第2話 深淵に潜むもの

 見上げる空には雲ひとつなく、時折吹き抜けていく風が心地いい。平原を歩くには理想的な気候といえるだろう。

 しかし、目的地は遠い。大人ならともかく、子どもにはなかなか厳しい距離だ。

「やっぱり、お嬢ちゃんは留守番してた方が良かったんじゃないかしら」

 長い金髪と白い尾をなびかせながら光の聖霊が目を向ける先は、まだ幼い少女だ。

 薬草のある洞窟へ向かう道のりは長い。兄のヒューは当然、まだ体力も乏しい妹を祖父のもとに置いて旅立つことを考えたが、妹のララは一緒に行くと言ってきかなかった。

「全然、平気だもん。ずっと歩いて行けるよ」

「まあ、疲れたら手を引いてあげるわ。おやつもあるみたいだし」

 ヒューが持ち出した肩掛け鞄には地図と一冊の本、ロープのほかに、祖父に持たされた携帯しやすい料理とお茶の入った水筒、カップが入っていた。早い朝食は済ませているが、少なくとも昼食は道中のどこかで済ませることになる。

 道のりは長くはあるものの、それほど険しいものではなかった。遠くに山並みや森も見えるが、次の町までは平原に土肌の道が真っ直ぐ続くだけだ。目的の洞窟は、やや人里から離れたところにある岩山ではあるが。

「これだけ開けていると、野盗や獣も出なそうだ」

 町を出た直後は周囲を警戒していたソルも特に注意を向けることなく、先を行く四人についていく。

「野盗はいなくても帝国兵が来たりはするけど……今はそれも見当たらない。旅人も行商人も滅多に来なくなったし」

 レジーナは小型の望遠鏡を手にしていた。彼女の数少ない私物のひとつだ。

 帝国がこの付近へ勢力を伸ばしつつある今、郊外へ出る者も少なくなっている。遠くから町を訪れる者も。

 平原の道を行くのは彼ら五人だけという状況がずっと続く。休憩を挟みながら一行は順調に歩き続ける。

 やがて、地平線の向こうに街並みが見えてくる。

「あそこに、召喚士がいたら手っ取り早いけどねえ」

 そろそろ疲れてきたララの手を引いてやりながら、光の聖霊ははかない希望をかけた。

 しかし実際は、この付近の者にとっての召喚士は『名前くらいは聞いたことがある』という程度であり、召喚士よりは身近な魔術師でさえ、まれに旅人に見かける、遠い国では軍隊に組み込まれたり、王族や貴族に召し抱えられたり、大きな事件を起こすあるいは有望な研究を成功させることもあるようだ――というくらいの認識だ。

 ほとんど、風の噂に聞くだけの存在に過ぎない。

「あの二階にあった本を調べてみたが……元の世界に戻る際は、召喚された時間の一瞬後に送り返されるらしい。だから、すぐにでなくても戻れさえすればいいだろう」

 召喚された日の夜、ソルが書斎の本を読んでいたのをヒューも目撃していた。

「のん気なことを。あたしくらい多忙だと、間が空くと次にやることを忘れちゃうのよ」

「それはキミの記憶力がないだけだ」

 魔族のことばに、美女が目を吊り上げる。

「ま、まあ、必ずなんとかして元の世界にお返ししますから」

 なんで、この召喚魔法は対立勢力二名でなければいけないのか――なだめながら、ヒューはこの召喚魔法を成立させた人物を恨む。

 幸い言い争いは長く続かず、オーロラがふん、と顔を背けて終わる。

「あの町で一休みしよう。洞窟までもう少し歩くし」

 ハッシュカルを出て歩いて数時間。北にあるペルメールの町は、ハッシュカルより少し規模が大きく、街並みは石を積んだ壁に囲まれている。より栄えていた昔ほどではないが、鉱山の採掘が盛んで活気があった。門を抜けると露店や飲食店の並びが旅人を迎える。

