第10話 魔術師バサールの塔
神殿の構造を知り尽くしたオズマと一緒ならば、なにも迷うことはない。普段からの巡回経路らしく、アヴル族の青年の足はよどみなく動く。
「森の妖精というと、草木に囲まれたなかで暮らしているものと想像していましたが……こういう場所で暮らすアヴル族のかたもいるんですね」
ヒューはかつて読んだ、父の遺品の本の内容を思い出す。
ハッシュカルにも極まれにだが、人間ではないものが訪れることがあった。街を歩いていて見かけたその姿に興味を抱いて調べてみたときに、目に留まった文章のひとつだ。森の妖精アヴルは石造りの家を嫌い、自然の中で過ごすことを好むという。
苔むした大きな岩のレンガを積んだようなこの地下は、その記述からはかけ離れている光景に見えた。
「ああ、この神殿での仕事は一ヶ月ごとの持ち回りなんです。わたしも自分の担当でない間は森の中で暮らしていますよ。我々は魔力に敏感で、自然の癒しの力を帯びた魔力と切り離されると調子を崩しますが、石の壁は魔力を遮断しやすい」
通路を出る際に、彼は石の壁を軽く叩く。
「まあ、今はこの建物の中でも心地よい魔力を感じますが。オーロラさんは聖なる魔力をお持ちのようだ」
「あら、わかるの?」
聖霊は少し驚いたように目を見開く。
妖精はどの種族も人間より魔法や魔力と近い存在である。大元は魔法生物の一種だった、という説もある。
「そばにいるだけである程度の魔力の強さはわかりますし、集中すれば大体の魔力の質もわかります。技量のある者が隠そうとしている場合はわからない場合もありますが」
「それなら、よくソルを助ける気になったわね。魔族なんて嫌がりそうなのに」
聖霊のことばに、アヴル族の切れ長の目が見開かれる。
「魔族……本当ですか。強い魔力は感じましたけど、邪悪な力は感じませんでしたが……」
「……あいつ、身分でも偽っているのかしら」
オズマのことば通りならソルが自身の魔力の質を隠していた可能性はあるが、そもそも彼が隠そうとするとは思えなかった。
しかし、召喚魔法は対立属性の者が一組召喚されるはずなので、オーロラが聖なる者ならやはりソルは闇の者のはず。でもこの森に入れたように、ソルの属性もこの世界の尺度では測れないのでは――ヒューは結局、考えるのをやめる。
話しながら階段を登っているうちに、地下二階に出た。
この建物の地下は、居住区など特殊な役目のある階を除けば、大体同じ構造になっているようだ。四方の壁に水の出口があり、水路を流れて水は上へ向かっている。オズマによるとその水はさまざまに利用され、浄化された後に地上から湖に戻されているという。
四人は通路を巡りすべての部屋を見て回る。ヒューたちが下りてきたときも、ほかに生き物の気配はなかった。彼らが通らなかった通路や部屋も見て回るが、人の気配もまったくない。
「パーティーがどうとか言ってたけど、その割にがらんとしてるのね」
求めるヒューの幼馴染みや医師とその助手の姿だけではなく、神殿の住人らしき姿もまったく目に入らなかった。
「ああ、今は厨房に人が集まっているので……今夜の客人は、賑やかなのが好きなおかたなのです。だから沢山ご馳走を作り、参加者も沢山募ります。皆さんもいかがですか?」
〈ご馳走〉ということばに、ララは目を輝かせる。
「ご馳走は、美味しいお菓子もあるの?」
たまに店で残ったタルトやパイを口にできたり、祖父がカリカリに焼いた甘いパンの耳などを作ってくれたものの、ご馳走やお菓子を腹いっぱい食べたことなどあるはずもない。
できれば、妹にそんな思いをさせてみたい――と兄は思うものの、それを置いても果たすべき本来の目的は別にある。
「僕らは、森の主さんに会いに来たんです。それも、できるだけ早く。どこにいらっしゃるかご存じでしょうか?」
帝国がエルレンを襲撃してくるとしても時間はあるだろうが、それも確実とは言えない。時間は経てば経つほど襲撃の可能性は高まる。
