第15話 再びまみえるもの、戻らぬもの
どこか遠くから響くような、笑いを含む呼び声。
そのかすかな声に彼は目を覚ました。正面に笑顔で覗き込む少年の姿が映る。
「なんだ、惜しいなあ。起きなかったらその顔の模様を増やしてやろうと思ったのに」
右手に羽根ペンを持った白髪の少年の向こうには、四人の姿が見える。その中の、少年が身に着けているものに似た白い法衣を身に着け錫杖を手にした少女がほほ笑みを向けた。
「お疲れなのでは。ずいぶん熟睡されてましたけど」
「ああ……夢を見ていた」
寄りかかっていた木の根もとから立ち上がり、彼は独り言のように言う。
「なんだか、のどかな夢だったな」
「今も充分、のどかだと思いますけどね」
周囲は青空の下の丘の景色だ。草木が生い茂りところどころには花も咲き、蝶々も飛んでいる。丘の下には近くの村の畑が広がっていた。
確かにそれは、のどかな景色と表現できるものだ。少なくとも外観上は。
「たぶん、景色じゃなくて心持ちの話なんじゃないかしら?」
そう指摘したのは、丘の下の景色を眺めていた少女。
振り返ると銀髪が風になびく。顔は陰になりよく見えないが、わずかにのぞく口もとは笑っているようだった。
「のどかな気持ちで、明日、世界が無くなるかもしれない、なんて心配をしなくてもいい心持で毎日を過ごせるなら、それは幸せなことかも」
「リリアは真面目だなあ」
少年がからかうように言うと、少女は照れたような笑みを口もとに浮かべ、顔をそむける。
「でも、その通りだろう。昔はのどかなのが当たり前だったんだろうからな」
黒い法衣に黒目黒髪の若い女が、対になるような白い法衣の少年をたしなめる。少年はつまらなそうに口を尖らせた。
その様子に、銀色の鎧の青年がほほ笑む。
「まあまあ。のどかな気分で過ごせるのが当たり前だった時代に戻せるよう頑張ろう。なあ、ソル」
手甲に覆われた手が差し出され、魔族はその手を取ろうとした。
途端、世界は暗転する。
急に足もとの地面が消えたようで彼は戸惑うが、すぐにより確かな感触が戻ってくる。背中側に感じる草の絨毯と、肩にかかる手。
「大丈夫ですか、ソルさま?」
呼ばれて目を開け、眩しさに一度目を伏せてから彼は口を開いた。
「ああ……って、なにが」
意識がはっきりしてくるにつれ、昼寝していたことを思い出した魔族は少し不思議そうに医師の顔を見上げた。
「いや、少しうなされていたようですから」
「この世界に来てたからたまに妙な夢を見る。べつに悪い夢じゃなさそうだが……」
身を起こして目を擦る彼の前に、ソロモンとヒューが腰を屈めて覗き込むようにしていた。
「なにかあったのか?」
「バサールさまが皆で来てほしいと、店の客席の方でお待ちでして」
「いい報せだといいな」
そろそろ空は夕焼けに染まろうという頃だ。三人は立ち上がり、兄妹の祖父が運営する店の客席に向かう。
客席には何組かの客の姿があった。人間たちの方が多いが、一緒に談笑しているアヴルや小妖精もいた。夕食時にはまだ早いが、ここは森の住人たちの憩いの場になっているようだ。
客席の端のテーブルに白い髪と髭にまみれた魔術師が座っていた。その目の前のテーブルには煌びやかな冠と尾羽を持つ鳥が大人しく留まっている。
「ああ、来たな」
呼び出した者たちを迎えたその手には、折り畳まれた茶色の紙がいくつか握られていた。
「一応、知人の召喚士三名への紹介状を書いておいたぞ。とはいえ、彼らは定住しておらず行先は不明だ。旅先で見つけたときにでも渡すくらいだな」
なんとも運次第という話だ。それでも偶然出会える可能性がないとは言い切れず、ヒューが受け取っておくことにする。
「それと、一応、魔力石や魔法石について調べたがの。この大陸のものは帝国がかき集めているようだぞ」
「戦力増強のため? じゃあ、他の大陸の方が手に入りやすいのかしら」
「ああ、探すなら他の大陸や島だな。どこか奥地の遺跡や洞窟などにはあるかもしれないが、それよりはまだ大陸の外で探す方が危険は薄い。遺跡を探すにしてもだ」
