第52話 開かれた戦端
日光を受けた朝露が森の葉たちを輝かせる。
惑いの森に帰っての数日、ヒューは森の外周近くを一周歩くことを朝の日課にしていた。長旅の後だからと動かずにいてはすぐに体力も衰えなまってしまう。そして、妹は毎日の長い散歩を欠かさない。魔法の才能もあふれるララに体力も追い越される日が来てはかなわない。
少女は朝の時間を、魔法の練習に使うことにしたらしい。
「あ、お兄ちゃん。見て見て!」
戻ってきた兄を見つけた彼女は弾んだ足取りで駆け寄る。その少し後ろを、色とりどりの花びらを閉じ込めた氷の仔馬が追いかけていた。
「す……凄いね、ララは。もう氷の橋を架けたり、飛びかかろうとしている獣の足を地面に氷漬けにしたりもできそうだ」
「うん、できるよ!」
妹の上達ぶりにはいつも驚かされる。慣れてはいても唖然としてしまう兄のことばに、幼い少女は胸を張った。
その背後からあくびをしながら金髪の美女が歩み寄る。
「もう、基本的な法術はお手の物みたいよ……あとは治癒の法術とか応用的なものとか、この辺はそれなりの知識が必要ね。ところで、あんたはどうなの、ヒュー」
そう水を向けられ、少年はドキリととする。ここしばらくは法術の練習をしていない。
それでも、火をともす・足もとの水溜まりを凍らせる・突風を吹かせる・足もとに落とし穴を作る、ただし脛の辺りの深さまでの――といった基本的な法術は使える。魔力量を多く使用できないため、それ以上にできることは限られるが。
「だいぶ練度は上がっている、はず……ですが、その。僕はララほど魔力を使えないので、これ以上はどうしようかと……」
「そうね、確かにララと同じようにはできないわね。あんたは剣術を使うんだし、そこに応用するってのが順当かしら」
剣術に魔法を応用する。
そう思い浮かべると同時に、ヒューのまぶたの裏にふと甦る光景がある。ユーグで封じられていた獣と戦った際や石柱の森での戦いの際にソルが使った魔法剣。
彼の想像を、聖霊も見透かしたようだ。
「となると、そこからはあいつの方が教師として適任かもね。きっと、今もバサールのところにいるだろうけど」
「そうですね……見つけたら頼んでみます」
魔族の魔法剣士は森に戻って以来、〈北の果て〉から持ち帰った魔法陣の解析をバサールとともに進めているようだった。それがなくても、森にいる間はバサールのもとにいることが多いが。
「この世界で一番ソルさまの親友に近い存在はバサールさまでしょうねえ」
ソロモンが複雑そうな様子で言っていたこともうなずける。
その姿を求めて歩き出したものの、邪魔をするのははばかられる。それに、正面からバサールの研究室に行くのは手間と時間がかかる。いつも、バサールのもとに向かうときには迎えの巨鳥を送られている。
ドラクースなら回り道を短時間で行けるかもしれない、木々の向こうで小川の水を飲む竜馬を横目にするが、どうせ目的の相手とは昼食時には顔を合わせることになる。それもあまり先のことではない。
祖父の店の近くで法術の練習をしようかと爪先の向かう方向を変えて間もなく、木々の間から小気味よい音が、トン、と断続的に響き始めた。
もう耳に馴染みすぎたほど馴染んだ音だ。視界に入る前から予想していた通り、木板の的を枝に吊るしその中心目掛けて矢を撃っているのは、小型クロスボウガンをかまえた幼馴染みの姿。近くには弓矢を整備しているオズマら数人の顔も並んでいる。
「おはよう、ヒュー。もう昼食の時間……じゃないわよね」
次の矢を準備しかけていた手を止め、少女は笑顔を向ける。
「おはよう、レジーナ。まだ少し早いから、法術の練習をしてから店の手伝いでもしようかと思って」
「あら、わたしも昼食前には手伝う約束をしてるの。料理の方も腕を上げていきたいからね」
「射撃も料理も……忙しいですね」
ヒューの心情を代弁したようにオズマが苦笑する。
それにレジーナは平然と、
「射撃の大会も料理の大会も、実力を出し切って悔いなく挑戦して終わらせられるようにしないとね」
