第27話 南への船出

 潮の匂いが鼻腔をくすぐると、疲れ切った一団の顔にも安堵の色が広がる。

 戦場で傷ついた人々はニールセンドの自警団と傭兵たちだ。怪我人はほぼソロモンとソルの治療魔法で動ける程度に回復しているが、いくら魔法でも、すでに命を落とした者を生き返らせることはできない。亡くなった四名が布に包まれ、二輪車に載せられて運ばれていた。

 帝国軍の捕虜も五名ほど縄につながれ歩いている。武装解除された姿はどこにでもいるような人間で、従順なものだ。帝国兵の亡骸は戦場に残され、後で回収されるだろう。

 ヒューたちが乗ってきた馬車は、ララと弱っている者たちに席を譲っていた。戦場から街はそう遠くはない。小さく緩やかな丘をひとつ越えるだけで、海に抱かれる港町が見えてくる。

 そして、一行を迎える人々が門の前でこちらに気がつき、手を振ったり声を上げながら待ちわびていた。充分に近づくと駆け寄って迎える。皆、戦闘に参加した者の上官や親兄弟、友人などだ。

「あなたたち、この後の当てはあるのかい?」

 再会の様子を遠巻きに眺めていた旅人たちに、メイベルが声をかけた。

「まあ……この時間ですから、情報収集がてらにこの町で一泊することになるでしょうね」

 医師が陽が傾いた空を見上げる。すでに昼食時間を過ぎており、昼以降の出港では海上で二晩を過ごす可能性が高くなるため、ここから南方大陸へは午前中に出る船しかない。

「宿はほとんど傭兵たちで埋まっているんじゃないかしら。良かったら家に来るといいわよ、二部屋くらいなら空いているし。食事は出ないけどね」

 この提案は渡りに船だった。宿が埋まっているのなら他に手段を探さなければならない。その手間が省けたことも理由のひとつだが、長旅の疲労もあり、長く宿探しのために歩き回る状況に陥るのは避けたかったのだ。

「食事は飲食店で行います。助かります」

「馬車が預けられるなら楽だが……」

「大丈夫、馬小屋はあるわ。小屋だけだけど」

 一行は早々に、他の戦闘参加者たちと別れる。怪我のために治療魔法の世話になった者は少なくなく、皆口々に礼を言い、家族が持っていた果実を渡してくる者もいた。

「お礼をいただいてしまいました。後でおやつにでもしましょう」

 と、ソロモンが抱えた腕の中には黄色い果実が三つ。

「後で、みんなで食べようね」

 疲れて眠たげにしていたララも、目を輝かせる。

 馬車の手綱は街中ではメイベルが握った。白い煉瓦造りの家が多い街並みの中心部は賑わっている様子だが、彼女はそこから離れるように手綱を操る。

 街外れの丘の上に灯台がそびえており、その手前で馬車は止まる。小さな物置に似た建物がふたつと、二階建ての塔に似た建物がひとつ並ぶ。

「ここは……?」

 レジーナのことばに応えるように、塔に似た建物の扉が開く。

「あ、馬車だ!」

「メイベルさんお帰り、その人たちは?」

「馬って初めて見た!」

 五歳くらいからヒューと同じくらいまでの年齢らしき少年少女が六人。それに、少し遅れて老夫婦が姿を現わす。

「孤児院よ。ここがあたしの家なの。最近独立した子が多いから、部屋も余ってね。少し騒がしいかもしれないけどね」

「孤児院……」

 その単語に、自らも孤児院出身のレジーナは複雑そうにつぶやいた。

 この町にも、戦いや事故、病気などで身寄りを亡くした子どもたちは昔からいたという。メイベル自身もこの孤児院の出身であり、独立してからは運営を手伝ってきた。何度もなくなりかけたこの孤児院をどうにか立て直し、今は灯台守のランダ夫婦の協力を得ながらどうにか運営している。