魔力石には、魔力の泉と呼ばれる場所に自然発生するものもある。中には邪悪な力を帯びた魔力を秘め、持ち主に不幸をもたらしたといういわくつきのものもあるが。
「大陸の外か……出たことないわね」
兄妹と異世界からの者たちも、レジーナと同様だ。一部の職業の者を除き、このサニファー大陸の者の大半は一生大陸を出る機会なく終わる。
以前の話を聞いた限りでは、クラリスも大陸を出たことはないはずだ。
「わたしは一度、小さな島へ行ったことがありますね」
唯一そう口にしたのはソロモンだ。
「大陸から大した離れていない小さな島ですけど。古い遺跡があって、波のない日にはすぐ渡れるとかで」
「古い遺跡……?」
聖霊が食いつくと、金縁眼鏡の医師はすぐに首を振った。
「残念ながら、すでに発掘は終わっていたようです」
「なんだ……」
「手ごろな遺跡は調べてある。情報が古い可能性はあるけどな」
ソルはユーグの図書館でも有力そうな情報を調べて記録していた。バサールも情報の確認のため使いを出してやるという。
「ありがとうございます、バサールさん」
「いや。また旅に出るんだろう、忙しない者たちだ。今夜は温泉にでも入ってゆっくり休むんだな」
見送られながら、バサールは鳥を肩にのせて森の奥へと姿を消す。どこかに乗り物となる亀でも待たせているのだろう。
温泉については、もう皆も把握していた。森の中にも自然の温泉が湧き出ており、そのひとつをオズマらが整備してくれたのだ。囲いや更衣室代わりの空間も作られている。
種族と性別で入浴時間が分けられており、聖霊や魔族は一応、〈その他の種族〉に分別されていた。
「その他なんてあたしたち以外にいるのかしらね」
「わたしは他にいない方が都合がいいが」
「一人寂しく……」
と言いかけて、聖霊は手を打つ。
「一人なんだから、温泉に入りながら一杯、ってのもいいわね。できれば月見酒といきたいところだったけど、時間帯が早めだから仕方がないわ」
いいですねえ、と同意するソロモンの一方、ソルやレジーナは少しあきれた表情。
「酔っぱらって温泉で溺れないでね」
「まあ、明日は早いので早めに寝られるなら……」
「ああ、そうそう」
温泉に足を向けかけ、聖霊は振り返る。
「自習、忘れないでね。ヒュー」
少年の笑顔が凍る。
「は、はい」
そう返事はするものの、彼にとって術を使うための訓練は、雲をつかむようなことにしか思えなかった。魔力を高めるための瞑想、集中力を鍛えるために石や木の枝を積む、水面に波を起こそうと念じるなど。
なにより、いくらやっても上達している実感というものがない。聖霊の背中を見送り、彼は魔族に目を向ける。
「ソルさまは術を使う練習はしたんですか? 魔力を高める訓練とか」
「魔族は魔力の塊のようなものだぞ……自前の魔力は成長しない。術を使う練習はしたが、程度はともかく、最初から術の効力の発現はできたからな」
予想はしていたが、一から置かれている状況が違い過ぎた。魔力の消失しているヒューには参考にならない。
「では……ソロモンさんは?」
治癒の術を使う場面しか見ていないが、医師も術師だったことを思い出し、少年はそちらに水を向ける。
「最初は自分の怪我で試してみましたねえ。いや、わざと怪我をしたわけじゃないんですが、ちょっとした擦り傷やささくれを治せるかどうか、何度か念じているうちにコツをつかんだというか」
「なるほど……」
使いながら学ぶ。まず、それはヒューには無理な話だ。
あきらめかけたとき、レジーナが口を開く。
「要するに、ヒューは今やっている術の訓練がつまらないのね。なにかやりがいが欲しいんでしょ?」
「まあ……成功してるのか失敗してるのか、上達しているのかどうかもわからないのは……」
「それなら、バサールさんに魔力石を借りたらどう?」
バサールの持つ魔力石は実用に足りないものばかりで、召喚魔法などに使えるものではない――そう聞いていたが、術の訓練に使う程度なら申し分ないだろう。
「いい考えじゃないか。後で遺跡の情報について話し合うときに言っておこう」
「ありがとうございます、お願いします」
ソルのことばにヒューは心から言った。
