ込んでいた。
「ここも同じか」
つぶやき、肩をすくめる。
彼は流れ着いた水の出口のあった部屋から、壁に沿って移動していた。ここまで二つの部屋を巡ったものの、どこも同じような風景であり、ほかに流れ着いた者の姿もない。
出てきた側の通路の向かいには、似たような通路への出入口が開いている。
「行くしかないか」
独り言を口にして歩き始め、数歩進む。
グポ、クポポッ――
水音がわずかに変わる。聞き逃す者も少なくないであろう程度の、なにかが詰まったような小さな音の変化だ。
それでも異変を感じたか、ソルは足を止める。
直後、訪れる明確な異変。
「な……!」
左腕をとられて引き倒される。
受け身をとり仰向けになると、彼の目にわずかに輪郭が映る程度の、透明な触手のようなものが絡みつくのが見える。それは、外から水を吐き出す排水口から伸びていた。
自由な方の手で刀を抜いて触手を斬り飛ばすと、さらに伸びてきた別の触手を床を転がって避ける。直後、刀を手に膝をついて立ち上がろうとして、急に動きを止めた。
「いっ……!」
その身をつらぬく痛みに思わず仰け反る。
薬が切れたのか。すでに、シルベーニュを出発してから想定以上に時間が経っていた。
脂汗をかきながら床に倒れこむ。その隙を狙い、鞭のようにしなった触手が右手から刀が弾き飛ばされる。
かすむ目で見上げると、好機とばかりに何本もの触手が獲物目がけ伸びてくる。
ソルは倒れたまま、迫りくる触手の束目がけ炎を噴きつけた。まるで水そのもののように、炎と熱に焙られた触手はジュッと音を立て蒸発する。
「ぐっ……」
少し離れたところに刀が落ちていることに気がつき、這うように近づく。少しでも動くと右胸に痛みが走り息が詰まるが、変化する水音に追い立てられる。水の出口からは大きなものが詰まったような水音が激しさを増していた。
音は急激に大きくなり、さらに、ズルズルとなにかを引きずるような音が加わる。
――もう少しで手が刀へ届く。
そこまで来て、身体が動かなくなる。触手が一本、彼の足に絡みついて動きを止めていた。それだけではなく、さらに強い力で引っ張られた。
身体が宙に跳ね、床に叩きつけられる。
呻きを押し殺して視線を向けると、触手を生やしている本体と思われるものが狭い出口を這い出てくるところだった。それは身体全体はぶよぶよしていて透明だが、橙色の内臓が透けて見える。大きさは十倍以上違うものの、クラゲの一種によく似ていた。
炎で足に絡む触手を焼き切り、刀をあきらめて迎え撃つ。炎の術で対抗できるだろうという計算だ。
ただ、その胸の痛みは絶え間なく彼の集中力を蝕む。魔法を使うためには精神を集中することが必要になる。痛みは集中するには雑音だった。
出口から全身をひねり出した怪物は、十本近い触手を揺らめかせている。しかも、一度切られた触手も切り口から伸び、どんどん再生していくようだ。
狙いを定めるように触手の先端が伸びる。魔法の標的を定めるため、ソルも鋭い視線でそれを見上げる。
その視界の中、不意に一部の触手の先端が別の方向を探る。
「ソルさま!」
通路のひとつから飛び出してくる、見覚えのある少年。
触手のいくつかは、新しい姿を標的に選んだようだ。
「離れろ!」
魔族は叫びながら炎を噴きつけ、二本の触手を焼く。残りは、どうにかヒューが自分で避けることができたようだ。
その間に、ソルを捕らえようと伸びてくる触手があるが、木の葉でできた蝶が切り裂いて妨害する。切り落とされた触手の先は水と化して落ちるが、本体とつながる側の切り口はすぐにうねうねと先を伸ばし始める。
「うわ、気持ち悪っ」
再生する触手と本体を前にしたオーロラが盛大に顔をしかめる。おぞましそうに相手を睨みつつ、彼女の前に舞うのは二枚の木の葉を羽根のように広げた蝶が二匹。その二匹が怪物の本体に羽根を刃のように滑らせて切りつけた。
怪物の表面が裂け、水がしぶく。しかし傷口は泡でブクブクと包まれたかと思うと、すぐに元のツルツルの表面に戻ってしまう。
「これはまた、厄介そうな……」
「おそらく……火や熱を弱点にしているらしいが」
ヒューとララに支えられながら、ソルは苦しい呼吸の合間に助言する。
それを耳にしても、聖霊の表情はあまり晴れない。
「火力はそんなに出ないわよ」
木片を取り出し、それは宙に放ると火球と化した。標的めがけて飛ばすと怪物は怯んだように後退するが本体の動きは遅く、簡単に命中する。そこには火球と同じだけの大きさの凹みができた。
やはりそこも泡に包まれて再生始めるが、切れてできた傷よりもかなり治りは遅い。
「お。よし、数の暴力よ!」
一体どこにそれほど仕込んでいたのか、彼女は木片を次々と放り上げては火球を作り上げていった。そしてそれを飛ばす。すべて同じ部分を目がけて。
カンテラの火で触手を牽制していたヒューの目にも、怪物の身体に穴が掘られていくのが映る。火球がぶつかった部分は蒸発し、周りは熱で白く変色していた。
「なんか、香ばしい匂いがしてきたけど、さすがに食べられないわよね」
「獣はなんでも食料に見えるらしいな……」
「うっさい。獣じゃないし。怪我人は黙ってなさいよ」
聖霊と魔族が言い合う間に、火球の連撃は怪物の透かし見える内臓に至った。