オズマは一拍の間、迷うように言いよどむ。
「主は森の奥にいらっしゃいますが……十日ほど前から休眠期に入られたようで、いつお目覚めになられるかはわかりません。今は代役として、お館さまが留守を預かっております」
主に会えないなら、代役に相談するしかない。
今夜のパーティーの主催が〈お館さま〉であり、そこで出会うことができるという。ご馳走の並ぶパーティーに出られると聞いてララはとても喜んだ。
「そのお館さまって、どういう人物なの?」
「お館さまは古くからこの森の遺跡に住まわれています」
その名はバサール。かつては遠くの国で魔術師部隊を率いていた大魔術師らしいが、平和になると国内で始まった権力争いに嫌気がさし、世俗を捨てて気楽な研究生活を求めてやってきたと伝えられている。
それも大昔の話で、長命なアヴルにも当時を知る者は少ない。
話しているうちに彼らは地上まで至る。
広い空間に高い天井。端にそれを支える太い円柱がズラリと並び、合間から森の景色がのぞく。中央に祭壇があるだけで、神像があるわけでも椅子が並んでいるわけでもない。
近くの柱の間から湖面を見下ろすと、分厚い床の側面から水が排出されている。
「あ、いたいた」
結局誰とも会わなかった、とヒューが口を開きかけたとき、後ろから声がかかる。
一瞬、レジーナかクラリスでも来たのか、と思うものの、声色が違う。もっと気楽そうな声の主を振り返ると、目に映ったのは宙を飛ぶ小妖精だ。
「厨房にお客さんがいたみたいだよ。外から来たらしいし、お友達じゃないかな」
伝令のことばに少年は安堵する。まさか溺れてはいないだろうと思ってはいたが。
小さな姿は役目を終えると飛び去っていき、四人は地下へと引き返した。足が疲れつつあるが、最短の道順をたどればそれほど長い距離は歩かない。
厨房は地下六階にある。ここは他の階とは少し構造が異なる階のひとつらしく、部屋への出入り口が通路の壁に並んでいる。それを過ぎた突き当りに厨房への扉があった。
他と違い出入り口がしっかり扉で塞がれているのは、一応、衛生面を気にしてのことだろうか――ヒューがそう思いながら白い木製の扉をくぐるとすぐに、見慣れた姿が視界に入る。
「ヒュー! ララもオーロラさんも」
「皆さん、ご無事でなによりです」
手を止め、二人の少女たちは顔を向けていた。レジーナの右手にはおたまが握られ、その目の前には鍋。クラリスの右手には包丁が握られ、その目の前の机の上にはまな板と、みじん切りにされつつある茎野菜があった。
厨房は広かったが、それが狭く見えるくらいこの空間には人の姿が多い。種族もさまざまな人々が忙しく料理を作っていた。
その中で、幼い少女の目はデザートらしきものの並びに向けられる。鮮やかな果物の盛り合わせ、アップルパイ、木の実とハチミツのクッキー、ゼリーやムース、何種類ものケーキも。
「あとはソロモンだけね。まあ、あいつはなんとなく無事な気はするけど」
「先生は殺しても死ななそうですから、無事でしょうね」
特に根拠はないが、オーロラとクラリスは確信していた。
「でも、探す必要はあるし……どうします?」
「では、わたしがもう一度四階から上を探してみましょう。それより下は、なにかあれば他の巡回から連絡が来るでしょうし」
レジーナとクラリスの無事を伝えるのも兼ね、ソルの待つオズマの部屋へ向かうことに決まる。しかし見たところ、レジーナもクラリスも厨房の戦力としてあてにされているらしく、二人も積極的に料理にかかっているようだ。
「二人とも、ここに残るつもりで?」
ヒューが尋ねると、クラリスは即答した。
「ええ、わたくしはここでお手伝いしたいと思います」
彼女は実に楽しそうに料理をしている。今までの行動を考えても、彼女の答は想像できた。
レジーナは少し迷ったらしいが、鍋の中身をかき混ぜながら口を開く。
