第22話 異質と異質の戦い
木々の間に、石を積み上げた壁がのぞいている。その一部は崩れ、焼け焦げたような跡もこびりついていた。壁の向こうの草原にも草が焦げて土がえぐられたような部分が見えて、今までここで繰り返された戦いの一端を物語る。
そして、草原の稜線から這うようにして近づく塊のような群れが、黒々として見えた。近づくにつれ陽を照り返す銀色のはっきりする、黒馬に牽かれた戦車の多い軍隊だ。歩兵、騎士、弓兵、数名の魔術師らしい黒いローブも見える。
「魔法や矢でこちらの動きを止め、騎士たちが攻撃を引き付けているうちに歩兵が壁を超えるというのが、いつもの戦術だ」
薄茶色の髪を一本に束ねたアヴルの青年が説明する。彼はここの妖精たちの集落の族長であり、名をジュグムという。
「しかし、あれは壁対策に見えるが……」
とソルが示したのは、戦車に載せられた大きな杭のようなものだ。先端は鋭く削られ、いかにも先に力を集中させるつくりになっている。
アヴルの青年は切れ長の目をさらに細めた。
「あれは初めて見る。敵も少しは本腰を入れてきたようだ」
帝国軍が近づく間に、石柱の森の住人たちは準備と敵の分析を終える。敵は二百数名。森の戦力と比較すれば多いが、大軍ではない。
「みんな、わたしの後ろを離れるなよ」
魔族が振り返るそこにいるのは、ヒュー、レジーナ、オーロラだけだ。医者と助手、それにララは後方で医療班に加わっている。
「べつにあんたの力を当てにする必要はないけど、あたしたちの後ろにも大勢いるからね。背後くらいは守っておいてあげるわ」
オーロラの防御結界の硬さは、今までの旅の中でも充分に証明されていた。それに、背後のアヴル族を初めとする妖精たちにも魔法の使い手は多い。ララの身の安全はある程度保証されそうだ。
それは当然、突破され接近されなければだが。
「後方の防御の出番がない方がいいが、難しいだろうな」
森の住人たちも帝国軍も、すでに矢の狙いをお互いに向けている。
帝国軍は進軍を止めると、騎士の一人が数歩、馬の脚を前にせかして手綱を引く。この一団の指揮官だろう。
「石柱の森の者たちよ、こちらはジャリス帝国のイゴル将軍だ」
紋章の刻まれた甲冑を着込んだ騎士が、声を張り上げる。
「武器を捨て、投降することを勧告する。大人しくすれば悪いようには扱わないし、森に住み続けることも可能だ」
似たようなやり取りは何度もあったのだろう。森の住人たちの答はすでに決まっている。妖精たちは顔色ひとつ変えない。
「この森は、帝国など存在しないはるか昔から我々が自由に暮らしている故郷だ。何度も言っているが、お前たちの支配など受けぬ」
ジュグムの鍛えられた声が響く。
相手側も、これは予想していた返事だったようだ。
「残念だ、血を見ずに終わればそれが一番だったのだが。ならば、力づくでも支配下に入ってもらうまでだ」
仕方なさそうな声色だが、どこか芝居がかっている。お決まりのやり取りなのだ。
将軍が手を挙げると、緊張感が膨れ上がる。
「撃て」
そのことばを合図に。
横殴りの雨のごとく、矢が飛び交い始めた。
ビュッ、という音が幾重にも重なって頭上を過ぎ、ヒューは思わず首をすくめるが、彼の前にはオーロラが使った術により防御結界が張られており、たまに落下してきた矢が近くに至ると見えない壁に跳ね返される。
結界の前にいるソルは木の幹を盾代わりにし、時折、風の魔法で飛来する矢を吹き散らしていた。
魔法を使っているのはソルだけではないが、誰もが炎を使う魔法は発現させなかった。帝国軍も森を火の海にするつもりはないらしい。
矢を通さない甲冑に身をかため、大きな盾を手にした歩兵たちが少しずつ石を積み上げた壁ににじり寄ってくる。アヴル族の弓兵たちが矢を集中させるがほとんど防がれてしまう。
