第43話 震える月夜を駆ける希望

 メロの町はエルレンより小さいくらいの街並みだった。それでも店や宿はひと通りそろっており、大きな病院もある。

「重症化したら、あちらの病院の世話になれますかね」

 窓の外の二階建ての白い壁の建物を一瞥し、医師はベッドの上に視線を戻す。

 宿に借りた白い寝間着を着て息苦しそうに横たわりながら、ソルは薄目を開けている。周囲でヒューたちが暖炉に当たっていた。氷原を抜けると気温自体はかなり上がっていたが。

「最近は〈黒斑症〉の患者も減っているし、入ろうと思えば入れると思うよ」

 ここ〈果てなき庭〉亭の女将が丸い笑顔でそう応じる。久々の客のためか、女将とその夫も色々と世話を焼いてくれていた。礼に馬車に積んでいる食料をいくらか渡すと珍しがって非常に喜び、宿代はタダにしてくれるという。

 女将を手伝う夫はひょろりと背の高いかなり高齢の男だが、旅人たちの話を聞くと張り切って薪を切っていた。

 このような場所では宿泊客は滅多に来ない。宿自体、夫婦が趣味でやっているようなものなのだろう。

「〈黒斑症〉とは、馴染みのない病ですね」

「ああ、外の世界じゃねえ。果てに向かって、〈最後の障壁〉を無理矢理越えようとすると焦げたように黒い斑点が出たり、ただれたりするんだ。それでどうにかここまで戻った人が入院するんだよ。娘もあそこに勤めていてね」

「へ、へえ……」

 これから北の果てを目ざす一行は不安の混じった表情を作る。自分たちにも同じ症状が発症することにならないとは限らない。

「まあ、駄目そうならすぐ帰って来ればいいさ。まずはここでゆっくり休んで……ゆっくりできるといいんだけどねえ」

 女将は思い出したように、街並みの見える窓とは違う向きの窓を振り返る。

 それはどういう意味か。つられて夕焼けが染める窓の外に視線を向けながら疑問を口に出す前に、棚の小物がカタカタと音を立て始めた。

「あ」

「地震……?」

 眠りかけていたソルも目を見開く。

 カーテンも揺れカップの水も波打つ。揺れているのは確かだ――視界の様子から確信した途端にさらにそれは激しくなり、ヒューは慌てて棚が倒れないように寄り掛かった。

 レジーナがララを抱き寄せ、ソロモンはソルを守るようにベッドの上に身を伏せる。

「まさか崩れないわよね?」

 天井がミシミシときしんだ音を立て、聖霊はサイドテーブルを押さえながら見上げた。一方、女将はとっさに持ち上げたカップとティーポットを手に、慣れた様子だ。

「大丈夫。いつも通りならそろそろ……」

 そのことばを合図にしたように。

 揺れは余韻を残さずピタリと止まる。ただ、棚の本が何冊か倒れて木工の飾りがひとつ床に落ちただけだ。

「最近、地震が多くてね……もうそろそろ、レイシュワン山が噴火しそうだって言われてるのさ」

 女将が目を向けている窓の外、夕日に染まるなだらかな丘の向こうにはやけに大きく、白煙を背後から細く昇らせている山が見えた。まるで圧し潰されそうな、のしかかってくるかのような迫力がある。

「それはなかなか、難儀な環境ですね……仕方ありませんし、休めるときに休みましょう」

「身体が動くなら……もっとこの町のことも調べてみたかったな」

 図書館に心惹かれているのか、上級魔族は心底残念そうに窓の外の街並みを眺める。

「それは、僕らが調べておきますから」

 ヒューが約束すると、ソルはあきらめたように目を閉じる。

 日が暮れるまでの間、ソルとソロモンを残した四人は図書館や商店街を巡った。街の外側には広大な畑や牧場が見え、食料の多くは町内で生産しているという。

 調べたところ、最初は、果てまで行く大人数の一行の中で数名の怪我人が出たため、その数名とさらに一部の者が残ってここで帰りを待つことにしたのがこの町の始まりだという。脱出することは帝国の門に阻まれているが、有能な者には、帝国軍に入ることで脱出できた者も少数存在した。

 果てへの挑戦者とその子孫はやがて数百名に達し、一時は別の場所にも集落ができたくらいだ。

 最近では、定期的に果ての手前まで旅団を派遣している。果てにも町があり、そこの住民と絵や文字による交流が生まれていた。道中は危険なので、何度も旅に出ている熟練の者がついていても脱落者を出すことが多いが。