「わたしも、獣をさばく以外の料理も少し覚えたいと思ってね」
兄妹の祖父にいくつか料理を習ったことはあるが、それも少ない種類だ。ここの厨房は野菜や果物を使った料理をいくつも作るため、色々な料理を覚えられそうなのは確かだった。
そういうことなら、と二人の少女を厨房に残したまま、四階へ戻る。オズマは彼の部屋の前までヒューたちを送ると、自分は巡回の続きをすると言って別れた。
「親切な妖精ね。それに美形だし」
見送るオーロラの顔は少しにやけていた。
アヴル族は人間から見ると美形が多い、と本の紹介文にも記述されている。しかし、アヴル族の基準ではそれは普通らしい。
「ソルさまやソロモンさんも美形じゃないんですか?」
「そりゃ、ソルは綺麗だしソロモンは美男子だけど、雰囲気が違うのよ。怪しさじゃなくて誠実さとか。ほら、頼もしさとか……子どもにはわかんないでしょうけど、あんたも五年も経てばそこそこの男にはなりそうだけどね」
それから聖霊は、ヒューのそばの少女を見下ろした。
「ララちゃんは絶対、美人になるわね」
言い切られて、少女は素直に喜んでいた。
「おや、そんなに誠実さや頼もしさを感じられませんかねえ。どうやら、わたしもまだまだ修行が足りないようです」
声は部屋のなかからかかる。見るまでもなく、ソファーの端に金縁眼鏡の医師が腰かけている。その後ろで、ソルは身を丸めるようにして眠っているようだった。
「無事でしたか、ソロモンさん。レジーナとクラリスさんも厨房にいましたよ」
「厨房ですか。それはクラリスにはおあつらえ向きですね」
そう言って、ソロモンは暖炉の前を指さす。そこには鞄の中身が並べられ干されており、薬草や医療道具などに混じって、何本もの酒瓶が見える。
「ほら、幸いお酒も無事です。森の主についてはなにかおわかりになりましたか?」
「それは……」
話すなら、ソルにも起きていてもらった方が二度手間にならない。ソロモンもそれに気がつき、まるで壊れ物でも扱うようにそっと肩を揺する。
ソルはほとんど触れられただけくらいで目を覚ます。
「ああ……どおりで、怪しい気配がすると思った」
ソロモンは嘆息するが、周囲の者たちは納得する。
ソルが身を起こすと、ヒューはオズマから聞いた情報を伝える。夜に開催されるというパーティーに参加すれば、森の主の代役を務めるお館さまこと魔術師バサールにも顔を合わせることができる。
結局は森の主に会わなければならないとなる可能性はあるが、それにしても森の主に近い相手と会っておいて損はない。
「いつパーティーが終わるかわからないが、宿に知らせなくて大丈夫か?」
惑いの森に一晩泊まることは想定していなかったが、考えてみれば充分有り得る話だ。少し甘かったかもしれない、とヒューは思う。商人が戻っていれば心配するかもしれない。
「小妖精に伝令を頼んだら嫌がるかしら。それが駄目なら誰かが言ってくるしかないわね」
「パーティーまでには時間があるんだろう。わたしが行ってもいいぞ」
シルベーニュとの距離は行って帰ってくるにもそれほどかからない。
しかしヒューとしてはあまりソルを歩かせたくはなかった。
「必要なら僕が行きますよ。その前に、とりあえずオズマさんに相談してみましょう」
巡回を上まで終えれば、オズマは自室まで戻ってくるはずだった。
待ち時間も本があれば退屈しないが――と、ソルはオズマの部屋に本棚も本もないことを残念がる。ここはオズマが巡回を担当している間の仮の住まいであり、彼が読書をするとしても森のなかの家に置いてきているのかもしれない。
「あんた、本当に読書が好きね。身分詐称してるってのは本当なのかしら?」
「身分……? なんの話だ?」
首をかしげるソルに、オーロラはオズマから聞いた魔力の質の話をする。それを、魔族であることを否定されかけた側は特に感情を動かされた風もなく聞いていた。
最後まで聞くと彼は仕方なさそうに口を開く。