幾人か負傷者を出しながら膠着状態が続く。矢が尽きれば接近戦に変わるだろうが、その前に防御の硬い帝国歩兵たちが壁に近づいていた。森の側は彼らを足止めしたり攻撃を防ぐだけでなく、追い払わなければならない。
近づく歩兵を止めようと魔法攻撃が放たれるが、帝国側の魔術師による防御魔法により遮られる。帝国軍としては急ぐつもりはなく、魔法兵たちは防御に集中していた。
守りを固めながら確実に侵入しようという作戦に見えた。そしてにじり寄ってくる歩兵と騎士たちの背後には、しっかり矢の届かない距離に退避している戦車が横並びで好機を待ちかまえている。
「ラチがあかないな。スクリーバさま、よろしくお願いします」
次々と矢を弓につがえながら、ジュグムが後方に声をかける。森の陣営で前に出ている者には弓の名手が多いが、後ろには魔法の使い手たちが控えている。ジュグムが呼んだのは、その中でも最も熟練の使い手のようだった。
「ああ、準備は万端だ」
進み出てきたのは、灰色の髪と髭を獅子のたてがみのように生やした老魔術師だ。土色の長いローブを着込み、魔法陣が刻まれた平たい円盤を先につけた大きな杖を手にしている。
「あのような連中、一網打尽にしてくれるわ!」
威勢のいいことばに続き、その口から呪文が紡がれ始める。注意を引いたその姿に弓兵たちの矢も集中するが、即座に魔法の使い手たちの防御結界や風の魔法に防がれる。
耳にしたことがあるものとは種類の違うらしい呪文に、ヒューは思わずスクリーバという名の老魔術師を凝視した。その大きな杖の先端の魔法陣に魔力が集中していくのが視える。魔法陣とそこに刻まれた魔法語が白く浮き上がるように輝いていた。
やがて光はあふれんばかりに強くなる。
「盟約に従い我が前に出でよ! 〈フェアリードラゴン〉!」
杖の先の魔法陣から青い大きな爪の先が突き出たかと思うと、一気にそれに続く身体が現われていく。青い鱗と銀の目、クジャクの冠のような飾り羽根を首筋に生やした竜だ。翼は小妖精のようなトンボに似た羽根で、人間の数倍の大きさではあるが、竜の中では小型だった。
――召喚士……!
ヒュー、それに召喚士を求めてここまで来た異界の住人たちも、そのさまに見入る。召喚されたものより召喚した側に。
「ヤツらを追い返すのだ!」
スクリーバの指示に、宙にとどまっていた竜が動き始める。一瞬、驚いた帝国軍の弓兵たちも手を止めていたが、再び矢が滝のように降りそそぐ。近づく巨体に向けて。
だが、人の作った木と石の武器など竜には玩具のようだ。鱗に傷ひとつ付けられぬまま、矢は跳ね返される。
それを気にする様子もなく、チリリ、と鳥の鳴き声か鈴の音にも似た声が流れた。
「なっ……!?」
帝国軍に動揺が広がる。
ピシピシ、と草に覆われた地面に亀裂が走った次の瞬間、それがずれ始めたのだ。亀裂により分断されたある一部は上へ突き出し、あるものは左へ、あるいは右へ――崩れ落ちるものに巻き込まれた歩兵たちも数人いた。
「退避だ、もう少し下がれ!」
将軍が声を上げ、壁へ迫っていた歩兵たちも一目散に凹凸した土塊の山を離れて騎士たちの後ろに回り込む。
すると、今までよりははっきりと、帝国軍の中央部に並ぶ姿が見えた。
不気味な戦車も、空中から睥睨する竜の前では委縮しているかのようだ。竜が鋭い鉤爪を一振りすると、人間の胴より太い杭があっさりと両断されすべての戦車が攻撃力を失う。
「なんという……」
将軍も動きを止め、兜の下の目を見開いた。
「どうやら、あたしの目的のひとつくらいは果たせそうね」
聖霊の目が混乱する帝国軍を見渡したあと、老召喚士の姿に向く。聖霊と魔族にとっては、ようやく訪れていた、待ち望んでいた機会だ。