ただの徒労に思える訓練は苦痛で術に対しても興味が持てなかったが、本当に自分で術が使えるようになるのなら、楽しみで仕方がない。
「お兄ちゃん、一緒に頑張ろうね!」
ララは兄の真似をして術の訓練をしていた。
もちろん血のつながった兄妹なので、ララにも召喚士の血は流れている。そして兄とは違い妹は魔力を失ってはいない。
「うん、ララならすぐに上達するよ」
――うかうかしてたら、ララは僕なんか追い越して凄い召喚士になっちゃうかもな。
妹に返事をしながら危機感を覚え、彼は兄の沽券にかけて負けないようにしなければ、と秘かに誓っていた。
一台の小さな荷馬車が街の中心部を離れ、薄暗い路地裏へ吸い込まれていく。その先自体に用事の無い者は決して通過しないような道だ。
馬車の荷台には布がかけられ、年老いた馬の手綱を小柄な老人が握っている。
路地はやがて大きな木製の扉の前で途切れる。扉の横にはボロ布のような汚らしい服を着た髭だらけの顔の男がうずくまっていた。
御者は馬車を止め、男に声をかける。
「新鮮な薬草を採ってきた」
その短いことばで男は顔を上げて立ち上がる。
「積み荷を確かめさせてもらう」
御者は無言でうなずく。男は荷台に近づくと、慎重に布の端を少しめくって覗いた。周りに中身が見られないように。
用事が済むと、丁寧に布を戻す。
「了解した。扉を開こう」
宣言すると、男は何度か、間を空けながら扉を叩く。その扉は内側からしか開かない仕組みのようだ。十回以上叩いてようやく、扉が小さく開かれる。一瞬目が覗き、間もなく大きく開かれた。黒い布を頭から足もとまで被った人物が手招いて馬車を迎え入れ、素早く扉を閉めて鍵を掛ける。
内部はもともとは倉庫のようで広く、奥は燭台とカンテラに照らされて明るくなっていた。そこに輪を描くように数十人に及ぶだろう人々が座っている。
その中のある人物が立ち上がる。長い金髪をまとめて頭に巻き付けたスカーフに隠し、茶色の地味な服とケープをまとった若い女。しかしその水色の目はどこか地元の娘たちとは違う、強い意志と覚悟をたたえていた。
御者はそれを確認すると馬車を降り、荷台にかかっていた布を取り払う。
布の下に現われたのは、膝をついて身を屈めた金髪碧眼の青年。簡単な革の鎧とも呼べないような防具を身に着け、腰には短剣を吊るしている。
彼は身軽な動作で荷台から飛び降り、女に歩み寄った。相手の姿がはっきり見えるにつれ、顔にはほほ笑みが浮かぶ。
「姫。ルイス・ジェラルド、参上いたしました」
青年が跪くと、女も笑う。
「ようこそ、わたしたちの拠点へ。でも、ここではその呼び方ではダメよ。わたしのことはメリーと呼んで」
言って、彼女は手を差し出す。
青年は相手の手を取ろうとして、慌てて革の手袋をしていることに気がつき、それを取って慎重に細い手を握る。無骨な手の中指に、やや場違いな青い石の飾られた指輪が輝いていた。
「姫……じゃなくて、メリーさま。お招き感謝します」
硬さの抜けない口調にメリーは苦笑する。
「メリーさん、じゃないと怪しまれるわよ」
「そんな、めっそうも……周りに誰かがいるときには変えますから、どうか今は」
「相変わらずね、ジェラルド。あなたも、ここに来るときには別の名前を名のった方がいいわ。わたしがつけてあげる……そうね、ジェル、がわかりやすいわね」
いたずらっぽく言う彼女の名づけを、青年は素直に受け入れる。
「さあ、長居すると怪しまれるかもしれないわ。早く情報交換しましょう」
メリーが戻っていく人の輪の中央部には、何枚かの地図や建物の図面のようなもの、どこかの見取り図などが広げられている。
中心にに向かいながら、ジェラルドは懐から折り畳んだ紙を取り出した。そこには軍の関連施設や都の要所の警備状況が書かれている。
周囲の者たちの中には、まだ若い軍人を信用していない者もいた。しかし議論が進むにつれ熱意を共有し、新顔も徐々に溶け込んでいく。
ジャリス帝国の都の片隅、静かな工業地帯の一軒の倉庫の内部で、秘かに国の行く末を想う者たちの心は燃え上がっていた。
二台の馬車が緩やかな坂道を下っていく。
