第26話 遥かなる旅の先
崖に口を開いた出入口からは、まだ黄土色の土埃にまみれた室内が見えた。もともと部屋に壁はなく、神殿でよく見られる装飾の施されたエンタシスの円柱が等間隔に並んでおり、出入口は広く内部は見渡しやすい。
石製の棚や長椅子、テーブルなどが並び、部屋のひとつは台所のようで割れた食器らしき物が何枚も重ねられている。二つ並ぶ部屋の奥には、どちらもドアが見える。
「どこになにが隠れているかわからないからな。みんな、気をつけて」
ホウキを手にしたソルは意気揚々と言うが、興味津々ではあるものの実際に発掘作業をした経験はないのか、土埃を払う仕草はおっかなびっくりだ。
「なによ、まどろっこしいわね」
離れて見ていた聖霊が、先端に穂のついた、ホウキに似た形の植物をいくつも操って土埃を勢いよく掻き出し始めた。
「荒っぽいのはやめろ。土の中に何か隠れているかもしれないじゃないか」
「だからって、あんたのやり方じゃ何年経っても奥に辿り着けないでしょうが」
「大事な発掘品を壊しては元も子もないだろう。これだから野生の聖霊は」
「野生の魔族なんて、気が長過ぎて遺跡の発掘品並みに干からびるんじゃないの」
「本能のままに生きて行き倒れるよりマシだろう。キミの術のせいで高価な発掘品が壊れて価値がなくなるかもな」
「そ、それは困るけど!」
聖霊と魔族の言い合いは面倒なので特に止めることもしないまま、兄妹とレジーナも手袋で土埃を払っていたが、その中でララが手を止める。
「これ、なんだろ?」
テーブルの上の土埃の中から、楕円形の薄い板のような物が摘み上げられる。大きさはララの手のひらにも簡単にのる程度だ。
「昔のお金かしら?」
「お金? どれどれ」
俄然興味を持った聖霊が覗き込む。貨幣らしきものは装飾が彫り込まれており、その図柄を目にした彼女は表情を変える。
「これ、見覚えがあるような……」
言いかけて、思い出したように懐から古い貨幣を取り出す。並べてみれば一目瞭然だ。年月による風化でここの物の方が薄れているが、同じ図柄に違いなかった。
「エルレンでも昔は同じ貨幣が使われていたのかしら」
「少なくとも、同じ時代の同じ文化圏には違いないだろうな」
唯一発掘作業に関わりなく鞄の中身を整理していたソロモンが、一段落ついた様子で顔を上げる。
「あの遺跡が外部と交流していた証明になるかもしれませんね。遺跡の範囲内にお店があってそこで内部の貨幣は流通していただけかもしれませんが」
「交易品のメモも残されているからな。ここが孤立していたという線は薄いだろうな」
遺跡の外を囲う木々の間から、ここまで六人を案内してから姿をくらましていた大魔術師が資料を手に現われる。
遺跡の資料を持ってきた、というだけではなかったらしい。
「いくらか使い魔の報告を聞いたが、何ヶ月か前にニールセンドの食堂にいたのを目撃した者がいるようだ。銀髪の少女と、それに黒尽くめの赤毛の若者もな」
そのことばにヒューも、それにほかの皆も手を止める。
「数ヶ月……ということは、イスコルデが滅んだ後ですね」
少女の運命は町と一緒に潰えたのかもしれない。その可能性は少なくないだろうと、あまり希望を持たないようにしていたヒューは思わず自分の声が自覚していたよりも明るくなるのを聞き、内心少し驚いた。
「ああ、そして食堂では南の大陸に渡ると話していたようだ」
ニールセンドはハッシュカルより南、シャムニール王国の南端にある町で、南のオーヴァム大陸に渡る者の多くがその港を使う。しばらく前に北東の町テルメリアが帝国軍に占拠され、何度か襲撃してくる遠征部隊と小競り合いを起こしている。
「南の大陸にいるのかしら。何ヶ月も前だと、もう帰ってきてるかもしれないけど」
「それなら、帰ってくるのもニールセンドだろうから情報が出るはずでは」
「南の大陸には列車があるんでしょう? 乗ってみたいね、レジーナ姉ちゃん」
「行先次第で乗れるんじゃないかな。できるだけ安く乗れるといいんだけど」