ヒューは、スクリーバという名に覚えがあるような気がした。召喚士に関わる本だろうか。
その一方、このままトントン拍子に話が進んだら、という想像が脳裏をよぎる。スクリーバが聖霊と魔族を元の世界へ戻す方法を知っていて簡単に協力を得られたとしたら。
そのときは、異世界の住人たちとは別れの時が近づく。いつかは来ると覚悟しているし、家へ帰るのはどんな生き物でも当然のことだと理解はしているが、寂しさと不安があるのは否定できない。
「仕方がない、あれを使う」
将軍の声で、ヒューは我に返る。
すでに勝負は決しつつあるかに見えていた。しかし、将軍の口調は出任せやはったりとは違う色をにじませている。
将軍に従う兵士も、一瞬、竜を目にしたときに浮かべたものに似た怯えの表情を浮かべてから、恐る恐る、馬車のひとつから何かを取り出して戻ってくる。その手に抱えられたものは、土色の一抱えほどの大きさの壺だった。
「火薬を使うつもりじゃないだろうな」
森の側の誰かがつぶやく。
壺に火薬を仕込んだ地雷や時限爆弾が大陸外の戦争や帝国軍による侵攻でも使われたことがある。そのような知識はヒューやレジーナも見聞きしていた。
だが、壺には導火線は見当たらない。ここで地雷を仕掛けるのも悠長な話だ。
兵士が壺を平たな地面の上に置くと、将軍の指示で大きく退避する。
ヒューの目にもほのかに映る。壺の中に踊る魔力。
「打ち砕け!」
当然、スクリーバにも視えたのだろう。
杖が指し示す壺へ降下しながら竜は爪を振るおうとした。
寸前、壺の口を塞ぐ木製の蓋が弾け飛んだ。そのあとから黒いものが現われる。黒い煙が噴き出したのか、とヒューには一瞬見えていた。あるいは、液体の墨が噴き出したのかと。
しかし、それは意外な動きをする。
上へと伸びた黒い筋のひとつが、壺を切り裂かんと接近していた竜の鋭い爪に絡みつく。
ゴリュッ、と奇妙な音がした。
キイイイ、と青い竜が悲鳴を上げる。食い千切られたように爪が途中からなくなっている。
――そんな馬鹿な。
召喚士も、妖精たちもヒューたちも。それだけではない、帝国軍の多くの兵士や騎士たちなども驚き、息をのんで見守る。
「ジュリーの一種……か?」
矢の狙いをつけながら、ジュグムがつぶやく。
粘液に似た魔法生物は、洞窟や遺跡、まれに水辺にも出没する。ヒューはペルメール西の洞窟で出会った生物を思い出した。
ただ、記憶にあるそれよりも目の前の生物は何倍も巨体に膨れ上がる。小型竜を内包できるくらいに。
とっさに矢が放たれ、ソルも火球を撃ち込むが、どちらも黒く滑らかな表面を凹ませることもなく弾かれる。
ボコボコと宙へ噴き上がったそれは、もはや気体でないことはあきらかだ。薄い壁のように身を伸ばしながら、端では不規則に触手に似た細い糸のようなものをウゾウゾと収縮し動かしている。墨に漬かった、端のほつれたボロ布のようにも見える外観。
それが、布では持ちえない確かな意志で逃れようとするフェアリードラゴンを捕まえ、覆い被さるように包み込んだ。
「なんだ、あれは……!」
グシャリ。
大きなものが握り潰されたような音と同時に大きな魔力が霧散するのが、魔法の使い手たちの目に映る。スクリーバもなにが起きたのか理解して目をむく。
驚き戸惑うのは彼だけではないが、黒一色の生物は待ってはくれない。獲物を求め、壁に向かい地面を這い始める。
森の妖精たちはその不気味な光景に息をのみ、矢を放つ手を止めてしまう者も多い。
「みんな、怯むな!」
ジュグムも叱咤の声を上げながら狙いをつけたままの矢を放てずにいる。竜に対してそうであるように、木と石でできた弓矢などあの生物には通用しない。それはもう充分思い知らされている。
むしろ、あの生物に傷をつけることなどできるのか?