「それは身分じゃなくてわたしの体質の問題だ。わたしは創られた存在だから、普通の魔族とは作りが違うんだ」
かつて彼の属する魔界で、統治者である魔王への反逆を企み、魔王よりさらに強力で邪悪な存在、魔神を創り出そうとした者たちがいた。何十年何百年とかけて材料を集め実験を繰り返し――やがてついに儀式が行われる。
怪しい気配は魔王軍もつかんでいた。それに、儀式が進むほどその中心から発生する魔力は強くなる。場所を突き止めて魔王軍の突入部隊が駆けつけるが、彼らの目の前で儀式は完成してしまう。
だが、儀式により生を与えられたのは魔神などではなかった。強い魔力を持つものの、出来損ないの一魔族――それでもいつか魔神として覚醒するかもしれず危険ゆえ処分すべきでは、との声もある中、魔王はその魔族を自分の部下として引き入れることにした。
「もうわたしの周りの者たちも忘れていそうなほど大昔の話だ。そんな経緯でわたしは他の魔族とは少し性質が違うんだ」
「へえ、魔族の気配がしない魔族ねえ」
と、オーロラは魔族に近づくと、相手の髪の一束を引っ張り匂いを嗅ぐ。
「じろじろ見るな。引っ張るな。嗅ぐな」
「全然それらしい匂いもしないけど魔族なのは確かなのね。なんだ」
「当たり前だ。離れろ」
ソルは嫌そうにシッシッと手を振るが、その様子を見ていたヒューは内心、実は結構、仲がいいのかもしれない――と感じる。
そこへ、不意に足音が届く。
今まで聞いたものとは違う、走るのに近い速さの足音だった。それはどんどんこの部屋に近づいてくる。誰もが耳を澄まし動きを止めた。
やがて足音が途切れると、顔を見せたのは部屋の主だ。その顔には緊張の色がにじむ。
彼は切れていた息を整えてから口を開いた。
「大変です。客人が巨大蜘蛛に捕まってしまい、足止めされているそうです」
オズマの焦りようを見てそのことばを聞いても、ヒューは一体なにが大変なのかをはっきり理解できず、ただ漠然とした不安を感じていた。
神殿の地下七階まで下りて間もなく、長い通路への入り口が視界に入る。オーロラが明かりを飛ばし、弓矢をかまえたオズマが先頭に立って歩きだした。
「お館さまは警戒心が強い方で、遺跡の守りを停止させずそのままにしています。それらを抜けなければお会いできません」
埋もれた遺跡であるため、目的地への行き方は限られるという。
「なかなか面倒な話ね」
背後のララを気にしながら聖霊は肩をすくめる。
忙しくしていそうなレジーナとクラリスは厨房に置いて来ていた。兄妹とオーロラとソル、ソロモンとオズマの六人が長い通路を歩く。遺跡へとそのまま通じているらしい神殿の地下道だ。
進むにつれて空気が乾いていく。じめじめして苔むしていた壁もところどころひび割れ、サラサラの土埃が点在するものに変わる。
「今まで、ここを抜けてお館さまのところに辿り着いたことはあるんですよね?」
安心材料が欲しいと、ヒューが前を行く背中に訪ねる。
「二回ほど。仕掛けはほとんど変わってないと思いますが、門番や守護者が厄介です。負けても死にはしませんが」
科学の進んだ古代の遺跡。どうやら、神殿もその一部らしい。守りの堅い遺跡は暮らすのに都合が良く、また研究対象にもなるのでここへ来たのだ、と魔術師は語っていたという。
やがて通路は、正方形の空間に出る。正面の壁際に、やはり正方形の小さな池が灰色の煉瓦に囲まれ澄んだ水をたたえていた。
どこにも扉や通路への入り口は見当たらない。
――一体どういう仕掛けなんだろう。
疑問に思うヒューの前でオズマは弓に矢をつがえ、狙いもそこそこに天井近くの壁にあった出っ張りに的確に射ち当てた。すると、音を立てて池から水が引いていく。
深くはない池の底に、下へ続く階段が現われる。
「なるほど。知らなきゃ結構足止めされそうね」
「こんなからくりがあるんだ」
物珍しそうに眺めながら、先を行くオズマにオーロラ、ヒューと続く。