途端に遺跡の発掘より旅の計画に夢中になる六人に、大魔術師はあきれの目を向けた。
「もう次の旅の話か。落ち着きのないことだ」
「すっかり、旅暮らしが板についてしまいましたね…….まあ、さすがに今すぐ出発ではないでしょう。準備もいるでしょうし」
医師が苦笑する一方、幼い少女が目を輝かせて喜ぶ。
「凄い、どんどん遠いところに行けるね。色んなところに行って色々なものが見られるの、楽しいよ」
ララの夢は探険家だ。世界を旅して各地の遺跡を探険する夢は、すでに多少は叶えられていると言っていいかもしれない。
とはいえ、遠くへ行くのは当然容易ではない。長い距離を南下し、船に乗り、列車に乗ることにもなるかもしれない。倹約しているものの、帰りのことも考えると不安が残る。
せめて、食事だけは出費を抑えたい。幸い、この森には食材は沢山あり、祖父は腕のいい料理人である。日持ちする料理も習得しているかもしれない。
「しっかり準備していきましょう」
森にある馬車も借りていかなければならない。やるべきことを頭の中に羅列しながら少年は立ち上がる。
ララとソルは名残惜しそうにしていたが、結局、遺跡発掘は始まって間もなく中断された。
孫に保存食について尋ねられると、ダドリーはまるでそれを予想していたかのように、最近は森の食材の保存食について勉強していたところだと言う。森の植物には保存効果の高い葉などもあり、保存食の種類も充実しているようだ。
川魚の切り身の燻製、天日干ししたキノコ、湯と合わせるとスープになる味付け豆、野菜のピクルスの瓶詰や各種ジャム、木の実を干して焼いた物、そのままでも日持ちする厚い皮の果物など。それほど長くかからないうちに、充分な食料が集められた。
「すみません、付き合わせて。時間があったらあっちに戻りたかったんじゃないですか」
布で汗を拭き取り、ヒューは手にしていた棒を置く。もともと近くに落ちていた木の枝の切れ端だ。
「いや、また発掘の機会はあるだろう。しばらく身体を動かしていないと、わたしも腕がなまりそうだし」
魔族の剣士が剣の代わりにしていたのは、人差し指ほどの太さの弾力のある植物の茎だ。彼はそれを木の根もとに放る。
少年とは違い、白い肌に汗ひとつかいておらず赤毛も一糸乱れていない。その様子を目にすると、少年はまだまだ歴然とした差が横たわっていることを実感してしまう。
だが、振り返ったソルは満足そうな表情を見せる。
「なかなか様になってきたじゃないか。バックラーの扱いにもすぐに慣れたし。身体能力も前より向上したかな」
「一応、素振りや運動は毎日やるようには……」
運動については、妹も毎日それなりの距離を歩いている。それを知って以来、妹より長い距離を歩くようにしていた。
「真面目な生徒はどんどん伸びるから先が楽しみだ。キミなら半年もすれば一流の剣士になれるよ」
「本当ですか」
過ぎた評価だ。それがとても嬉しい。
それをはっきりと自覚していながら。
――半年では遅いかもしれない。
心のどこかでそう思うのを否定できなかった。
半年をできるだけでも縮めることができるのは自分の努力しかない。それは理解している。ヒューは内心、今までの何倍も努力しなければ、と誓う。
残された時間はほぼ、旅の準備に費やされた。馬車は二頭立てのものを森の居住区の人間の一人が快く貸してくれるが、馬の脚でもニールセンドまで一週間近くかかる。長旅だった。
「これを持っていけ。たぶん使えるだろう」
翌朝、旅立ちの寸前にバサールが渡したのは、握り拳大の水晶玉のようなもの。
それは、ノヴル東の遺跡で入手してきた設計図と部品から作られた一種の魔法石だという。バサールだけで制作した際は材料が足りなかったが、森の主が代用品を用意できた。
「竜の鱗が使えたとな。まあ、あれも古い魔法生物だからな」
「森の主は遺跡のことは知らないのか?」
「主は丁度良い穴があるからと住み着いたらしいが、その頃にはすでに住人はいなかったようだ。いても気にしないだろうが」
あきれたように溜め息交じりに言ってから、大魔術師は思い出す。