差し迫る不安の中、ヒューは思い出したように短剣の柄を握る。魔力を秘めたシャグラの剣なら、あの生物に傷をつけられるかもしれない。
それには接近しなければならないが、それは勇気がいりそうだ――と、少年が壁の向こうへ目をやった瞬間。
黒い筋が牢屋の格子のごとく、何本も視界の上下を結んだ。
唖然と見上げる者が大半だが、ソルが即座に反応する。手にした刀の刃に炎をまとわりつかせ、黒い触手を薙ぎ払う。
どうやら、対抗策がないわけでは無さそうだ――妖精たちが希望を抱いたのは一瞬だった。ボコボコとうごめく黒き生物の表面から伸びた細長い触手が何十本と降りそそぐ。まるで黒い雨のように。
魔法の防御結界も砕ける。無防備な獲物に凶器が突き立てられる。
「退け!」
ソルが触手を斬り払う間に、ヒューとレジーナ、オーロラは木々の奥へと走る。
しかし、隙間なく降りそそぐ黒い雨から逃れられた者はわずかだ。ある者は脚を、ある者は胴をつらぬかれて倒れ伏す。あちこちから悲鳴や苦鳴が上がった。
そのうちのひとつは聞き覚えのあるもの。
「ぐあっ!」
奥へ逃れようとしたところを捉えられたのか、スクリーバが足を取られたように前のめりに倒れる。
あっ、とヒューが口を開く前に、ソルが刀を振るいながら駆けつける。やっと出会えた召喚士を喪うわけにはいかない。
だが片手で絶え間なく降りそそぐ触手の槍をいなしながらでは無理があった。どうにか老魔術師の脇に手を回して持ち上げようとしたとき、黒い筋が黒衣の背中に重なる。
木の幹の陰でヒューが目を見開くと同時に、その脇をなにかが飛び出していく。炎をまとった木の葉の蝶が聖霊の手から放たれた。
「ソルさま!」
覚悟を決め、ヒューはシャグラの剣を抜いて蝶を追うように駆け出す。
幸い黒一色の怪物にも限界はあるらしい。方々に無数の触手を伸ばしきったと見えると一度動きを止め、引き戻し始める。あるいはそれは次の動きの準備かもしれない。
いつまた、気が変わるかもわからない。ヒューは急いでソルへ駆け寄った。そこにレジーナとオーロラも続く。
ソルは地面に手をつき、自分で身を起こしていた。
「大丈夫……これの効能があったようだ」
懐から取り出したのは、見覚えのあるものだ。呪文のようなものが描かれた護符は真っ二つに破れ、端は焼けたように炭化している。
「今のうちに怪我人を奥に。その間にあれをなんとかする」
敵は動きを止めてはいない。こちらが止めない限り攻撃を続けるだろう。
「でも、大丈夫なの、なんとかできるの?」
「攻撃がまったく通じないわけではないようだし、あとは火力があればいい。少々力技にはなるが」
聖霊にそう答えると、魔族は壁の方へと向き直る。
黒くボコボコと、湯だったように表面を揺らめかせる粘性生物は、這うようにして壁を乗り越えるところだ。高さはなんの障害にもならない。
「それじゃ……任せたわよ?」
聖霊は少し心配そうなことばを残しながらも、急いで倒れている召喚士を運び出す。ヒューとレジーナも動けない妖精たちに駆け寄った。
多くの者は、ソロモンの治療魔法を受けられれば助かるだろうと見えた。しかし、ヒューはとあるアヴルの青年を目にして息をのむ。後頭部を触手に突かれたらしい彼は金髪を赤黒く染めてうつ伏せに倒れていた。
すでに息はない。ヒューはその青年には触れずに別の怪我人の身体を引きずって奥へ移動させる。冷酷な判断が必要なほど、今は時間がないとわかりきっている。
その間も、刀を手にしたソルが木々の間を出て壁に近づいていく。待つのではなく、自ら仕掛けるようだ。
移動しながら、ソルの口が動いているのがヒューには見えていた。
壁の周囲はその外側よりも草が剥げて土肌が見えている。今までの戦いの痕跡か、火が燃え移らないために刈られた部分もあるのかは不明だが、黒衣は土肌の多い当たりを目の前に立ち止まる。