階段は長くは続かない。降りたそこは凹みがあり、そこで階段は終点となる。目の前の床に排水口らしき網目状の板がはめ込まれていた。段差を上ると、壁に三つの扉が並んでいる。
「ここは右です。どうぞ、はぐれないようについてきてください」
オズマのことばの意味を、同行者たちはすぐに知る。
扉を抜けた先には、また正面に三つの扉のある小部屋。さらに、その次も。オズマは左、中央と次々選ぶ。間違った扉を選ぶと森の外まで弾き出されるという。
「順番覚えてるか?」
「いいえ。帰りは単純な道だと嬉しいのですが」
五つ目の扉をくぐりながら、ソルとソロモンがことばを交わす。
抜けた先は、広い空間だった。天井も高くシルベーニュの公共施設よりも奥行き、幅がはるかに大きい。
中央には舞台のような大きな正方形の段があり、ヒューの胸のあたりの高さの舞台上に向け、短い階段がついている。そのはるか向こう、壁にある大きな出入口には金属の格子がはめられていた。
舞台の近くまで歩み寄り、オズマは足を止める。
「ここで、守護者に力を示す必要があります。なかなか厄介な相手ではありますが」
ソルが刀の鞘を叩く。
「それならここは」
即座に言いかけた黒衣の袖を、ララとソロモンが引いた。
「ソルさまは安静にしていてください」
「それじゃあ、誰が?」
と、ソルは不満そうに見渡す。
ヒューは短剣の柄に手を伸ばしかけるものの、声を上げるのをためらう。彼の戦いへの意識も技術も、ぺルメール西の洞窟で尻もちをついていたときと変わりない。ハッシュカルで帝国の者への戦意を燃え上がらせたのは一時の感情だ。
「仕方ないわね……」
「ここはわたしが」
嘆息する聖霊のことばを遮ったのは、いつも通り穏やかな医師の声。
皆の目が向く、信じられないものを見たような驚きの表情をもって。
「わたしがって……大丈夫なのか?」
ソルが疑うように問うが、医師は笑みを濃くする。
「大丈夫ですよ、そんなに心配しなくても」
「いや、心配しているのはキミじゃなくてだな……」
「これでも、多くの危機を乗り越えてきた身。これもありますし」
と、迷惑そうな表情をしている魔族に鞄を持ち上げて見せると、早々に舞台に登る。
負けても死ぬわけではない――オズマはそう口にしていた。それを信じてとりあえずどうなるか見届けよう、とヒューは送り出す。
「気をつけて、ソロモンさん」
「大丈夫ですよ」
ソロモンは安心させるような笑顔で振り返り、視線を戻すと正面の壁の大きな出入口を見据えた。
挑戦者を認めたのか。カラカラと巻き上げるような金属音が鳴り、出入口を塞いでいた格子が上へとせり上がっていく。
遮るものはなくなった。
直後、闇のなかから巨体をのぞかせたのは、硬そうな皮膚と鋭いクチバシを持つ、亀に似た動物。背中の甲羅には大人十人も乗せられそうなほど大きく、額には大きな緑の玉石が埋まっている。
「守護獣です。額の玉石を狙ってください。色が赤に変われば去っていきます」
オズマが説明する間にも、守護獣はズシン、ズシンと床を揺らしながら進み出て、舞台の上に乗る。その全長は背中を丸めた体勢でも、長身のソロモンの三倍はある。
「やはり、わたしかオズマが行った方がよかったんじゃないか?」
玉石を狙えとは言うものの、手の届く範囲のはるか先まで攻撃できる手段というのは限られる。ソルの魔法やオズマの弓矢なら余裕で届いただろう。
「大丈夫です。わたしの強肩を舐めてもらっては困りますね」
舞台の下の心配をよそに、医師は笑みを崩さないまま、ポケットから黒い球体を取り出す。なにかを黒い布で包み込んだもののようだ。
「煙玉……ではないですね?」
ヒューは以前聞いた話を思い出してた。
「ええ、いくつか種類がありますからね。これは火薬玉です。これをこうすると……」
ソロモンは球体を右手にかまえると、完璧な投球姿勢でそれを守護獣の額の真ん中に投げつける。