馬車の一台は幌付きの大型で、もう一方は荷馬車を改造したもののようだ。晴れて日差しが強いため、荷台の者たちは布や帽子を被っている。
「まったく、ずっと天気がいいってのも考えものね」
聖霊は金髪の上に厚手の布を被っていた。そうして布の端を顎の下で縛っているさまは、どこか外見と似つかわしくない雰囲気だ。
彼女は布で汗を拭き、となりで涼しい顔をしている魔族を覗き込む。
もともと彼の帽子はそれほど日光を遮るものではないと見えるが、魔族は汗ひとつかかず暑そうな素振りを見せることもなく、長い移動時間を幸いに本を読んでいた。日焼けもしないらしく、その肌は変わらず白く滑らかだ。
「まったく……うらやましい」
恨みがましい視線を向けられても、魔族はどこ吹く風だ。
そのやり取りを眺めながら、ヒューはポケットの中に手を入れ、まだ慣れない石のような感触の球体を転がしていた。
バサールに貸してもらった魔力石は非常に力の弱いもので、大魔術師が持っていたところでなんの役に立つのか、という代物だが、魔力を自分で操ることができているのかを確かめるくらいのことはできた。
初めて自分の意志でカップの水面に波を起こせたときには、今までの徒労感もあって喜びも一入だったが、一度使うだけで魔力石に蓄積された魔力はなくなり空になってしまうため、そのたびにソルやオーロラに魔力を込めなおしてもらわなければならない。
なかなか手のかかるものだ。ヒューは魔力石を使うのは、ある程度上達したと思ったときにしようと決めた。
「ほら、見えてきたよ」
妹の声で我に返り、前方を見る。
地平線の向こうに建物の屋根らしきものが見えてきている。そこを去ったときからなんら変わっていない様子だ。
シルベーニュに立ち寄る際にたびたび情報を集めていたが、その内容によるとエルレンはまだ襲撃を受けてはいないようだ。幌馬車の方にはエルレンの代表たちも乗っている。
馬車はエルレンに辿り着くと、そこに残る者を置いてハッシュカルに向かうことになっていた。
「本当に、護衛をつけなくて大丈夫なの?」
レジーナが少し心配そうに問う。
一応、怪我人が出たときのためにクラリスが一緒に残ることになってはいたものの、あとはエーノンを含むエルレンの住人が四人だけだ。
「ああ、心配いらない。おかげさまで避難したときに必要な物は大体持ち出せたし、忘れ物を取りに来たくらいだよ。今更、帝国軍が奇襲をかけてくるとも思えないし」
エーノンのことば通り、帝国がわざわざ時間や労力を割いてまでエルレンを攻め落とそうとするとは思われない。
そして帝国軍がエルレンを攻めるなら、それはこれからヒューたちの向かうハッシュカル側から進軍するだろう。
「では、気をつけて」
「そちらも」
そろそろ夕方にさしかかろうという時間だ。ハッシュカルに到着する頃には陽も落ちているだろう。馬車は早々にエルレンを出発する。
もう見慣れた丘の道に、ヒューは少し奇妙な感覚を抱く。
もう二度とここを通ることはないかもしれない――炎上したハッシュカルを後にしてここを抜けてきたときには、そう思っていた。それがこれほど早く戻ることになるとは、どこか現実感がない。
幼馴染みもまた、同じことを感じたようだ。
「もう非日常の存在みたいに思っていたのに、ちょっと不思議ね。厳しい現実を見せられるんだろうけど」
非日常だと思っていたことがはっきりと日常とつながる。それは残酷なことでもある。今度こそ、先に大人が入ってからにするぞ――とソルが主張したことに誰も異論を挟まなかった。
ハッシュカルが襲撃されてから二〇日近く経っている。もし放置されているのなら、遺体も腐敗が進んでいるだろう。事前情報によれば帝国軍が占拠している様子はないらしいものの、偵察が入っていて危険な可能性もある。
陽が落ち、馬車上で夕食を終えて間もなく馬車は丘を離れ、前方に廃墟と化した街並みが見えてくる。すでに大部分が夜色に染まった空は満天の星々が輝き、地上の光景とは不釣り合いだ。
街並みは黒くすすけ残骸の山が大半のようだが、崩れかけているものの辛うじて建っている建物、奇跡的に無傷に近い建物も見えた。
――できれば、家は無事であってほしい。