ペルメールの射撃大会は一週間ほど後まで迫っている。ゴスティアの来年の大会はまだまだ先だが。
――目標があるから頑張れるのか。
少年はふとそう気がついた。自分も、ペルメールの剣術大会に出ることを具体的な目標に掲げて向上心を持った方が上達するんじゃないだろうか、と。
しかし、レジーナの射撃の腕が誰もが認める領域であるのに対してヒューの剣術はとても誰の目に触れても恥ずかしくないようなものではない、そう自覚している。
――せめて、どこに出ても恥ずかしくないような腕になりたいな。それを目標にしよう。
そのためにも、今は剣術の師が必要だ。
そうは思いながらも、目先で行うのは法術の練習だ。彼はレジーナと別れると、できるだけ人目につかないところで練習を始めた。こちらも人に見せられるほど熟練しているとは言い難い。
それでもいつの間にか太陽が頂点近くに移動していたほど、集中していたのだった。
昼食は兄妹とレジーナもダドリーを手伝い、森の住民たちの憩いの場になって久しい露店のテーブル席のひとつに、見知った顔ぶれが並ぶことになった。
その目の前のテーブル上に並ぶ料理の種類や盛り付けに、初めてそれを目にした者たちは口と目を大きく開く。
「なに、これ凄く手の込んだ料理ばかりじゃない?」
「盛り付けもきれいで高級料理店にでも出されそうですね」
「匂いもいいし美味しそうだな」
食欲をそそる匂いの湯気に包まれているのは、肉の臭みを取り柔らかくするハーブの葉に挽肉を包んで香味野菜と煮付けたもの、独特の風味がある木の実を加えた焼きたてのパン、豆といくつかの旬の刻み野菜を使ったスープ、キノコと芋団子のミルク煮、川魚の燻製とチーズを使ったサラダ、そして粉砂糖と果物で飾り付けたシフォンケーキにパンナコッタがデザートとして用意されていた。
「ケーキの飾りはララがやったんだ。でも、ほとんどはレジーナ姉ちゃんが作ったんだよ」
幼い少女が得意げに胸を張るのを見届けると、周りの視線は白いエプロンをつけて茶色の髪をいつもと違い団子状にまとめた少女のほうに向いた。注目された側はややたじろいだ様子で頬を染める。
「作ったって言っても、お祖父さんから教わりながらだし、作業もヒューやララに手伝ってもらってだし、それに……」
彼女の目が期待と同時に不安を映す。
「まだ、肝心の味がどうなのかはわからないわ。食べて感想を聞かせてほしいわね」
「それは確かに」
ヒューとララも席についている。作業は手伝ったとはいえ味付けはレジーナによるものであり、二人もまだ味わったことはない。妙に改まった気持ちでフォークとスプーンを手にする。
周りで食事や談笑をしていた者たちも、ややうらやましそうに彼らのテーブル上の見るからに美味しそうな料理を眺めている。そこには店のメニューにないものも存在する。
――きっと、見た目に負けずに美味しい。
食べる前からヒューは確信していた。
「いただきます」
声が重なる。周りのテーブルからの視線に多少の緊張はあったものの、挽肉のハーブ包み煮をスプーンで一口すくって舌にのせると、雑音はすべて消え去っていた。
ほどよい塩気とコクと旨味。噛みしめるとホロホロとほどける肉とともににじみ出る肉汁。包み込む葉の上品ながら食欲を刺激する香りが鼻腔をくすぐる。
「美味しいわ。匂いも香ばしいし食感がサクッとしてフワッとして」
聖霊が先に声を上げた。その手にはパンが千切られている。
「このサラダもチーズと魚に合いますね」
「芋団子とキノコのミルク煮も優しい味で美味しいな」
「レジーナ姉ちゃん、どれも美味しいよ。ケーキは最後に取っておくけど、きっととびきり美味しいに決まってるの」
料理を口にした者は誰もが笑顔になり、それを見たレジーナもまた、安心したような笑顔になる。
「この肉も味付けも食感もいいし、何度も食べたくなるよ。さあ、冷めないうちに一緒に食べよう」