「そうだ、忘れるところだった。それはもうひとつあり、映像と音声……つまり、それの周囲の姿や音をもう一方に届ける力がある。起動と停止に強い魔力を当てる必要があるから、お主が持っておけ」
と、魔法石を渡されたソルはそれを厚手の布に包みポーチに保管することにしたようだ。
「問題は天候ですね」
医師が木々の間から南の空を見上げる。
はるか南に薄っすら見える山並みの上には、なにかを待ちかまえるように黒い雲が重そうにのしかかっている。
そこまで行くにも数日はかかる。辿り着くまでに雲がどこかへ霧散していくことをヒューたちは願った。
「では、皆さんも元気で」
「気をつけていくんだよ」
お決まりのやり取りをいくつか済まし、馬車は動き出す。もともとは荷車だけの馬車だが、オズマやフリウたちに改造されて幌が着けられ厚手の布を幾重にも敷き、腰が痛くならないように工夫されていた。だが大量の食糧が入った木箱や大きな袋が場所を取っており、ゆったり乗れるほどではない。
手綱はソルが握り二頭の栗毛の馬を操った。馬は大人しく従順だが、あまり若くないため無理はさせられないという。
小休止を挟みながらシルベーニュの丘を降り、最近はたまに森にいる元住人たちが様子を見に来るだけのエルレンを通過し、崖に沿って馬車を走らせる頃には陽が沈み始めていた。一行は最初の野営を以前も休憩した小川と泉の近くで済ませた。
「今のところ天気は大丈夫そうね」
夕食はまだそれほど日持ちする物でなくてもいいので、森の新鮮な野菜と魚貝のオイル漬けやチーズ、ハムなどを使ったサンドイッチと果物の皮を器にしたプリンとハーブティーという献立だ。プリンの滑らかな舌触りを楽しみながら、聖霊は空を見上げた。
「このままの状態が続けばいいのですが」
空には雲はまばらにしかないが、医師は悲観的な声を出す。崖や木々に囲まれ、ここは空が狭い。当然、見えない範囲に潜むものは視界に入らない。
案の定、崖のそばを出るなり行く手の空に雲が広がっているのが見えた。廃墟と化したハッシュカルを横目に南下するにつれ、その厚さや大きさがまざまざとうかがえる。ハッシュカル南の山道が近づく頃には、ポツリポツリと雨粒が降り始める。
「良かったわ、幌を着けてもらえてて」
レジーナはボウガンの手入れをしながら、フリウが用意してくれた幌を見上げた。森のダドリーの食堂の露天席の天井に使われている物と同じ素材で、薄手で防寒効果は低いが防水効果は高い。
「でも少し寒くなってきたし、早めに野宿した方がいいかも」
「地図によるとこの先に川と林がありますから、そこで止まりましょうか」
時間帯はまだ空の端が夕日に染まり始めた頃だが、雲に陽が遮られ、周囲は急激に暗くなってきている。
「暗い中での山越えは危険だからな……あの辺りでいいだろう」
ソルが手綱を操りながら目を向ける先には、大きな木が枝葉を張っていた。その太い根の向こうには川の流れも見える。
馬車を止めると、馬を枝につなぎ野宿の準備をする。レジーナやララが枯れ草や木の枝を集めている間にヒューらは草を払って寝床や焚火の場所を確保する。さらにヒューは空間の中央に鉄板を敷き、オーロラとソロモンは敷物や毛布を用意し、ソルは桶で川から水を汲んで馬たちをねぎらった。
レジーナたちが薪を集めてくると、ヒューとともにそれを並べる。
「これでよし、と」
手を放すと、少年は中央の枯れ木に集中する。すぐにその一点に赤い光が灯り、炎が立ち昇り始める。
何気ないくらいの流れるような動作だった。
「凄い。もうそこまで飼い慣らしているのね」
幼馴染みの素直な感嘆には、少年も嬉しくなる。しかし、となりで妹は口を尖らせていた。
「ララだって、使おうと思えば使えそうなのに」
「使えるでしょうけど、危なそうな術はもう少し大人になってからね」
聖霊が少女をたしなめる。彼女なりの術を使うために守るべき線引きはあるようで、ヒューは少し安心した。
焚き火が充分な大きさになると、明かりと温もりがその周囲を照らす。暗くなってゆく中ではそれは安心感にもつながる。