すぐに打ち砕かれるだろう、はかない希望だ。頭ではそう理解していても、ヒューは感情では願わずはいられない。おそらく妹も。
レジーナは孤児院の方を少し気にしたが、瓦礫ばかりが目に映るので半ばあきらめているのか、なにも口には出さなかった。
やがて街並みが近づくと、手前に揺らめく明かりが見えてくる。さらに大きくなってくると三人の男たちが焚火を囲んで座っているのがわかった。
「帝国兵には見えないな……生き残りか?」
「ずっとここで暮らせはしないでしょうけれども」
一応警戒はするものの、男たちは武装してはいない。それに、ある程度近づくと向こうも馬車に気がついた素振りを見せるが、特に逃げる様子も迎え撃つ準備をする様子もない。
やがて、顔が見えるまで近づく。年代もさまざまと見える男三人だ。
「こんばんは。おじさんたち、ハッシュカルの生き残りなの?」
馬車が止まると、レジーナが声をかける。
すると、黒い口髭の男が応じた。
「いや、オレはそうだけど、この二人はペルメールの人なんだ。キミたちは……その顔ぶれだと偶然通りかかったわけではなさそうだね」
少し眠たげな幼い少女がいるのを見て、男は顔色を変える。
男は名をイリオと名のり、襲撃時にはペルメールに仕事で出張していたから助かったのだと説明する。彼は妻と両親の行方を尋ねてきたが、兄妹もレジーナも知らない名だ。
イリオは落胆するが、惑いの森の避難民のことを聞くと表情を明るくする。
「惑いの森か。遠いけど安全そうだね。きっとそこで生きてると信じるよ」
ヒューにはそれもはかない希望に思える。もしかしたらいらない希望を持たせてしまったのかもしれないが、伝えないわけにもいかない。
帰りに森まで乗せて行こうか、と提案するが、イリオは自分の当番が終わってから自力で向かうと言う。ハッシュカルが襲撃されて三日目から、ペルメールから調査隊が送られ、今はそこにイリオのように難を逃れた元住人も十数名加わっているという。
「遺体も見つけられたものは葬ったよ。ここから少し離れたところに墓を作ってあるよ」
「では、それは明日に見学させていただきましょう。この暗さの中では捜索もはかどらないでしょうし、まだ話したいこともあるでしょうから」
ソロモンのことばに誰も異論はなく、皆は馬車を降り焚火を囲む輪に加わった。御者が馬の世話をしている間にヒューはハーブティーを準備し、イリオたちにも振る舞う。暖かくほのかに甘い茶を口にすると、疲れも薄れほっとする。
それも束の間、ヒューはどうしても尋ねたいことがあった。
――果たして、店はどうなったのか?
しかしそれを問われたイリオは首をかしげる。彼が住み生活していた範囲は、ヒューたちの生活圏と離れていた。小さな町ではあるが、思ったより住民の環境は多様だったらしい。
店の辺りはすでに調査隊の捜索の手が入っているが、イリオも他の二人もどのような建物が無事だったのかは覚えていないという。
「気になるなら見に行ってみようか? それくらいなら夜のうちにも可能だろう」
「本当ですか。それなら……」
少年はソルのことばに飛びついた。ここまで来ておいて、一晩待つというのは眠れそうにもない。すがる思いで即座に立ち上がる。
「大丈夫なの?」
「建物の状態を確認するだけだ。調査隊が入ったということは、そこまでの間に見てはいけないようなものを見る可能性も低いだろうね」
聖霊に答え、ソルも立ち上がり焚火に軽く手を伸ばす。炎の中から拳大の火球が飛び出し、頭上へ浮き上がって周囲を照らした。
イリオたちはその光景に目をむくが、やがては魔法の存在を思い出したらしい。
「仕方ないわね。ちょっと行ってきますか」
「まあ、寝るにもまだ早過ぎますし」
オーロラとソロモンも立ち上がる。ララとレジーナはすでにヒューの両脇へ集まっていた。
「道もだいぶ掃除はしたけど、気をつけてな」
「ええ、ありがとうございます。すぐ戻ります」
イリオたちに見送られ、七人は町だった場所へと足を踏み入れていく。
黒く焦げた瓦礫が目についた。確かにある程度掃除はされたらしく、通りの中央部は障害物が左右に押し付けられた様子で空いている。