 だが、貧しい兄妹には外食するような金はなく、異世界から来た二名も同様。孤児院出身のレジーナは狩猟で得たものを売って生計を立てているが、決して余裕のある生活ではない。

 美味しそうな焼き菓子や変わった食べ物に目を輝かせている妹を見ると、ヒューはチクリと胸が痛む。

「あそこでいいんじゃない?」

 やがてレジーナが指さしたのは、少し開けた場所だ。緑に囲まれた広場にいくつか木製の長椅子が並んでいる。中央には小さな花壇もあり、白と黄色の花が咲いていた。

 昼食には少し早めだが、長椅子に座ってヒューは祖父に持たされた包みを開く。そこに収められていたのは、手のひら大のミートパイとキャラメルナッツのタルトが人数分と、布に包まれた茶葉だ。

「お、ミートパイも美味しいよね、お祖父さんの」

「やっぱり、ほかのお店のよりお祖父ちゃんのが美味しそうだね」

 少女たちのことばに、ヒューは内心ほっとする。

「美味しそうだけど、なかなか太りそうな……」

 オーロラは少し複雑そうにつぶやいた。

「魔界と比べて魔力が薄いから、少しは食べる必要があるな」

 空気中の魔力が薄い場合は食べ物から魔力を吸収するのが手っ取り早いらしい。しかしソルはタルトは食べずにララにあげていた。

 ヒューは水筒の水と茶葉で人数分のカップにハーブティーを入れ、早めの昼食にする。通りからは少し離れているため、人目にさらされることなく落ち着いて食事ができそうだ。

 匂いにつられたのか、やがて一匹の茶色の猫が歩み寄ってきた。ララがミートパイの欠片をやると、嬉しそうに食べる。

 人が増えてくる時間帯なのか、さらに気配が近づいてくる。公園の周囲にある木々と茂みの向こうに広がる芝生の上を、三人の子どもたちが走り回っているのがチラリとのぞく。

 少女たちが猫に夢中になっているうちに、ソルが木々の間に近づいた。

 まだ、野放しにできるほど信頼はしていない。なにが琴線に触れたのかは不明だが、魔界の住人が危険行為を行わないとも限らない。今のところ、少年にはそういう人物には見えていないが。

 木々の間の向こう、刈り込まれた芝生の上に三人の子どもたちがいた。ララと同じくらいの年齢に見える男の子たちが、芝生の上に二本の枝を平行に並べてその間に一人ずつ順番に、小石を置いていた。