「ほら、こうして爆発……あれ?」
球体はなんの変化も起こさず、ただ玉石に当たって落下していく。
それを視線で追い、少しの間固まった後、
「あの、火薬が湿って、中まで乾いてなかったようで……」
と、引き攣ったような笑みとともに言う。
「それじゃ、どうする――」
オーロラが言いかけたことばが、ズシン、という震動と音に消される。
守護獣が一歩、前脚を出した。そして石のような灰色の目で相手を見定めると、鋭いクチバシで弾き出そうとするかのようにすくい上げる。
それを、寸前でソロモンは横に転がって避ける。
「外へ弾かれると失敗とされ、森の外へ転送させられます」
オズマが忠告した直後、バチッと大きな音が鳴り、一瞬だけ舞台を包むような半透明な青緑の結界が見えた。
「ダメだったか」
ソルが肩をすくめる。どうやら、術で援護しようとしたらしい。
「残念ながら、手出しはできないようになっています」
「じゃあ、仕方ないわね」
オズマのことばを聞いたオーロラはあっさり言った。
「そのまま適当に下に落ちときなさいよ。森の外からは一人で歩いてきてね」
「ええっ、冷たくないですか、オーロラさん!」
「うっさいわね。あんたが大丈夫って言って上がったんだから、自業自得でしかないでしょうが」
声を上げながら逃げ惑うソロモンに、オーロラは突き放したように言う。その声と態度は冷たいが、彼女の言うことは事実ではある。
手助けはできず、攻撃手段がないのなら仕方がない。死ぬわけではないし、ここは出直してもらうしかないか――という方向に、ヒューの思考も傾きかけた。
ソロモンの方は自ら外へ降りる気もないらしく、追うクチバシから逃げ続ける。
「こうなったら仕方がありません」
走りながら鞄を開けて手を突っ込む。
守護獣がそれを睨み、クチバシをそちらに向ける。だが、突きかかられる前にソロモンは動いた。
高い金属音に似た音が鳴る。
なにが起きたか――と見上げる者たちの目に、守護獣の額に突き立つ二本の小さなナイフのような物が映る。メスと果物ナイフのようだ。
玉石の色は赤に近い橙色になっていた。
「惜しい、あとちょっ……」
クチバシが突進してくるのを、寸でのところで避ける。
あと一撃与えれば、玉石は赤へと変わりそうに見えた。
「強肩は確からしい。ほかに刃物はないのか?」
「ほかはですね……」
ソルのことばに、舞台の端に沿って回るように走りながら鞄の中身を探る。
「予備のメスがありますが、さすがにこれを使うのは医者としては……おや、これは」
取り出した手には、タワシがのせられていた。
「なんでそんなもの持っているんだ……」
「さあ? 店先で美しい女性とお話ししていると、たまに色々な物をいただけたりするんですよ。これもそのひとつでしょうね」
説明して、平然とそれを右手に振りかぶる。
「まさかをそれを……?」
「だって痛そうだし、刺さりそうでしょう?」
「それはそうですが……」
目を丸くするオズマやヒューらの前で、再び医師は慣れ切ったような投球姿勢を見せる。力を込めて――ただしあまり握り込まずにだが、投げ放たれたタワシは、直線に近い放物線を描いて守護獣の額の玉石に突き刺さる。
まさか守護獣もタワシでどうにかされると思っていなかっただろうが、玉石は赤く染まり、ギャア、と一声鳴いた巨体は光の球と化して元いた出入口の向こうへと飛んでいった。乾いた音を立ててナイフやタワシが落ちる。
「なかなか前代未聞の解決方法ですね……」
オズマがあきれと驚きを声に出すうちに、ソロモンは投げつけた道具を回収している。
「幸い、刃こぼれもないようで。……ほら、大丈夫だったでしょ?」
「最後のは偶然の産物に見えたけどねえ」
「いや、そんなことは。ほら、出口がありますよ」
聖霊の白い目から視線を逸らした医師は、ある方向に顔を向けた。守護獣が出入りした大きな出入口は格子を上げたまま、黒々した奥をさらしている。