燃え尽きたような家の跡、瓦礫の山がほとんどだが、壁の一部が残ったもの、半壊しているが建ってはいるものも両脇に点在していた。遠くにはほとんど無傷に見える建物の姿もある。
見晴らしがいいため、目的地が遠いうちから見覚えのある建物が視界に入る。どうやら瓦礫の山や消し炭になるのは免れたようだ。
「お店があるよ、お兄ちゃん」
「うん。完全に無事だといいんだけど」
近づいても、店は変わっていない様子に見えた。周りは焦げて壁の一部が残っていたり、半壊して崩れかけている。それに比べれば綺麗過ぎるほどだ。
「よくぞ無事だったわね」
目の前にして、オーロラが少し驚いたような声を出す。
「いや、完全に無事とはいかなそうだ」
ソルが、正面から横を覗き込む。ヒューもその背後から店の横の壁を見ると一面が黒く焦げ付き、ひび割れて穴も開いていた。
「ああ、ここの壁は取り替えないとダメでしょうね」
「でも、この状況を見ると建っているだけでも奇跡でしょう。内部も見てみましょうか?」
ソロモンはこの店を訪れるのは初めてのためか、内部にも興味を持ったようだ。
「崩れてくる危険はあるが、慎重に行けば大丈夫だろう」
ソルが軽く壁を叩くが、特に震動でどこかが軋むでもない。
それを確認すると、彼はドアの取っ手を回す。ガチャリと音がして、特に障害もなく入り口が開かれる。
火球が先に入れられ、内部を照らす。だが、その前に一部が照らされていた。二階のない部分の天井の真ん中が崩れ、大きめの穴が開いている。
「雨風が入らないよう、明日にはなにか掛けておいた方がいいかも。下になにもなかったのは幸いだけどね」
と、聖霊が歩み寄ったのはカウンター裏の酒瓶の入った棚だ。その様子にヒューは苦笑してしまう。
「相変わらずお酒好きですね、オーロラさんは」
「だって、もったいないじゃない。ここにあっても悪くなって飲めなくなるか、誰かに盗まれるかじゃない。持って行った方が喜ばれるでしょう」
「それはそうですが、全部は持って行けなそうですね」
ヒューは祖父にいくつか足りていない調理器具を持って帰るつもりだった。馬車は乗員で一杯で、荷物を載せられる量は限られる。
「箱を使えば大丈夫じゃないかしら。調理器具も無事みたいね」
レジーナが食材仕入れ用の木箱を見つける。その木箱にオーロラが酒瓶を詰めている間に、ヒューとララは必要な調理器具を選び出していた。
「運ぶのは明日でいいだろう。簡単に持てる物なら今でもいいが……わたしは二階が見たい」
階段が無事なのを確かめていたソルが声をかける。
「あんた、本が気になるんでしょ。その中から今夜の暇潰しを選びたいんじゃないの」
「それもある。でも遺跡についての現場の資料は貴重だろう。流通している本にはない情報が記載されているかもしれない」
それは筋の通る話だ、と思うと同時にヒューは思い出す。父の調査書のいくつかは本棚ではなく、自分の机の引き出しに入っている。
「二階へ行きましょう。僕らも自室も見たいし」
「ララも、お部屋に行きたい」
兄も妹も同調する。
この二〇日近く、ハッシュカル出身者はほぼ同じ服を着続けている。宿では寝間着を借りてその間に洗濯し、下着くらいは替えを購入したものの、手袋もかなりほつれてきている。
それ以上に、ヒューはララが不憫だった。異世界の住人たちは、服も普通のものとは違うらしくほとんど汚れないが。
「できれば、鞄があると嬉しいわね」
レジーナがそう提案する。彼女は荷物をクラリスに預けたり、いつも持ち歩いている小袋に入れていた。しかし持ち運べる量は少ない。彼女が鞄を持てば、ヒューやソロモン、クラリスの荷物の負担も減る。
「それなら、父さんのがあるんじゃないかな。ちょっと古いけど」
オーロラを残し、六人で二階に上る。カンテラの油を節約したいので、魔法の照明を操るソルとともに、最初に兄妹の部屋を巡る。
ララの部屋ではレジーナが手伝い、着替えとララが大事にしていた小箱に集めた花柄のボタンを持っていく。
ヒューは自室で壁にかけていた父のリュックサックと新しい手袋、厚手の上着や帽子を含む服、そして引き出しの遺跡調査書二冊を回収した。日付を見ると、新しめのもののようだ。