「温かくなったことだし、夕食にもまだ早いようだ。ひと眠りするとしよう」
両腕を上げて身体を伸ばしていたソルが、敷物の上に身を丸めて目を閉じる。ソロモンが毛布を掛けてやると間もなく寝息を立て始めた。
「お疲れのようで……ま、この天気は眠気を誘いますが」
雨は決してうるさ過ぎず、しとしとと大地を濡らす程度の音を鳴らし続けている。それに適度な寒さも眠気を誘った。
「それとはべつに、きっと安心されているんでしょう。ヒューさんも戦力になっているでしょうし」
「いや、まだそこまでは……」
一昨日も一人前には遠いと実感したばかりだ。褒められると、どこか気恥ずかしい気分になる。
――でもまあ、あの頃よりは。
思い浮かぶのは実戦など知らなかった自警団時代やペルメール西の洞窟、エルレンへ向かう道中の野盗たちの襲撃、そしてハッシュカルで帝国軍の将校たちを目の前にしたとき。
今ならきっと、もう少しマシな対応ができるはず。
「僕、ちょっと……素振りでもしてきますね」
それでもまだ足りない。少年は休憩もそこそこに、少し離れたところの雨の当たらない枝葉の下へ向かって歩き始めた。
その反応に苦笑しつつ、レジーナがクッキーとハーブティーを用意する。
「一息ついたら、わたしも暗くならないうちに練習しないとね」
「若い子たちは熱心ね」
木の実のクッキーを一口かじってから、聖霊は焚火の向こう側で無防備に寝息を立てている魔族の無邪気な顔に視線を向けている。
「なにも心配なさそうな顔して寝ているけど……大丈夫なのかしら。記憶にもないのに自分が数ヶ月前に南へ行ったなんて聞いたら、不気味だと思うけど」
「おや。心配ですか? 色々考えてはいるのでしょうが、ソルさまは強い方ですから大丈夫でしょう」
少しからかいを含んだ声色に、聖霊は睨むように目を細める。
「べつに魔族はどうでもいいけど、そいつの話じゃルナも一緒にいるんじゃないかってことなのよ。でも今離れてるってことはソルだけ離れたか……でなければ、みんなバラバラになったんじゃないかしら」
彼女の言う通り、ルナが今もリリアと一緒にいるとは限らない。それに、一度魔界に戻りまた召喚され記憶も失っていたのだから、ソルがリリアらのもとを離れたのも相当な理由があるはずだ。
「実は物凄く険悪になってて、一緒にいると追い払われたりしないでしょうね……」
「ソルさまに限ってそれは……オーロラさんともこうしているわけで。でもまあ、何者かの罠というのは有り得ますかね」
「ソロモン先生の偽物もいたことだし」
レジーナがことばを挟む。アネッサにかつて現われたという、ソロモンという名の白衣の医師の正体は、結局不明のままだった。
「そうですね。一体何者なのか……他人の空似ということもないでしょうし、見つけたらこらしめてやらなければ」
金縁眼鏡の奥の目が決意を示すように光る。
カップを空にしたレジーナが幼馴染みを振り返ったときにも雨は降り続いており、周囲の暗さはますます夜に近づいていた。
木の幹の裏に身を潜め、女は息を殺す。長槍の柄を握る手に力が入る。
すでに戦場は静まり返りつつある。周囲の地面には多くの帝国兵が転がっており呻きを上げる者もいるが、彼女のもとまでは届かず、むしろ音より臭いが彼女のもとに迫り、それを意識の外に追いやるのに苦労するありさまだ。
見える範囲内には仲間らしい姿はない。すでに敵は撤退したのかもしれないが、見張りからの合図の鐘はまだなかった。丘の端まで進んで様子をうかがいたいと一瞬思う。しかし不用意な動きは命を縮める。もう少し耳を澄まそうとこらえる。
女の、エプロンに似た革の防具付きのワンピースのスカートは端がほつれて汚れていたが、身体には傷ひとつ負ってはいない。
土埃も落ち着き、さらに静けさが増したところで行動を開始する。身を屈めながら、まばらに生えた低木や草むら、そして倒れている鎧姿を避けて駆ける。
丘の端にもいくつか、盾代わりになる木々が生えている。そのうちのひとつを目ざした。
しかし、もうすぐというところで。
ヒュッ!