「孤児院を運営しているのに……戦場に出ているの?」

 ランダ夫人の入れたハーブティーのカップを手に、レジーナが問う。

 塔のような建物の一階に居間として使われている広い部屋がある。不揃いな長椅子とテーブルに客人たちは案内され、少し離れたところにある暖炉の前で子どもたちが様子をうかがっていた。子どもたちの中でも年長らしき二人は大人たちを手伝い、幼い子の面倒をよく見ているようだ。

「孤児院にいるからさ。守りたいものがあるなら戦わなきゃ。あの子たちを守るだけじゃなくて、また戦いで家族を失う子が出ないためにも。それにその力があるなら生かさないとね……これでも、傭兵として何度も渡り歩いてきたくらいの実力はあるさ」

 そう言って、彼女は手入れ中の槍を軽く叩いて笑う。大事に使われてきたらしいが金属の柄には無数の傷が刻まれており、かなり年季の入った得物のようだ。

「ねえねえ、お兄ちゃん」

 不意にララが声を上げる。孤児院の子どもたちが気にしているように、ララの方も歳の近い子どもたちが気になるようだ。

「残っているクッキーを持ってきて、みんなにわけてもいい?」

 食糧は大分減っていて、どうにしろこの町で補充が必要だった。祖父の作ったクッキーももう十枚もない。

「ああ、お祖父ちゃんのクッキーを誰かに食べてもらうのもいいことだと思うし」

「ララ、取ってくるね」

 馬車は馬小屋に入れられていた。メイベルが少女についていく去り際、子どもたちを振り返る。

「ニール、客人たちを部屋に案内してあげて。ララちゃんはあたしが後で連れてくから」

 ニール、と呼ばれたのは金髪を切りそろえた少年で、ここの子どもたちの中では一番年長のようだ。彼はヒューたちを石造りの階段の上の二階に案内し、となり合った二つの部屋の扉の前で足を止める。

「こちらを自由に使ってください。ただ、ベッドの数は足りなくて……」

「いいのよ、屋根と壁があるだけマシだわ」

 聖霊のことばは本心からだろう。惑いの森を出てからのここまで、一度も町には立ち寄っておらず、ずっと野宿続きだった。

 ニールに礼を言い、男女に分かれて部屋に入る。

 部屋は広いが調度品は少なく、簡素なものだ。継ぎはぎの多い布をカーテン代わりにした大きな窓の手前に、ベッドがひとつと修繕の跡がある布張りの長椅子、それに手作りと思われる小さな木製のテーブル。ティーポットとカップが四つ、テーブルクロスの上に並んでいた。