 置きながら、子どもたちは声を合わせて歌を歌っている。


 三ツ又山のその上に 七つの星が落ちるとき

 火の玉落ちる湖に 冥府の空への穴が開く

 東の谷に穴が開く


 その歌詞にはなにか意味があるらしく、子どもたちは歌詞に合わせて小石を取ったり置いたりする。

 似たような遊びはハッシュカルにもあった。ヒューが見たそれは、土肌の地面にマス目を描いて、マス目の中に小石を置くというものだが。

「変わった歌だと思っていたけど、わらべ歌、っていうやつか」

 ソルが声をかけると、子どもたちも見られていることに気がついたらしい。

「あっ、旅の人たちだ。お兄さんたち、どこから来たの?」

「ハッシュカルからだよ」

 ヒューが答えると、子どもたちはあからさまに残念そうな顔をする。遠くからやってきた旅人に珍しい話をせがみたかったのだろう。

 実際はソルの方は異世界から来ているが、それを言うと面倒なことになるに違いない。

「その歌は誰に教わったんだ?」

 ソルが尋ねると、子どもたちは口々に『お祖父ちゃん』、『友だち』、『お母さん』などと答える。

「みんな知ってるよ。ずっと昔からある歌なんだって」

「それで、いつもその歌で遊んでるわけか」

「ほんとは秘密基地で遊びたいんだけど、疫病の人を受け入れてるからもう遊んじゃダメって言われたんだ」

 そう言って少年が指さす方向には、教会らしい屋根が見えている。

「疫病……?」

 ヒューは気が重くなる。

 戦乱に巻き込まれた町で疫病が発生し、その一部は近隣の町に運ばれているという話は彼も聞いていた。ハッシュカルも戦場になる日が近い。

 少年のとなりで魔族は教会から目を逸らす。

「どうにしろ近づきたくないところだ」

「なに? 子どもをさらう算段でもしているの?」

 オーロラがからかい半分に声をかけ、歩み寄ってくる。その背後ではララがまだ猫を撫でつけていた。

「疫病が流行っているそうだから、それを広める算段を考えていたのだ」

 冗談にも聞こえないほどさらりと言い、ソルは背中を向ける。ヒューは一瞬だけぎくりとするが、振り向く際に見えた横顔には悪意のない笑みが浮かんでいた。

「疫病ね……じゃあ、さっさと用事を済ませてここを離れた方がよさそうね」

 振り返る先には、離れていく猫を手を振って見送る幼い少女。

 ヒューも同意だった。まだ抵抗力の弱い妹を病のもとになりえる場所には近づけたくない。男の子たちに別れを告げて踵を返す。

「じゃあ、もう行こうか」

 昼食の包みを畳んで片付け、少年は少女たちに声をかけた。

 目的の洞窟はペルメールの西にある。ヒューは何度か祖父と一緒に薬草を採りに行ったことがあるが、まだ一時間は歩く。

 町の西門を出ると、ハッシュカルからの道よりも細い土肌の道が続いていく。行く手にはまばらに生えた木々と、岩肌をさらす丘。

 ペルメールは四方に道が伸びている。ヒューたちが町を出て間もなく、北への大きな道を二頭立ての馬車が歩いて近づいてくるところだった。そちらとは違い、一行の行く先はたまに食用の野草やキノコを採る者が利用する程度だ。

「昔は鉱山の採掘で賑わっていた道だけど、今はもう資源が枯れたとか……」

「あら、わからないわよ。採掘し忘れた宝石とか眠っていたりして」

「鉄鉱山らしいので、たぶん宝石は……」

 ヒューが言うと、なあんだ、とオーロラは肩をすくめる。

「鉄も見つけられればそれなりの値で売れるでしょうけど、見つかるような物ならもう見つけられてるんじゃないかしら。それに、あまり奥まで行かないんでしょ?」

 レジーナはいつも現実的な意見を口にする。

「うん、いつもは入り口付近で摘み終わっていたよ」

 目的の薬草はジメジメした場所を好み、洞窟の奥の方がより多く生えていた。しかし以前、奥へ行こうとするヒューを祖父が止めた。奥は崩れやすくなっているかもしれないし、獣が棲みついていないとも限らない、と。

 だからいつもそっと、入り口付近に生えているのを少し採ってくるだけだ。

 道の周囲には木々が増え、やがて林に入る。ソルは注意深く辺りを見渡すが、木々の間を行き交う生き物は鳥ばかりだ。

 しかし、少しずつ空気が変わっていく。人工物のある場所を遠く離れ、もっと混沌とした野生に適したものに。

 なにが出てもおかしくない。岩肌が見えてきたころには、ヒューも緊張感を覚えていた。

 やがて岩肌に大きく口を開ける洞窟は、威圧感すら放っている。

「獣が棲みついているかもって話だし、早く摘んで帰りましょう」

「でも、あんたたちとしては多めに採って少しは売れる方がいいんじゃないの?」

 レジーナへのオーロラの提案は確かに的を射ていた。兄妹もレジーナも、少しでも生活の足しにできるものがあるならありがたいに違いない。

「それはそうだけど……」

 ヒューは少し迷った。洞窟の奥からの風は不気味に生ぬるく、いつ恐ろしい獣が襲い掛かってくるかも知れない。感情的には、早くこの場を離れたい。

 一方で、この異界の住人二人が一緒なら大丈夫かもしれないとも思い始めている。こういう好機はもう巡ってこないかもしれない。薬草が多く手に入ってその一部でも売ることができれば、祖父の助けにもなる。