 ヒューは図書館の司書に熟練の旅人の手記を紹介してもらい、旅の注意点などを書き写させてもらった。

「これによると、砂漠はやっぱり水の不足が最大の難問みたい。自分が必要だと思う三倍くらい持っていないと安心はできないとか」

 馬車にもそれなりの水袋や水筒、樽も積み込まれているが、人数と砂漠越えに何日もかかる可能性を考えると余裕があるほどではない。

「大き目の水筒をもう二つくらい買っておきたいわね」

 図書館を出たところでレジーナが商店街を指さす。雑貨屋で大きな革製の水筒を見つけ、その値段にヒューは少し驚くが、この先、金を使う場面は少ないだろう。すぐに気を取り直して財布を開いた。

「ララ、なにか欲しいものある?」

 果てに至る旅の供に、菓子くらい買ってもいいだろう。もののついでと妹に尋ねると、少女は考える様子で見上げた。

「クッキーとかタルトとか、美味しいお菓子をたくさんお祖父ちゃんが作ってくれたけど……あ、飴と干し肉を買おう、お兄ちゃん」

 惑いの森で積み込んだ食料には肉が少ない。いくらかはシルベーニュから運ばれたものを持ち込んでいたが、森の住民はあまり口にしなかった。

 それに、味付けも偏りがある。塩気のある干し肉を見つけ、妹のことば通りにする。

「だいぶ暗くなってきたわね」

 聖霊の目は、瞬き始めた星を捉えている。もう夕日の色は山並みの縁に薄く残るくらいだ。

 山並みを振り返ると視界に入る、大きな火山。さらに不気味に見える姿からは、思わず目を逸らしたくなる。図書館の記録では専門家が痕跡を調べると何百年も昔にも一度噴火したらしいが、さすがに町にも詳細な火山の歴史は残されていない。ただ、痕跡から推測すると高温の火砕流が発生して辺り一帯を飲み込んだらしい。

「帰りましょうか。ソルさまとソロモン先生も待っているかも」

 ヒューが足を踏み出しかけたとき。

 ゴゴゴ、と遠くから地鳴りがする。立ち止まった少年が振り向くと、ガラガラ、と振られるように大地が揺れ始める。

「ララ!」

 手を伸ばし、足を踏ん張る。さらに大きくなるのではないか――と身がまえた瞬間、まるで嘘のように揺れはおさまる。

 しばらく警戒を解かず、四人は顔を見合わせる。

「噴火はしてないみたいね……」

「まあまあ大きかったけど……早く戻ろう。ソルさまとソロモン先生も心配だ」

 彼らは足早に帰路を急ぐ。

 道中のすれ違う人々は地震には慣れ切った様子だが、婦人たちが「そろそろ噴火するんじゃないかね」「うちも家財道具はもうまとめてるよ」などとことばを交わすのが洩れ聞こえた。

 宿に着いたときには丁度夕食の時間で、すでに食堂で料理が用意されている。それを盆ごと部屋に持ち込んで食べることにした。部屋は男女一部屋ずつに分かれているが、全員が男子部屋に集まる。

 ソルはときどき咳込みながらも目を開けていた。

「眠らなくて大丈夫ですか?」

「少し寝た。なにかわかったか、気になって」

 それなら早く伝えようと、夕食をとりながら調べてきたことを伝える。ソルには、柔らかい山菜とチーズのリゾットが用意されていたが、半分以上残してしまっていた。

 そんな中、話しも終わりに近づいたとき。

 ガゴン、ゴォン!

 けたたましいほどの鐘の音が夜の空気を震わせる。乱暴で、まるで音自体が異常を伝えているようだった。

「なに……?」

 誰もが動きを止め、鐘が鳴りきるまで顔を見合わせるしかない。間もなく、慌てて女将が廊下を駆けつけてくる。

「今の、集合の合図だよ。家の代表が地区の集会所に集まるんだ。すぐ戻るけどちょっと留守にするよ。まったく、こんな時間に……」

 そう言い残すと、また慌ただしく去っていく。

 ――これはただごとではない。

 口には出さなくても、誰もがそれを察知していた。

 食事を終えて食器を食堂のカウンターに片付けた後、旅人たちは部屋に集合したまま女将の帰りを待った。一応、いつでも動けるように荷物はまとめておく。

 そのうち周囲が騒がしくなり始め、ララがカーテンの下からくぐり窓を覗いた。

「あ、みんな出かける準備してるみたいだよ」

「出かける準備……?」

 レジーナがカーテンを開けた。窓の外では、布に荷物をまとめて背負った男が走っていく姿や、馬に荷物を載せ通りすがる夫婦、大きな荷車に家具や雑貨を積み込んでいる一家の姿が見える。