「僕は床で寝ますから……ソルさまが疲れているでしょうから、ベッドを使ってください。ソロモン先生は椅子で」

 床は板張りで絨毯も敷かれていないが、下からの暖炉の熱である程度温かく、布を敷けば野宿よりははるかに快適と思えた。

「いえいえ、年寄り扱いはよしてください、ヒューさん。まだ身体のできていない年齢ですから、無理は禁物ですよ」

「僕は布の上でも充分快適です。ソロモン先生だって、怪我人の治療にかかりきりだったし疲れてるんじゃないですか」

「わたしはまだまだピンピンしてますよ。筋肉痛だって来るときは当日来ますから。それに床の方が今までの、草の上とは違う感触でですね……」

「わたしは、こっちの方が幼馴染みがあっていいな」

 話がまとまらない様子を見て、魔族はさっさと長椅子に座り横になってしまった。それを見て医師は一瞬動きを止める。

「ベッドを使う方が身体は楽でしょう。ソルさま、なんならわたしと一緒にベッドを使いませんか」

「嫌だ。真顔でなにを言ってるんだキミは」

「いや、今はともかく夜中は下からの熱だけでは寒いかと思いまして…….床は、床のどこに寝てもいいので温かいところに眠れるんですよ」

 眼鏡が壁の凹凸に向けられる。女性陣のいる部屋との間の壁に煉瓦の煙突が天井へ抜けるように通っており、その周囲は他より暖かくなっているようだ。

「なら、移動すればいいじゃないか」

 いいことを思いついた、という顔でソルは長椅子を運び、煙突の近くに置いてから再び満足そうにその上に寝そべる。

 その様子を少しの間寂しげに眺めていたものの、ソロモンは思い出したように口を開く。

「ソルさま、お疲れでしょうが、まだ寝るには早いですよ」

 すでに眠たげに目を閉じかけていたソルが、医師のことばに顔を上げる。

「そうだった。情報を集めないとな。船の時間も見ないと」

「それに夕食……には、少し早いかもしれませんが」

 窓の外に向けられた金縁眼鏡に、夕日に染まる空が映る。

 その直後、子どもの笑い声が下から響いた。

「秘密基地に案内してあげるよ!」

「海が綺麗に見えて凄いんだよ」

 続いて響いてくるのは、楽しげな話し声。

 窓際に歩み寄って見下ろしたヒューの目に、足取り軽く駆けていく子どもたちの姿が映る。その中には誰より見慣れた少女の姿もあった。

「すっかり仲良しのようですね」

 少年のとなりに歩み寄ったソロモンも、去っていく小さな背中たちにほほ笑む。

 ――良かった、仲良くなれて。

 それも本心からだが、ヒューは胸を刺すような感情も覚えた。

 ハッシュカルにいた頃にも一緒に遊ぶ友人たちがいたが、ララはそれをすべて失ってしまった。それに、旅暮らしを続けている限り、同年代の普通の子どもと同じように友人たちと遊んで笑い合う暮らしは送れないのではないか。

「ヒュー……?」

 少年の複雑そうな表情に気がついてソルが呼びかけると、ヒューは思考の内から呼び戻される。

「ああ、一休みしたら町へ出ましょう。この時間なら、子どもたちもすぐに帰ってくるでしょうし」

 妹にとってなにが幸せなのかは、兄が決めることではない。しかし、ララに尋ねてみたいと思いながら、少年は笑顔を作った。


 夜になると、ニールセンドはそれなりの賑わいを見せた。帝国軍との小競り合いが続いているため商店は早く閉まるところが多いが、傭兵たちは町外から次々と集まっており、飲食店は通常よりも客の出入りが激しいようだ。

 ヒューたちは旅人や傭兵たちの姿が少ない方向に足を向けた。この町で起きたことの情報を集めるためには、地元の者が集まる店が良いだろうとメイベルにめぼしい店の場所を聞いてきたのだ。

 〈南の灯台〉亭という小さな店のドアをくぐると、店内は地元の者らしい客の姿で七割は埋まっていた。

「いらっしゃい……おや」

 灰色の髪と口髭を生やした長身の紳士に見える店主が、入ってきた面々を見るなり顔色を変える。

「確か、前にも一度……いらっしゃいましたね?」

 その目が向く先は、黒尽くめの魔族。

「わたしを知ってるのか?」

「ええ、そりゃ……」

 一気にカウンターに詰め寄ったソルに目を白黒させながら、店主はことばを続ける。

「酔った船乗りが連れのお嬢さんにコナかけて、断られて逆上して……最終的に、あなたと女性剣士が締め上げて終わったんですが、覚えていらっしゃいませんか?」

「ああ……そこに、この子に似た少女はいたか?」

 と魔族が視線でヒューを示すと、ああ、と店主が目を見開く。

「言われてみればよく似てらっしゃる。確かにいらっしゃいました」

「茶色の髪の女の子は? ルナ、って名前なんだけど」

「いらっしゃいましたよ。さすがに名前まではわかりませんが。特徴的な方々でしたのではっきり覚えています」

 次々と質問されて戸惑いながらも、店主は丁寧に返答してくれた。

「バサールさんに店の名を聞いてくるのを忘れてしまいましたが、ここがそうだったんでしょうかね。あとは、食べながらゆっくりお聞きしましょうか」

 ソロモンが一度話を切る。気がつけば、入ってきてすぐに店主を質問責めにする風変わりな旅人たちに、店内のすべての視線が集中している。

「そうですね……まず料理を注文しましょうか」

 目立つのには慣れているとはいえ、ヒューは引きつった苦笑いを顔に浮かべ空いているテーブルに一行を誘導する。数多くはない客の中にまぎれることは無理でも、静まり返った空気をどうにかしたかった。