「わたしは行ってもいいぞ」

 ソルのことばを聞いてヒューは決断する。

 日光の差し込む洞窟の入り口付近にも、いくつかの薬草が群生していた。それもせいぜい十数本程度だ。

 入口の方はレジーナとララに任せ、ヒューは闇に閉ざされた奥に目をやる。オーロラが懐から指の先くらいの大きさの木片を放り上げると、それは光に包まれて浮遊した。

「もう少し奥へ行ってみましょう」

 見える範囲の先に薬草は見えず、内心魔法に驚きながらもヒューは足を踏み出す。

 少し歩いたところで、不意に、彼は踏み出した靴の先に柔らかなものを感じる。

「どうした?」

 思わず身を引くと、ヒューは表情をこわばらせた。

「な、なんかグニュッとしたような」

 オーロラが明かりを下に移動させて照らすと、半ば影と一体化していた黒いものがヒューの目の前の地面に横たわっていた。一見、汚れた水溜まりにも見えるが、その表面が不気味に揺らぎ、身体の一部をグニャリと触手のように変形させて伸ばそうとする。

 慌てて短剣を抜き、振り回すようにして少年は触手を振り払う。

「ひどいへっぴり腰ねえ」

 オーロラがあきれたような声を出すが、彼としては無理のないことだ。自警団で訓練はしているものの、実戦で武器を使って戦ったことなどないのだから。

「相手に恐怖を感じるなら、柄の長い武器の方がいいんじゃないのか? 長柄の物も攻撃の筋が予測しやすいという弱点はあるけれど」

 あっさりと術で発生させた炎で黒い塊を焼き払ったソルが指摘する。

「僕は長剣が良かったんですが……そもそも武器を買えないので、選択肢がなくて。それに長剣は重いからと……」

「なるほど。そのうち使う予定なら、木刀でも使って練習した方がいいだろうがな」

 ソルが先頭に替わり、少し進むと開けた空間に出る。四角い部屋の向かいにさらに通路への入口、部屋のとなりに水溜まりがあり、その周囲に薬草が群生していた。

「おお、いいじゃない。結構あるわ」

 オーロラが後ろから覗き込んで声を上げる一方、ソルの目が前方の一点に釘付けになっていることにヒューは気づいていた。

「なにかいるようだ」

 その手は刀の柄にかかり、足は部屋の中へ踏み込む。

 間もなく、ヒューの耳にも聞こえてきた。

 グルル……という低い唸りと、獣の息づかい。

 すぐにその正体は明かりの下にさらされた。二本の鋭い角を生やし、暗い体毛に覆われたイノシシの一種のようだ。

 圧し掛かられれば人など潰されそうな体躯に、当たり所が悪ければ怪我では済まないだろう角。それに、噛まれた者が死亡したような話もヒューは何度も耳にしている。

 しかし、彼の前後で交わされる会話に緊張感はない。

「ボタン鍋にできそう。あまり汚さないで仕留めなさいよ」

「あのな……」

 あきれの声を上げるそこへ、イノシシは鼻息荒く突進してくる。

 ソルは刀を抜きざまに獣の前脚の腱を斬る。転がるように倒れたそこへ、手際よく喉を一突きした。