「避難するところ……?」

 レジーナの疑問の声に、離れたところでドアが勢いよく開く音が重なる。

 ドタドタと足音が近づき、女将が顔を出す。

「避難命令が出たよ。動ける者はすぐに荷物をまとめて丘の上の集落跡に向かえとさ」

「動ける者って、動けない者はどうするんです?」

 少年が問うと、女将は表情を曇らせる。

「あたしらも反対したけどさ。専門家が言うにはもういつ噴火してもおかしくないから動ける者だけでも即逃げろと。身寄りのない動けない者は置き去りだよ」

「病人は死ねと……」

 ソルがベッドの上でつぶやく。

 ――そんなこと間違っている。

 口に出したいが、ヒューは手立てが思いつかなかった。女将が別の窓のカーテンを開く。そこに見えた山の向こうの煙が太くなっているのを目にすると、我先に逃げ出したくなる気持ちがわかってしまう。

「あたしは娘が心配だ。あの娘は真面目だから、自分は病院に最後まで残るとか言うんじゃないかね」

「じゃあ、みんなとりあえず病院へ行きましょ」

 なにか思いついた様子で、聖霊が口を開く。

「その病院の周りに植物くらいあるわよね?」

「え……? そりゃ、まあ」

「なんとかできるかもしれない。動けない人を病院に集められれば」

「では、みんなで病院に行きましょう」

 ヒューの目は街並みを眺められる窓の外に向いている。家々の屋根の向こう、北の丘を登る坂道はすでに避難民の列で埋め尽くされていた。

「あの様子では、どうせすぐに脱出は無理でしょうから」

 

 宿の夫婦が荷物を素早くまとめると、道中の身寄りのない年寄りの家から二人ほど拾いつつ全員で病院に向かう。病院には急病人を運ぶ馬車と厩舎が一階の玄関脇に直通している。そこにドラクースと馬車もおさまった。

 病院の医師や看護師は半数以上が留まり、どうにか全員で避難できないか、もしくは屋上で火砕流をやり過ごせる可能性はあるかと相談していた。

 聖霊が術でなんとかできるかもしれないと言うと、半信半疑ながら、看護師二名が馬を駆り一人暮らしで身体の不自由な者を迎えに行く。小さな町なのですぐに回れるという。

「これなら大丈夫そうね」

 看護師たちを見送った後に病院の玄関の前に残ったオーロラは、建物の周りの木々や花壇を見渡していた。

「大丈夫って……どうするんですか?」

「それはそのうちわかるわよ。ほら、あんたも中に入ってなさい」

 追い立てられ、ヒューは病院内にすでに入っていった妹らを追う。どういう術を使うのか気にはなるが、おそらく手伝えることもない。

 病院には現在それほど入院患者はおらず、病室はいくつか空いていた。そのうちのひとつの四人部屋を使わせてもらえることになっている。

「ソルさま、大丈夫ですか? こんな状況じゃ休めませんよね」

 ん、とベッドの上のソルは小さく応じる。体調は前より悪化していそうに見えた。

 彼は一面の窓へ顔を向けている。

 宵闇の中に薄く浮かび上がる家々と避難する人々、そして月明かりに照らされる火山と太く立ち昇る煙の柱。

 気がつくと、妹が不安そうに手を握っていることにヒューは気がつく。

「大丈夫、きっとオーロラさんがなんとかしてくれるよ」

 平然を装うように努力しながら、心の中では、みんな早く帰ってきて、オーロラさんも早くしてくれ、と祈り続けている。

 建物の中でも、時折山の方角から地鳴りのような、なにかが崩れるような音が聞こえてきていた。もういつ噴火してもおかしくないとはっきり実感できる。

「あ、戻ってきた」

 病室のドアは開け放っていた。廊下から女将の声が響いてくる。

 それから間もなく、建物のあちこちでなにかを擦るような音が聞こえ始める。

「なんだろう」

 不安より好奇心が上回ったらしい妹に手を引かれ、兄も窓際に移動する。一見景色は変わらないが、見下ろすとあきらかに異質なものが視界に飛び込む。

 病院の周りの木々や植え込みの草花が巨大化し、枝葉を太い蔦のように伸ばして外壁に絡みつかせている。

「すごい、草木が病院を支えよとしているみたいだね!」

「オーロラさんの法術のようで……どうするつもりなんでしょう」

「いくつか想像できますが……まあ、すぐにわかるでしょう」

 廊下や壁の向こうでも戸惑ったようなざわめきが聞こえるが、ソロモンだけは泰然としていた。

 擦るような音が止まると、ミシミシときしんだ音が軽い揺れとともに始まる。最初は地震のようにも感じられたものの、すぐにララが声を上げた。

「病院に足がある!」

 つられて少年も再び見下ろす。木が土の中から自らの根を引き抜くと、すでに長く伸びた枝葉に見合うほど大きな脚のように太く長く巨大化する。それが花壇の草花や植え込みの植物でも行われていた。何本もの脚でしっかりと支えられ、建物はすでに地面を離れていた。