ヒューは木の陰から、ポケットの魔力席を握って魔族の背中を凝視していた。視界の中心に魔力が収束している。それが視えるだけにはおさまらない。まるで空気が渦巻き吸い寄せられている感触を覚えるほど、膨大な魔力が動いている。
黒い粘液に似た生物は壁を完全に乗り越えて地面に流れ落ちる。
それを見計らったように。
ソルの刀の切っ先が天を衝く。
「焼きつくせ、〈イグナス〉」
魔族の目の前に炎が現われる。最初は火球程度だったが、それは一瞬にして上下に伸び、渦巻く炎の柱と化して黒い姿をのみ込む。
「おお……」
壁の向こうで眺めていた帝国軍の兵の多くも、唖然と口を開けたまま天と地をつなぐほどの火柱を見上げた。
ただの炎ではない、魔力で象られた炎だ。周囲から集められた強大な魔力が巻き込まれたものに吹き付けられることになる。
――これで倒せなければ、絶望的かも。
そんな少年の不安はすぐに消える。薄れゆく炎とともに。
煙が風にさらわれてもなお、黒い姿はソルだけだ。
「まさかあれを消滅させられるとは……」
将軍は茫然としていた。その声には、どこか安堵も含んでいたが。
「もう一度、今のをお前たちに見舞ってもいいんだぞ」
よく通る声が響き渡る。あからさまに脅すような響きはないが、それだけに、淡々と事実を述べているような説得力があった。現に、その魔法の威力を目の前にしたばかりの者からすればなおさら。
兵士たちはあきらかに腰が引けており、魔術師たちは力の差を見せつけられて表情を凍りつかせ立ち尽くす。
「仕方あるまい……退却だ! 今回の件を報告しなければならない」
将軍は無駄な戦いを続けようとはしなかった。
実際にはソルは同じ魔法を二度は使えなかったかもしれないが、まったく同じ魔法である必要もない。それに、森の妖精たちにも無事だった戦力が多少は残っている。ほかにも召喚士や強力な魔術師がいるかもしれない、と帝国軍側からは見えただろう。
すでに怪我人の治療が始められている最中、ソルとヒューは壁の向こうの軍隊が引き返していくのを、完全に見えなくなるまで油断なく見送っていた。
怪我人は森の広場に運び込まれ、すぐに医療班が治療に当たった。全員生還とはいかず、ほぼ即死だった三名のアヴルの弓使いと一名のターデンの見張り役が端に横たえられ、家族や友人たちらしい姿が涙を見せていた。
ヒューは最初、居心地の悪さを感じていたが、周りは外界の者の姿を気にせず、気にする余裕もない。
アヴル族とウィデーレ族の治療魔法の使い手や医師が数人いたが、ソロモンとクラリスがいるのといないのとでは大違いだ。それにソルがいなければ帝国軍を撃退できたか怪しく、彼らを疎ましく思う者はない。
「どうなの、様子は?」
聖霊が尋ねたとき、ソロモンの目の前に横たわるのは老召喚士だ。
「足の怪我は治療済みです。倒れた拍子に頭を打ったせいで気を失っただけで、特に後遺症も残らないでしょう」
せっかく見つけた召喚士を喪うことにはならなかったらしい。聖霊も安堵の息を洩らす。
魔族の姿はここにはなかった。彼は怪我人の治療を手伝おうとしたものの、これ以上魔力を使うのは危険かもしれないとソロモンに止められて、近くの屋内で休憩させられていた。
思えば、一昨日も疲れ切っていた上、野宿を挟んでの今日で大丈夫なのか、とヒューは心配になる。
「僕、ソルさまの様子を見てきます」
「それは丁度よかった。あまり放っておきたくないのですが、わたしはもう少し皆さんを診察したいので……よろしくお願いしますね」
クラリスが渡した薬を怪我人に配るのをレジーナやララも手伝う。その様子を見届けてから医師はヒューに頼んだ。
すでに、処置もできる範囲のことは終わっている。