ビクン――
内臓を焼かれた怪物は大きく跳ね上がると、弾けるようにして水を撒き散らして姿を蒸発させる。
そのまま少し待つが、ただ水溜りが残るだけで動くものはもうない。
脅威は去った。それを確認すると兄妹も安堵するものの、心配の種は消えたわけではない。二人に支えられ痛みをこらえているソルは、それでもかなりの苦痛に苛まれていることは一目でわかる。
「ソロモンさんが見つかるといいんだけど……」
見回すヒューの目に、求める姿は映らない。
代わりのように、かすかにだが物音が近づいてくる。一定の速さで響いてくるのは、コツコツという乾いた音。
「まさか、新しい怪物ではないわよね」
ことばとは裏腹に、オーロラの声にも警戒より期待の方が大きい。この足音の主がソロモンであってほしいと。
コツ、コツ――と、通路の向こうから聞こえてくるそれは徐々に大きくなっていた。
室内の視線はすべて通路の出入り口に向き、やがて注目の中現われた長身のシルエットは一瞬、長髪の医師であるかのように見えた。
だが、光の下に現われた姿は違う。長身痩躯に長い金髪、切れ長の目。耳の先は人間のものより少し尖っていて、碧眼の瞳孔は近くで見れば輪が薄く入っているのがわかっただろう。その耳と瞳孔は森の妖精アヴル族の特徴だ。
アヴルの青年は弓矢をかまえていた。警戒した面持ちで矢の狙いを向ける。
緊張が高まりオーロラが身体を向けなおす。
また戦いが始まるのか。
そんな空気は、しかしすぐに破られた。アヴルの青年は弓矢を下げる。
「これは失礼。……皆さまは、外から来たかたたちですよね?」
「ええ」
どうやら、悪い相手ではなさそうだ。それも、冷静に考えればこの惑いの森の住人ならば当然のことだった。
アヴルの青年は名をオズマと名のり、この辺りの警備を担当しているという。彼はソルに肩を貸し、一行を自室へと案内した。
「皆さんが遭遇したのはメディラですね。普段は大人しいのですが、今はパーティーのために料理が沢山準備されていますから、その匂いにつられてきたのでしょう」
「パーティー?」
「ええ、今夜、客人がやってくるのです」
「じゃあ、あのシーサーペントとやらも番犬かなにかだったのかしら」
「あれは気まぐれですから……我々より古くからここにいるとか。行動には、なにか意味があるといわれていますが我々にもわかりません」
階段を登り、少し歩くと個室が並ぶ通路に出る。神殿の地下はかなり深いところまであるらしく、ここは地下三階だという。
オズマの部屋はそれなりの広さがあった。ベッドにソファー、机や椅子といった調度品も一通りそろう。それもそのはず、家具はどうやら手製のもののようだ。ヒューたちの座る椅子も店で売られていても違和感はないが、それぞれをよく見ると、同じ物のようでもわずかに部品の形の違いがある。
暖炉に火を灯すと、オズマは棚からカップとティーポットを取り出す。
「このお茶に含まれる木の実は、痛みを和らげる効能があるそうです」
ソファーに座らされカップの茶を飲むと、ソルの痛みも多少は引いたようだ。
「世話をかけてすまないな。我々以外に誰か見なかったか?」
この神殿の地下はほぼすべての階に湖からの出口が開いているらしい。すべてを確認して回るのは時間と労力がかかりそうだった。
「今のところは皆さんだけです。ほかの巡回にもきいてみましょう。少しお待ちください、伝令を飛ばしておきます」
妖精はドアのない出入口の脇にある棚の上の拳大の球体に触れる。淡く輝くそれはなんらかの魔法の力を秘めているらしく、間もなく廊下を伝令役だろう小妖精が飛来した。
「わかったわ。下の人たちに伝えておくね!」
銀髪の小妖精は元気良く答え、通路を飛び去っていく。
「ここより上はわたしが巡回しましょう」
「僕も一緒に行きます」
仲間たちの顔を知っている者が一緒の方が、合流できた際にも話が早いだろう。戻ってきたオズマにヒューが申し出ると、当然のようにララも兄のそばに寄る。
「手分けして探した方が捗るんじゃないか」
そう言って立ち上がりかけたソルを、聖霊が手で制す。
「あんたはここに残ってなさいよ」
「なんでだ。もう動くのに支障はない」
「でも痛みは完全に消えてはいないし、仮に痛みが消えても怪我が治ったわけじゃないでしょう? あんたが足を引っ張る可能性がある以上、一緒に来られても迷惑なのよ」
オーロラの指摘は確かに事実ではあった。
――怪我をしていても、僕らよりは頼りになるだろうけど……。
ヒューは思うが、口には出さない。無理はさせたくないし、これはオーロラなりの優しさなのかもしれないからだ。
ソルは少しの間、反論のことばを探すように考え込むものの、やがて拗ねたようにソファーの端にある蔦を編んだクッションに顔を埋めた。
「ふん……どうせ、誰かがここにいないと下からの連絡を受けられないんだろう。仕方ない、わたしがその役目を受け持ってやろう」
彼のことばにオズマは苦笑し、ヒューと顔を見合わせる。
「そうですね。伝令を受ける役をお任せします」
ソルにシッシッと追い払われるように手を振られ、四人はオズマの部屋を出た。
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