風を切る音が耳に届き、反射的に槍を振るう。柄に弾かれたのは並ぶ木のなかの一本から飛来した矢だ。枝のどこかに潜んでいたらしい。
さらに、茂みから飛び出す鎧姿がふたつ。
待ち伏せされていた――そう気がつくと、彼女は背を向け走り出す。腰を落としなるべく障害物の裏を抜ける彼女の頭上、団子状にまとめたくすんだ金髪を、擦るように飛んだ矢が数本散らす。
帝国兵たちの足は速くはないが、どこまででも逃げられるという自信はなかった。これまでの戦いで女も体力を消耗しており、待ち伏せていた兵士たちの方はそれほど疲れていないかもしれない。
迎え撃つために、彼女は低木が二本並んだその間を選ぶ。
間合いの長さこそ彼女の唯一の優位点と言えた。木と木の間に入るなり身を反転させ、追いすがる兵士の近い方へ向け矛先を突き出す。
「ぐおっ!」
刺しつらぬいたのは手のひらだ。身体の大部分は硬い金属鎧に守られていても、剣の柄を握るそこはせいぜい革手袋だ。相手は剣を落としうずくまる。
もう一人が一気に間を詰め剣先を突き出そうとするが、女は寸前で木々の間を抜け裏に飛び込む。
兵士は木々の間を抜けられず、横から迂回する。その隙に女は槍をかまえ直して体勢を立て直して迎え撃つつもりだった。
しかし、かまえようとした槍の柄に矢が当たる。
鋭い視線で射線を辿る。低木の向こう、茂みの裏でボウガンの狙いを定める銀色の鎧姿がのぞく。
どうやら弓兵も気配を隠しながら追ってきていたらしい。女は眼前に迫る帝国兵を目を見開いて睨む。後悔している時間はない。せめて一撃を受け止めようと槍の柄を両手で強く握りしめる。
「そりゃあ!」
兵士が気合の声を上げ、力をのせた剣を振り下ろす。
しかし、予想した衝撃は女の手に伝わってはこない。
剣先が下りきる前に兵士の動きが止まる。ほんの一瞬だが、銀の鎧の上を青白い火花が跳ね回った。
一拍の間静止すると、兵士は剣を落とし崩れるように倒れこむ。
「帝国の者ではないな?」
唐突な声に女は槍をかまえるが、いつの間にか茂みの横に現われていた姿を目の前にして戸惑う。黒尽くめに不気味な紋様の刺繍が入った帽子やコートを着込む姿はあきらかに帝国の者ではないが、周囲の町の者でもない。
それに、その不気味な出で立ちと反比例するように顔立ちは整っている。
「あなたは……」
尋ねようとした彼女の脳裏に魔術師という存在が浮かぶ。刺繍もそうだが、黒尽くめの片方の頬に浮かぶ模様も魔法的なものに思えた。先ほどの青白い火花は魔法によるものではないだろうか。
ことばを続ける前に、少し離れたところにある丈の長い草がざわめく。
警戒したのは一瞬だ。現われたのは帝国軍とはかけ離れた姿である。一組の少年少女。
「ソルさま、向こうの小屋に怪我人が集められてて、ソロモン先生が治療に当たっています。亡くなった人もいるみたいですが……」
少年は血生臭い空気に顔をしかめながら黒尽くめに声をかける。
「もう帝国軍はみんな退却したみたいだし、わたしは見張りに伝えてくるわね」
茶色の髪を高い位置で縛った少女が、見張りのいる方向へ駆けていく。少年は声をかけた相手に近寄ろうとして、ようやく女の存在に気がついた。
「その人は……?」
「あたしはメイベル。あんたたち、帝国の者じゃないのはわかるけど何者だい?」
敵ではない。そう察知して、女は槍の先を下ろす。
「わたしたちは旅の者だ。怪しい者じゃない。いや、わたしの姿は怪しく見えるかもしれないが……」
話している途中で自分の外見に思い至ったらしく、黒尽くめは困ったように頭を掻く。その横から少年が話を引き取った。
「僕はヒューと言います。妹や幼馴染みたちと一緒にハッシュカルで暮らしていましたが、今は惑いの森に避難しています。こちらのソルさまは……護衛みたいなものです」
「ああ、ハッシュカルの……」
ハッシュカルに起きたことは、大陸の南方のこの国にも知れ渡っているらしい。近くの町が占拠されこうしてそこからの軍隊との戦いが繰り返されているとあれば、ニールセンドの人々にとっては他人事ではない。
「戦場がここまでニールセンドに近づいているとは思わなかったな」
「最近、戦力が足りてなくてね……あちらさんの力の入れようが変わったのもあるけど。とはいえ、四ヶ月前よりはマシだけどね」
四ヶ月ほど前にも一度、ニールセンドは帝国の襲撃を受けていた。そのときには圧倒的に足りない戦力を補うために子どもたち、特に身寄りのない子どもたちを少年兵として使おうという意見すら出ていた。
「随分と卑怯なことを言う大人もいるものだな」
ソルは話を聞くと、嫌悪感を隠し切れず言う。
それを見てメイベルは警戒を完全に解いた。しかしことばを続ける前に鐘の音が響く。戦いの終わりを告げる鐘だ。
「これでやっと、この地獄絵図から離れられるわ」
そう言ってからやっと、彼女は今意識した様子で周囲の血生臭さに顔をしかめた。
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