ほかに行先となる場所もない。彼らは歩き出す。
大きな通路はすぐに終わる。それも、分かれ道や突き当りなどではない。通路が途切れ、数十歩先からまた続いている。
途切れた床の下を覗き込み、兄妹は思わず身を引く。通路の下の壁はどこまでも続き、闇の中へと溶けている。
「なにか書いてあるな」
ソルのことばでヒューは目を前方に戻す。向かい側の床下の壁に目を凝らすと、文章が彫り込まれているようだった。
「大いなる意志のある者は、目的を見失わぬ……だそうです」
「ここは知っていれば簡単です」
オズマが通路の端まで進み出ると、そのまま足を宙へ踏み出した。
あ――と、声を出す時間もない。ヒューは一瞬、前のめりに落ちていくアヴルの青年を想像したがそうはならなかった。
オズマの長身は少しも安定を失わない。両脚はしっかりと、なにもないはずの宙を踏みしめている。
「見えない床ってやつか。試練の場なんかではありがちね」
そのまま先へ進むオズマの後を、平然とオーロラが追う。
ヒューは少しためらった。勇気のない者や資格のない者は落とされてしまう、ということはないのだろうか。
しかし妹が軽く跳び乗るようにして宙へ踏み出したのを見ると、無心でそれを追う。床は確かに彼の足もとにもあった。靴を通した感触は固く確かなものだ。
「高所恐怖症の人がいれば、これはなかなか難儀な道でしょうね」
「落ちても死にはしないんだろう」
ソロモン、ソルが渡りきるまで、オズマは足を止め通路の端で待っていた。その先には両開きの扉がある。
「この先がなかなか厄介で……まあ、見てみましょうか」
一体なにが厄介なのかは、扉を開くと理解できる。
オズマが意外に軽く大きな扉を開いたそこには、守護獣の間と同じくらいに広い空間に、正面奥に出入口。
しかしその前には石でできた大きな人型の怪物が座っている。高位の魔術師が操ることがあるという人造の魔法生物、ゴーレムによく似ていた。石の胴体には、三つの記号〈▽◇◎〉が並んでいる。そしてその記号は床にも四角い板にひとつずつ刻まれ、板は周囲に敷き詰められていた。
「あのゴーレムの胸に描かれた順に踏んでいかなければ森の外に弾かれます。しかし、あの順番も床の模様も毎回変わるらしく、なかなか骨が折れます。まあ、最後の関門ですし」
ここが最後、というのは朗報だった。ヒューは今まで、どこまでこの道のりが深いのかが気にかかっていた。
少年が安堵する一方、聖霊は顔をしかめる。
「すごく苦手なやつだわ、それ。あたしはお任せするわ」
「まずは、全体を眺めて行き方を決めて、それを書いておいて実際に歩いた方が確実なんじゃないか」
ソルが指をさす方向には階段があった。その上から模様の入った床の全体を見渡せるようになっている。
「それはそうですが、なにか書いておける紙はありますか? さすがに、薬草事典に書くとかいうのはちょっと」
この大陸の多くの国では紙はまだ高価なもので、一般の人々は薄手の木の皮や板、木の葉を代用することが多く、公用の紙は植物の綿を元に作った植物製紙が主流だ。そして、筆記用具はインクが主であり、書き直すのも容易ではない。
「これに書けばいい」
魔族が取り出したのは、この森の古い地図を写したものだ。一度濡れて乾いたのでよれよれになっているが、書けないことはなさそうだ。
「ペンはありますので、大丈夫そうですね」
やや時間はかかるが、失敗して弾き出されればそれどころではない。階段を登り、床をそのまま書き写して正解の道を探る。
オーロラは少し退屈そうにしていたが、ヒューは安心して見ていられた。なにしろ、必ず正解が存在していることはわかっている。
やがて、オーロラを除く大人たちが話し合いながら正しい道順を導き出す。そうなれば、あとは紙に書いた通りに歩いてゴーレムのもとに辿り着くだけという単純作業だ。
目の前にすると、ゴーレムは光となって蒸発するように消えた。