「はい、任せてください」
万が一、ソルが魔族だということが判明したら、ここの人たちはどう思うだろうか――そんな想像がヒューの頭によぎる。
命の恩人に等しいだけに乱暴に扱われることはないだろう、とは思うものの、それは願望かもしれなかった。惑いの森は結界に守られそれを通過できる者には寛容だが、同じように緩く受け入れてくれるとは限らない。
広場の頭上を覆う屋根代わりの厚い布の下を出ると、いくつも巨大な古木が並んでいる。半ば枯れたそれらは中身をくり抜き、あるいは枝の上にテントが張られ家へと改造されていた。ジュグムから貸されたのは中身を家にしたもので、幹に備え付けられたドアの取っ手に青い布が巻かれている。
取っ手をひねると、積み重ねられた木箱と上への階段が見える。一回は物置代わりになっているようだ。
階段を登ると、調度品の並ぶ部屋に入る。
左右に窓、木製の棚と机と丸椅子、動物の毛で編まれたらしい大きなクッションの置かれた長椅子。机の上にはカンテラとティーセットが並ぶ。奥には二段ベッドに、別の部屋への扉。
ソルは長椅子の上で、クッションに頭をあずけて目を開いていた。
「ヒューか。あの召喚士はどうなった?」
開口一番に尋ねられ、思わず少年は苦笑した。
「大丈夫ですよ。それが気になって起きていたんですか」
「そういうわけじゃないが、まあ、これで安心して眠れるというものだ。もう少ししたら寝るよ」
素直に喜ぶのを見て、ヒューは複雑な気持ちを抱く。
召喚士スクリーバを最初に目にしたときにも考えたことだ。もしかして、この森でクラリスだけでなく、異世界の住人二名とも別れることになるかもしれない。
そう思えば、自然と口が動いた。
「ソルさまは、すぐにでも帰らないといけない理由がありますか? そりゃ、早く帰りたいのはわかりますが……」
「いや、特にないが……」
ヒューの脳裏には、海上の海賊船でスォルビッツと交わした会話がしっかり刻まれている。
相手は一度は不思議そうな顔をするものの、すぐになにかを察したらしい。
「わたしたちが帰った後のことか。惑いの森で嵐が過ぎ去るのを待てば安全は保障されそうだけど、帝国軍と戦う気にでもなったか?」
「レジスタンスが気になったりはしましたが、そこまでの覚悟は……ただ、今回みたいにこの森が襲撃されたとか聞いたときに、じっと惑いの森で待っていられる気もしなくて……」
おそらく、クラリスはこの森に残ることになるだろう。帝国に近いこの森が襲撃されるということは、クラリスにも危険が及ぶということだ。
それだけではない。ハッシュカルにこれ以上なにかあっても、シルベーニュやユーグ、ペルメールにエルレンなど、思い出のある町、顔見知りのいる場所が襲撃された、あるいは『レジスタンスの海賊たちが壊滅した』というような報せがあっても、居ても立ってもいられないかもしれない。
「わたしはしばらくこの世界にいてもいいが、対立属性の相手だけが帰ったり残ったりできるものなのか?」
「召喚が同時だったし、本で読んだ限りでは、無理そうな……」
「なら、聖霊がどう思うか次第だな。ま、わたしが向こうに合わせる必要はないから、わたしが帰ろうとしなければどうせ帰れないだろうが」
と少し意地悪くほほ笑み、赤茶色の目を窓の外へ向ける。今も聖霊たちがいるはずの広場の方角に向けて。
そこを、一人の長身の青年が横切っていく。
「あ、クラリス?」
ヒューは緑と黄色の木の葉の群れの合間に、二つの姿を見つけた。
青年は足を止め、一人の少女を前にしていた。よく見ると、顔立ちが似ている――それはおそらく、ただの気のせいなどではなかった。
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