 建物を捉えた植物たちは、ゆっくりと脚で一歩を踏み出す。

「病院ごと移動するのか」

 外から驚きや喜びの声が聞こえるのに、ソルの好奇心をくすぐられたらしき声が重なり、ソロモンが苦笑する。

「準備に時間がかかる法術だけど、ここの周りには植物が多くて助かったわ」

 術を成功させた聖霊がようやく部屋に入ってきた。

「これで全員を避難できるはずよ」

「そのようで……お疲れさまです」

 行く手の坂道では、避難民の列の最後尾がかなり遠くなっている。そこへ向けて、病院は巨人のごとき大きな歩みで急速に近づいていく。

 その速さに心強さは感じるが、ヒューは今にも噴火するんじゃないかと心配でならない。坂をある程度登れば火砕流や溶岩は避けられるかもしれないが、火山弾はもっと離れないと飛んでくるかもしれない。

 病院は順調に坂を登り始めたが、その間も窓からは火山が見えている。

 地鳴りが徐々に大きくなってきており、持ち上げられてからの病院内では揺れは感じないが、時折地震も起きているようだ。

「大丈夫ですよ。噴火で石や岩が飛んできても魔法の結界で守れますから」

 ソロモンが平然と、心を読んだようなことを言う。

 医師が結界を張ったところは見たことがないが、使えるのか、それともオーロラやソルが使うということだろうか。

 少年がそんなことを考えていると、グオン、と大きな爆発音がした。火山の向こう側にあったらしい火口が頂上の火口とつながったらしい。月に照らされ闇の中でもはっきり見える灰色の噴煙は今までよりずっと太く高くなる。

 建物内から起こる、不安げなどよめき。

 パラパラと音がして、黒い砂のようなものが周囲の家々の屋根に降りそそぐ。火山灰だ。

「さっさと離れた方がいいわね」

 すでに坂の中央よりは上だ。幸い重い岩などはこちらまでは飛んでこず、たまに火山灰や小石がパラパラと当たるくらいだ。それでも、なにかが窓に当たる音がするたびに不安は煽られるが。

 それも、丘を登りきると木々と土手で遮られ火山は見えなくなる。道は草地を真っ直ぐ続き、その先は。

「あ、橋だ」

 深い谷に橋が渡されている。幅は馬車が通過できそうなほどあるが、当然、二階建ての病院が通ることは想定されていない。

「大丈夫、大丈夫。あの橋だってもともとは木でできてるんだから」

 聖霊は余裕の表情だ。

 彼女のことば通り、病院の脚となるものは橋の素材と大差ない。病院は避難民が列を作る道を外れ、橋の横へ向かう。

 法術に操られた草木はただ橋と同じような素材というだけではない。どこまでも伸び太くもなる。

 谷の端へ寄ると、病院の前半分側にある脚の半数が伸びながら向こう側へ向かい、残っていた側の脚も建物を押し出すように伸ばして運ぶ。

「わあ、飛んでるみたい!」

 ララだけでなく、壁の向こうのあちらこちらからも歓声が上がっていた。聖霊はふんぞり返り、魔族はなにか言いたげに見るが、結局は無言をつらぬいた。

 谷を渡り平原を少し行くと、小さな湖が見えてくる。その周りには数十軒だが、木造の家も並んでいた。

 窓の端には未だに噴煙を上げ続ける火山も見えるが、陰に隠れる前の最後に見たときよりかなり遠くなった印象だ。

「ここら辺りでいいでしょう」

 まだ避難民たちが追いつかないうちに場所を決める。植物は周囲の草木にまぎれ、元の姿を取り戻す。

 家々は古く、道の石畳からは雑草が生えている。それでも雨風は防げるし、しばらくすれば整えられるだろう。当面は病院に寝泊まりすることになる者が多いかもしれないが。

 やがて避難民が追いつくと、あちこちで謝罪や礼のことばが聞こえるようになるが、レジーナとオーロラがその相手のために出て行って、病院のドアは固く閉ざされた。

「やっとゆっくりできますね」

 ソロモンが溜め息を洩らしたときには、もうソルは眠り始めている、

「今日は一生分揺れた気がします」

 ベッドに入って寝息を立てる妹に毛布をかけながら、ヒューも睡魔が確実に侵攻してきたのを感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る