 メニューはカウンターの上の天井近くに吊られた板に彫り込まれていた。港町らしく魚介を使った料理も多く、生魚を使ったものもある。地元向けの店として有名だけに、意外に料金は安い。

「舟券でいくらかかるか心配だけど、今夜くらい好きな物を食べたいわね」

 旅立ってここまでで口にした保存食や、たまに食べる、道中獲った川魚や見つけた食用キノコ、野菜を使った料理も決して不味くはなかったものの、持参している調味料もそれによる味付けにも限りがある。

 それに、この先も保存食になるかもしれない。

「そうだね、今夜はみんな好きなものを……あ、でも高くなり過ぎないもので」

「一食くらい奢りますよ」

 思い切れない少年に、医師が笑いながら言う。

 ――一体、ソロモン先生はどこからお金を手に入れているんだろう。

 ヒューは改めて疑問を抱く。謎多き人物である医師の大きな謎のひとつである。しかし医師の怪しさに慣れてしまったのか、気にする者は少ない。

「さすが、別名・歩く財布。なかなか太っ腹じゃない」

「そっ、その呼ばれ方はさすがに心外です。別名をつけるなら、もっといい特徴を成分として入れられるじゃないですか、ねえ」

「うーん……女好きの伊達眼鏡、とか?」

「い、医者成分が入る余地は……」

 聖霊と話しながらも、金縁眼鏡の視線の先はメニューの文字列を追う。

 間もなく、テーブルの上が狭くなった。海藻サラダ、貝柱のハーブ蒸し、ツブ貝の串焼き、刺身盛り合わせ、魚卵と季節野菜の入ったパエリア、魚介の旨味を引き出したスープ。

「そんなに食べきれるのか……?」

「余ったら持ち帰れるように交渉するということで……」

 少食なソルの心配は杞憂に終わる。料理は物によっては味付けに癖があるが、概ね美味しいものだった。味わいながら店主に話を聞いたところ、かつてこの店を訪れたソルたちは『南の方へ行く。汽車に乗れば古代図書館にも行けるだろう』というような話をしていたらしい。

「古代図書館……となると、アガスティアですね。オーヴァム大陸の東にある古い町です。多大図書館は多くの魔導書も収められているとか」

 ツブ貝の串焼きを手にしながら、ソロモンは記憶を辿るように天井の端を見上げる。

「魔導書……召喚魔法の魔導書も?」

「ええ。たぶん、スクリーバさんが言っていた写本があったのもそこでしょうね。どこかで、昔アガスティアの図書館の一部が燃えて重要な歴史的資料や魔導書も失われた、と目にした覚えがありますから」

 ヒューはスクリーバのことばを思い出す。異世界の住人を帰還させる魔法が記された魔導書の写本も燃えてしまったという。

 〈魔導書イグマ〉が手もとにあるように、写本は他にもあるかもしれない。しかしそれを探し出すのはなかなか困難のようだ。あれば、すでに図書館でも入手しているはずだ。

「どういう目的だったのかしら。まあ、足取りを追うだけでも行ってみる価値はあるわね」

「アガスティアは学問の町として有名だし、なにか有力な情報はあるかも」

「汽車に乗って行けるんだよね。楽しそうだね!」

 と、周囲は浮き浮きとした様子だが、ヒューは気が重くなるのも感じていた。正確には、かかるであろう費用が財布に重くのしかかってくる。

 〈南の灯台〉亭を出て港に掲げられた看板の代金を見ると、それは誰の目にもあきらかとなる。

「大人二万、十歳以下は半額で一万……となると」

 すでに陽は落ち、周囲は闇に包まれている。レジーナがカンテラに火を灯し文字を照らしていた。

「片道で十万越え……なかなかの値がついていますね」

 桟橋に静かにチャプチャプと波が寄せる音が耳につく静寂の中、ソロモンの声にも驚きと困惑の色がにじんでいた。

「こりゃ、一般の人たちが大陸から出たがらないはずだわ。帰りも考えるとアシが出るわね」

「舟券だけでなく、汽車賃もありますし……」

「少なくとも、帰るまでにはなにかを売るかどこかで稼ぐ必要があるな」

 始めて行く場所で稼ぐことができるのかという不安もあるが、今からどこかで金を稼いで、というわけにもいかない。すでに周回遅れなのだから、一刻も早く追いつかなければ。もちろん、すでに南の大陸にいない可能性は大きいが。