「かわいそうだけど、これも弱肉強食の一部よね」

「それはいいが、わたしは捌き方は知らないぞ」

「捌くのはレジーナがたぶん……町の肉屋まで運べるならそのままでもいいけど、さすがに運べませんよね」

 イノシシはそれなりの大物だった。たとえ運ぶ腕力があったとしても引きずるよりほかに手段もなさそうで、かなり難儀するだろう。

「あら、ソリくらいは用意できるわよ」

 オーロラが懐から一枚の木の葉を取り出す。それは宙に放り投げられると見る見るうちに大きくなった。地面に落ちたときには四つの車輪もついている。

 木の葉のソリは端で勝手にイノシシを持ち上げて乗せる。

「これは便利な……」

「さ、薬草も採ってさっさと町に戻りましょ」

 目を丸くするヒューに、オーロラは満足げにうなずいた。

 血の匂いにつられてさらに獣が寄ってくるのではないか、とヒューは少し心配したものの、この二人がいれば多少のことは大丈夫だろう、と理解し始めていた。

「へえ、すごーい!」

 合流して洞窟の外に出ると、ララはしきりに勝手についてくるソリに感心する。

「お嬢ちゃんも乗せられるといいんだけど、生きてるものは乗せられないのよね」

 物に仮初めの命を与えるのが光の聖霊の得意とする術らしかった。その術の効力は生きているものには直接作用しないらしい。

「それにしても、なにか変わった匂いがしない?」

 彼女はまるで動物のように鼻を動かして嗅ぐが、ヒューはなにも嗅ぎ取れなかった。生臭いイノシシからの血の匂いが圧倒的で、ほかの匂いは埋もれてしまう。

 やがてキョロキョロと見回す目が、茂みの奥の方に向けられる。

「たぶん、そっち」

 それがなにか、ほかの皆も半信半疑ながら興味をひかれていた。

 全員で茂みをかき分けて覗き込んだそこには、岩に囲まれて湯気を立てる小さな池。

「温泉だー!」

 喜んで近づこうとするララを、慌ててレジーナが手を引いて止める。

「危険かもしれないわよ。毒性があるとか、凄く熱いかもしれない」

「そうね、調べてみましょう」

 オーロラが取り出したのは、やはり緑色の葉だ。

 葉を放り投げると、それはなんの変化も起こすことなく水面に舞い降りる。

「毒とか強酸性とかではないみたいね。では……」

 と、美女はむき出しの腕を湯に入れる。

「あら、丁度いいじゃない。それじゃあ一休みしましょうか」

「……火傷は怖くないの?」

 レジーナに言われ、やっと光の聖霊は周りの驚きの視線に気がつく。

「平気よ。手がつけられないほど熱かったら、入れる前にわかるわよ。じゃ、男どもはあっち行ってて」

 あっさり答え、ヒューとソルに手を振る。

 あまり時間をかけると帰りが遅くなるのでは、とヒューは心配したが、長時間歩いてここまで来たのだ。オーロラだけでなく幼馴染みも温泉で汗を流すことに心を惹かれた様子であり、妹もすっかり楽しみにしているようだ。