「これは本になってなさそうだな。図書館でも見た覚えのない遺跡の地名だ」
「役に立つといいんですが。書斎の方も調べてみましょう」
階段のある書斎に戻り、並ぶ本を全員で眺め始める。ソルは遺跡に関連しそうな本を探し、ヒューは召喚魔法についての本を探した。一方、ソロモンは一冊の本を手に取る。
「ヒューさんとララさんのご両親は色々なところを旅していたようですね」
本の表題は〈各大陸の文化〉というものだ。
「ええ、他の大陸や島にもたまに調査に行っていましたし」
両親は留守がちで、祖父母と過ごすことの多かった兄妹は寂しい思いをすることもあったが、帰ってきた両親が話してくれる土産話が大好きだった。もったいないと感じても今となっては内容はほとんど覚えていないが、無理のないことだ。
「大陸を離れる可能性がありますし、この本はお借りしましょう。他にも気になる本はありますが、大量には持って行けませんね」
ソルが十冊以上の本を積んだのを見て、医師は眼鏡の奥で苦笑する。
「こうして無事だったんだから、ここにもまた訪れる機会はあるはず。いや、いつかは戻れるわよ」
「そうだね。この部屋も無事で良かった。ここは、ソルさまとオーロラさんを召喚した場所だし」
「ああ……召喚した場所じゃないと返せない可能性というのもあるか」
幼馴染同士の話に、視界が塞がれると顔をしかめながら、本を抱えてソルが口を挟む。
「そうではなくて、なんとなく思い出の場所みたいで」
少年のことばに、魔族は笑った。
「なんだ、そんなことか。べつに、ここがなくなっても思い出は消えたりしないだろう?」
「思い出したい内容なら、そうでしょうね」
下で酒瓶を詰め終えたのか、オーロラが階段を上ってきたところだ。彼女はソルが抱える本の山を見ると、その上から数冊を取る。
「元の世界に戻るには必要なことだし、仕方ないわね。終わったなら出るわよ」
肩をすくめ、すぐに階段を引き返す。
ここに初めて来たときと比べ、聖霊と魔族の関係性も少しは変わった――かもしれない、とヒューは思う。気のせいかもしれないが。
木箱を運ぶのは明日にして、ヒューとレジーナが調理器具を持ち、店の外に出る。空はすっかり闇に染まり、その中に星々が瞬いている。
店の前でソルは一旦足を止めた。
そのとなりでヒューは思い出す。燃え盛る炎に囲まれたあの日。ここには帝国兵たちがいて祖父は斬られソルは撃たれたのだ。
同じ光景を聖霊も思い出したらしい。
「なに、嫌なことでも思い出したの?」
「星を見ていただけだけど、嫌なこと?」
ソルは言われて気がついたように、視線を地上に戻して見回した。
「ああ……まさか。何度も、ではないけれどあれくらい初めてでもない。それに精霊の話だと魂はこの世界にないらしいしな」
「帰るときは一瞬後なんでしょう。意識だけ召喚されて、仮の身体を与えられているのかもしれないわね」
「身体能力が変化していることを考えると、そういうものかもしれないな」
抱えた本の重さを確かめるように上下に揺らし、魔族は同意した。少なくとも、元の能力の身体のままこの世界に移動したのではないのは確かなようだ。
あまり遅いとイリオが心配するかもしれないが、ヒューは気にかかることがあった。
「レジーナは見たいところはないのかい? 家とか」
レジーナは長らく空き家だった小さな家を借りて住んでいた。
「行っても、特に持って行きたい私物もないね」
言って振り返る少女の目には家ではなく、孤児院の方へ向く。そちらは炎の回りが激しかったのか、ほとんどが炭化した木材の山になっており、形の残っている建物は少ない。
「まあ、明日の昼間もあるし、今夜のうちにすべてやらなくても大丈夫でしょ」
荷物も早く置きたいし、という思い入れで聖霊が言うのに、他の皆も異論はない。
イリオたちのもとに戻り馬車に荷物を置くと、ソルとソロモンは遅くまで本に書かれた遺跡についての情報を調べ、ヒューは聖霊にきっちりと術の訓練を受けていた。
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