「行ってから考える、しかなさそうです」

 それに代わる策は、他の誰も持っていなかった。


 薄く雲がかかった夜空の高いところで、月が青白く輝いて地上を照らしていた。

 点在する建物の前で槍を振るう女の姿はくっきりと月光に浮かび上がる。しかし、すっかり街も寝静まっているこの時間、本来は誰もそれを目にすることはないだろう。

 だが、建物の中からそれに近づく姿があった。

「おや、眠れないのかい?」

 宙をつらぬいた格好のままの槍を手に、メイベルは振り返る。そして疑問が的外れであることを知った。視界に入った少女はしっかりと服を着込み、ボウガンと的を手にしていた。

「自分のできることを増やしたいからね。どこまで生かせるか、わからないけど」

「それは、運と努力次第だろうね」

 メイベルは笑った。決して馬鹿にしている笑みではなく、安心と満足の笑み。

 レジーナは的を吊るす場所を探しに行こうとして足を止めた。

「もし、自分がいなくなったらこの孤児院は……とか、考えることはあるの?」

 ためらいながらも口を開く。相手はそれに気分を害した様子もなく、笑顔のままでそれに応じた。

「そりゃね。戦場になんて出ないで大人しくしてた方があたしも孤児院のみんなも長生きできるかもしれないけど、あたしも、孤児院のために生きなきゃいけない……なんてわけじゃないだろ? 自分の誇りを守れる生き方をしたっていい」

「それはまあ……わたしも、孤児院にはたまに様子を見に行くくらいだったし」

「それでいんだよ。運営する側になってわかった。いつまでも卒業できないんじゃ、本当にひとりでやっていけてるのか? って、心配になったりする」

 メイベル自身に言い聞かせている部分もあるのかもしれないが、レジーナは少し、救われたような気分になった。

 それと同時に思い出す。彼女が孤児院を〈卒業〉するときに、孤児院の先生たちや友人たちがとても喜んでくれたこと、自分も一人前だと認められたようで嬉しかったこと。

「それなら……ちゃんと独り立ちできているところを見せるのも先生たちへの恩返しかもしれないわね」

 すでにこの世にいない孤児院の者たちにできることはないと思っていた。それでも、気休めかもしれないが、少女の心はひとつの道標を得たようだった。


 大型の帆船は潮風を受けながらさざ波に揺られ、出発のときを待つ。

 船の上から港を眺める旅人たちを、孤児院の者たちが見送りに来ていた。早朝のため眠そうな子どもたちも多いが、多くは元気に手を振っている。

「帰ってきたら、お話聞かせてね!」

「気をつけて行って来いよー!」

 子どもたちの呼びかけに、ララも大きく手を振り返事をしていた。

 やがて、出発のときが来る。船の乗客は一行のほかには一組の夫婦だけで、船室は荷物でほぼ埋まっているような状態だ。客より荷物の運送でこの船の収支は回っているのだろう。見送りも孤児院の者たちだけだ。

「気をつけてね。いつでも寄るんだよ」

「そちらも気をつけて! 馬車をお願いします!」

 馬車は船には乗せられず、代金を払って預かってもらうことになっていた。孤児院や子どもたちにとっても歓迎すべきことだったらしく、快諾されていた。もともと馬小屋があるだけに昔は馬を飼っていたようで、年長の子どもたちも馬の世話を経験しているという。