 反対できるわけもなく、ヒューは日陰でイノシシを眺めることになる。

 ――まあ、最悪、一泊してもいいし。

 祖父には二日かかる可能性があることは伝えてある。目標以上の量の薬草もすでに手に入れており、気楽なものだ。

 ソルの姿がないことに気がつき、たぶん近くにはいるだろう――と辺りを見回してみると、澄んだ歌声が流れてくる。それも、聞き覚えのある歌詞。

 周囲に異状がないのを確かめると、少しの間だけイノシシから離れる。

 道を離れて木々の間を歩くとすぐに、登り坂になった先にある岩の並びのひとつに、黒衣の背中が腰かけていた。

 冥府の空への穴が開く、東の谷に穴が開く――

 公園で聞いたあのわらべ歌だ。

 気配に気がついてか、ソルはヒューが近づくと手にした小枝で前方を示す。

「三ツ又山というのは本当にあるんだな」

 高い位置にあるそこからの前方は開けており、確かに東の山並みに三ツ又の矛の先に似た特徴的な山々が、天を刺すようにそびえていた。

「じゃあ、どこかに泉や谷もあるんでしょうか」

「そうだね。何かの例えという可能性もあるが、あの山の近くに谷や泉くらいあってもおかしくない」

 三ツ又山のふもとには大きな森が広がっており、ここのような小さな林にすら温泉や洞窟が隠れているのだから、なにが隠れていてもおかしくはないと見えた。

「冥府とやらがあるなら見てみたい気はする。まあ、早く帰れるならそれが一番だが」

「それは鋭意努力します」

 身を硬くして言う少年に、ソルは苦笑した。


 女三人が温泉に浸かり、空を見上げていた。眺めはいいとは言えないが、自然の中で湯に浸かるというだけでも趣はある。

「ねえねえ、オーロラさんの住む世界はどんな世界なの?」

 ララがそんなことを尋ねる。

「あんまりここと変わらないわよ? というか、変化の少ない世界から召喚されることになってるんでしょうけど。あたしが住んでいる辺りは、こういう自然の多い場所ね」

「確かに、食べ物とか水とか、違いの大きい世界から召喚されると困るかも。でも、ことばまで通じるのは凄いわね」

 レジーナのことばに、ああ、とオーロラは思い出したように言う。

「あたしやソルのことばは精神言語ってやつだから、この世界の言語を覚えてるわけでも使ってるわけでもないわ。精霊のことばが人間に通じるのと同じ」

「念話……みたいな?」

 理解が追いつかず、レジーナは本で読んだことのある単語を出す。鳥人間の一種など、声を出すことなく頭の中だけで会話をする種族もいるという。

「うーん、近いかしら。あなたたちの中であなたたちの言語で話しているように錯覚させている、ってところなんだけどね」

「わかったような、わからないような……それにしても」

 少女の目は美女の豊満な身体の背筋を下がり、湯の中で白く漂うものに向く。

 そして、頭上でまとめた髪の合間に見える二つの山も気になっていた。まるで動物の耳のような。

「あまり見ないで、これは」

 以前『オシャレ』と言っていたそのことばが本当なら服と一緒に外れているはずだが、確かに白い尾は彼女の肌の延長に存在している。

「あたしの世界じゃ珍しくないのよ、こういうのは……この世界でもそうでしょうけど」

 少女たちの興味津々の目に、少し居心地悪そうに白い尾が揺れる。

「人間に似ていても、人間じゃないからね。さあさあ、美しいからってお尻を見てるんじゃないの」

「ご、ごめんなさい」

 我に返り、レジーナは目を逸らした。


 女性陣が温泉を出、ヒューとソルと合流し帰路を辿ると、特に新たな獣などに出会うこともなく、一行はペルメールに戻る。

 門をくぐるとざわめきが起き、驚きの視線が集まった。大きなイノシシを見ると町の人々も色めき立ち、否が応にも目立つ。

 ――失敗したかな……。

 ヒューは少し後悔するが、町の中に入るには仕方がなかった。

 やがて肉屋の場所を教えられ、勝手に動く巨大な葉に乗せられたイノシシに好奇の目を向けられながら肉屋に入る。建物の裏口から入れられると、やっと視線から解放されてヒューは息を吐く。

「これは大物だね。少し時間がかかりそうだ」

 肉屋は気のいい男で、意気揚々とイノシシを隅々まで確かめていた。

 肉屋がイノシシを捌き、ヒューたちが持てる程度の肉を切り分け、残りを肉屋が手間賃を引いて買い取った額を渡す、ということで話がつく。

「わたしが見ているから、薬草を売ってきてもいいわよ」

 レジーナがそう提案する。疫病が発生しているため今までより丁寧な処理が必要になっており、少し時間がかかるという。

「わたしは召喚士についての情報を集めてみる」

 ヒューたちが薬草を抱え、ソルは肉屋の外で口を開く。

「そうだった。それは大事よね」

「しばらくしたらここに戻る」

 珍しく光の住人と闇の住人の意見が一致する。

 肉屋に入るまではついてきていた野次馬たちもほぼ散っており、行き交う通行人たちの中へ黒衣の背中が消えていく。

 肉屋がある同じ並びに薬草屋もあった。採ってきた量の半分を売り残りを取っておく。それでも充分な量だ。

 手に入った一万レジー銀貨二枚と小銭の重みに、思わずヒューは顔がほころぶ。イノシシ肉の買取の値段によっては、ここで買い物をしていってもいいかもしれない。

「まだ早いだろうし、公園にでも行って待っていようか」

 店の多い通りは誘惑が多い。彼はできるだけ賑わいから離れる方向へと足を向けた。

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