「ここで最後なのよね?」
「ええ。この先にお館さまの部屋があります」
ゴーレムが背後にしていた出入口は短い通路になっており、奥には薄く明かりが差し込んでいるらしいのが見えた。
オズマがためらいなく先導するのへ、他の皆も続く。もう遮るものもないことは、ここを何度か訪れたアヴルの青年が保証してくれる。
広く短い通路を抜けると、そこはまるで塔のようだった。はるか頭上に淡い日光の差し込む窓がいくつかあり、壁際に足場も点在している。
床の端には草花や見たこともない植物が生え、その中から太い蔓が何本も伸びてきた。捕まえようとしているのだ――と気づいて思わずヒューは短剣に手を伸ばす。
「ちょっと、どこ触ってんのよ!」
「落ち着いてください。これは道や乗り物のようなものです」
オズマのことばで、やっと皆は警戒を解く。
緑の蔓は彼のことば通り必要以上に締めつけるようなこともなく、椅子のような形に巻きついて乗り手を高く押し上げた。拘束されるのは、万に一つも落下しないためだろう。
そうして押し上げられた目線の先には、壁から張り出した足場のひとつがあった。壁には開け放たれたドアがあり、足場の上には机と椅子、よくわからないなにかの部品の山と、それらが描かれたらしい紙が散らばる。
そして、紙を拾い上げ、束ねている姿がひとつ。
「オズマだったか。ここまで来るとは、なにか重大なことが起きたらしい」
ゆったりとした茶色のローブに身を包んだ魔術師は、顔がほとんど白髪と白髭で埋もれていた。辛うじて、丸い眼鏡が間から覗く。
「はい、お館さま。実は先ほど連絡がありまして」
オズマが冷静に伝えると、魔術師バサールはほう、と少し考え込んだ後に大きく開いた袖口から一枚の札を取り出して投げ放った。それは白い蛇に似た龍となり、窓のひとつへと空中を泳ぐようにして出ていく。
「あそこの山脈のだな。エサ不足で雑食化している、という話は本当らしいの。まあ、きゃつなら死なんだろ。それで、ほかに用件は?」
紙の束を机の上にそろえながら、老魔術師は顔を見知らぬ姿の方へ向ける。
「森の主さんに頼みがあってきました。でも、今はあなたが代役だと聞いて、それで」
ヒューは事情を説明した。今、森の外で起きていること。なぜヒューたちがここへやって来たのかも。
老魔術師は真剣に話を聞いているように見えた。
「そういう事情なら森の結界に弾かれることもあるまいし、森の東地区にある人間たちの居住区を使えばいい」
「すでに住んでいる人間もいるんですか?」
「ああ、いるぞ。森の風景を描き残したい画家、森の歴史を書き残したい学者、森の植物を研究したい医者とか。今は三〇人くらいかの」
どうやら、誰かの役に立つためにここに入る者にとっては結界はなんの問題にもならないようだ。
ヒューはバサールに心からの礼を言った。
「質問ばかりですまないが、もうひとつ用件がある」
最後にソルが切り出したのは、召喚魔法について。それが彼がここを目指した最大にして最初の目的だ。
魔術師は、これまでの用件よりも強く興味を惹かれたようだ。
「ほう、異世界とな。聞いたことはある。が、召喚魔法は専門外だからな……高名な召喚士への紹介状くらいは書けるが。この森を訪れる召喚士は精霊を使役しようという者がほとんどだし。今朝も西の泉に若い召喚士が訪れているそうだ」
西の泉はソルの持つ古い地図にも載っている。魔族は後で泉を訪れてみることにした。
魔術師は異世界の話を聞かせてほしいと言い、ソルが承諾すると引き換えに、シルベーニュの宿への伝令を引き受けた。伝えたいことをヒューが言い、その袖から札が放たれると、今度は鳥となって飛んでいく。
「我が友も話を聞きたがるだろうから、パーティーで話してもらおう。部屋を用意させるから泊まっていくといい」
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