 係留を解かれた船は帆に風を受け、港を離れ始める。もう声も届くのもやっとといった距離で、最後にララと子どもたちがことばを交わす。

「それじゃ、またねー!」

「また会おうな!」

「迷子にならないで帰って来いよー!」

 そのやり取りの後はもう、声よりも周囲の波の音の方が大きくなってしまう。

「……見えなくなっちゃった」

 海原を行く船はどんどん進み、その背後の港も見る見るうちに小さくなる。人の姿など、米粒にも満たないほどに。

 少し寂しげな妹に、兄は昨日感じた疑問を思い出す。

「ララは、ああいう友達が欲しいかい? たまに会うんじゃなくて……近所に住んでいつも遊べたらいいのになって、寂しくならない?」

「うーん、今はちょっと寂しいかな」

 少女は素直に答えた。

「でもね、ララたちが旅をしてないとあの人たちにも会えなかったよ。世界のあちこちに行くと色んな人に会えるけど、会える時間はちょっとだけになる。でも、今は色んな人に会ったりする方が楽しいと思う」

 妹のはっきりした考え方に、兄は少なからず驚いた。思えば、彼女の考え方はこの旅に出る前から変わっていない。常に一本芯が通っている。

 幼馴染みのとなりで聞いていたレジーナも笑顔を向けた。

「相変わらず、ララは大人ね。ヒューよりしっかりしているんじゃないかしら」

「そうねえ……まだまだ若いんだし、ララちゃんは今はそれでいいんじゃないかしら。今は世界を見て、経験とか知識を積むってことで」

 精霊にもうなずかれ、ララは小さな胸を張る。

 ――この妹にはやっぱり勝てない。

 せめて魔法や運動能力では負けないようにしなければ。ヒューは後で、船上でも腕を磨くことを忘れず訓練しようと心に誓う。

 出発からしばらくの間にもう、船の後方にニールセンドのある岬が小さくなっていた。行く手の空は大半晴れているが、遠くにはまばらに雲が浮いているのが小さく見える。水平線の彼方にはまだ陸地はない。

 ヒューは甲板で魔法の訓練にいそしむことにした。船上は火気厳禁なので、水や氷を操る術を聖霊に習う。

 集中しているうちに陽が高くなり、そろそろ昼食の時間帯にさしかかる頃。

「お兄ちゃーん!」

 耳慣れた声に見上げると三本あるマストのうちの一つ、その頂上近くにある見張り台からララが手を振っていた。となりにはソルも手すりに手を置き見下ろしている。

 二人が船の構造や設備を見学していたのは、視界の端で見えていた。少ない乗客のためか、航海が順調な間は暇を持て余しているのか、船員は皆、親切に接してくれる。

「随分楽しんでいるようで……」

「ま、まあ、船上はできることも限られますし」

 あきれたような目で見上げる聖霊に少年は苦笑する。このまま船上で丸一日以上過ごすのだから、多くの乗員は時間の使い方を考えなければならない。

 とはいえ、そろそろ昼食だ。間もなく全員が集まってくる。船室はそれほど狭くはない二部屋が与えられているものの、やはり開放感のある空の下で食事をした方が美味しく感じるものだ。

 食事の内容は味気の薄いものである。ニールセンドで購入したパンを薄切りにして森から持参したハムとチーズにハーブを振りかけたものを挟んだサンドイッチに、ソロモンがもらっていた果実、それにいつものハーブティー。

 すでにこの船に乗るためにソルが預かっていた金貨を含め財産の半分以上を失っている。食事に金銭は掛けたくない。

 食後の茶をそそいだカップを手にしていたレジーナが、雫が跳ねて手に当たるのを感じて見上げる。帆が大きく膨らみ、船員たちが慌てて縄を操作し始めた。

「少し荒れてきましたね」

「あんまり酷いと酔いそうかも」

「船室のハンモックに寝ていればあまり揺れを感じないぞ」

 いつの間にか船の上空にも行く手の空にも雲が増えている。これからさらに揺れが悪化するであろうことは明白だ。

「船室に戻った方が良さそうね」

 強風でなびく長い金髪をうっとうしそうに払い、聖霊はカップの中の残りを飲み干す。

 南方はサニファー大陸より温暖だが、それでも海上で吹き荒ぶ潮風は冷たい。

 船の向かう港町アブセルトへ続く空は、徐々に重たげな雲に支配されつつあった。

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