店の方からチラチラ覗いている祖父が親指を立てているのを視界の端に捉えながら、ヒューはとなりの席の椅子を引いた。内心、料理の腕までどこに出しても恥ずかしくない領域に到達している幼馴染みに敬意を覚えながら。
つい自分と比べたくなる気持ちも芽生えるが、嫉妬しても仕方がないことはわかっている。
周りにはメニューにない同じ料理を注文し始める者が現われ、すぐにダドリーの方は忙しくなる。とはいえ予想はついていたのか、ある程度準備はできていた様子だ。
一瞬店を手伝わなくていいのか迷いかけたヒューも、しっかり昼食を味わうことにした。
「これならきっと、次の料理自慢大会は優勝間違いなしだわ」
「まだまだ練習が必要よ。まず、作れる種類を増やさないと」
「大会だと、確かに色々とお題を出されるかもしれないし、それはあるわね」
美味しい料理なだけに、話しながらでも食事は速く進んでいた。胃と心が満たされてくるとヒューは思い出す。
「ソルさま、後で訓練に付き合ってほしいんですが……そういえば、ソルさまはバサールさんとあの魔法について調べていたんですよね。なにか新しい発見はありましたか?」
「新しい発見、というより使い方を解いている感じだが。世界の壁が薄くて魔力濃度の高い場所でなければ効果的ではないらしい」
〈北の果て〉で得た二つの魔法は、大規模召喚魔法と帰還魔法だ。両方とも、もともと果ての神殿で使うことを想定したもののはずである。
「じゃあ、帰るときはまたあそこに行かなきゃダメなわけね……ソロモン、あんたの異世界を渡る方法はどうなのよ」
不意にオーロラの切れ長の目を向けられた白衣に眼鏡の魔族は、食後のハーブティーを手にしたところだ。
「それなりの魔力の持ち主十人くらいか、強力な魔力石いくつかを持って次の満月にあの島の神殿で儀式を行えれば……そうですねえ。ということは、あの島の神殿も世界の壁が薄い場所に当たるかもしれません。魔力は自前で用意しなければなりませんが」
「なら、一回下見に行ってみいいかもな。満月はまだ先だろうが」
船を使い島へ渡る必要があるとしても、もう一度コーナスの神殿跡へ行くよりは苦労が少なそうではあった。
「それも、まずは帝国をどうにかしての話になりそうだ」
ソルの目が少し離れたところに向けられる。
木々の間から二つの見慣れたローブ姿が歩み寄るところだった。
「バサールはともかく、森の主も一緒か」
白髪に白髭の老魔術師に、頭からフードを被った赤毛の青年。森の主である炎竜が人間形態をとった姿はフードの下であくびをかみ殺している。
「まさか、森の主はまた何年も寝るとかいうんじゃないでしょうね……」
「いや。しばらく寝る予定はないが、一杯引っ掛けただけだ」
酒のせいで眠気が出ているだけだという森の主に、老魔術師はあきれの表情。
「昨日、レジスタンスの拠点が侵入者を捕らえたようだ。あちらも頑張っているようだし、こちらでもできる協力はしなければな」
ヒューたちが惑いの森で過ごしている間に、イルニダに拠点を置く指導者テューベン率いる反帝国組織は再び帝国からの攻撃を受けて撃退していた。本腰を入れた軍隊ではなく、戦力を測るための小手調べだったようだが。
「協力……というと?」
「まさか、ビューンとひとっ飛びして、ジャストリオンを火の海にするわけにもいかないわよね」
オーロラのことばに炎竜は苦笑する。
「一般市民を傷つけるわけにはいかないだろう。いずれは炎を吐く必要はあるだろうが、相手は軍人だけだ。まずは避難民受け入れからだ」
現在、北はゴスティアやエルメア、南東でペルメールが帝国に追われた人々や帝国を脱出してきた者たちを受け入れている。森の近くのシルベーニュでも、避難民を保護するべきではという議論が起きていると森にも流れてきている。
「あとは情報の共有や伝達、監視なら得意分野だからな。人を運ぶ、物を運ぶのも使い魔やこの図体のでかいのがいれば簡単だろう」
炎竜の攻撃力やバサールの魔法、ヒューたちは戦うことができるだろうが、森には軍や自警団すら存在しておらず、誰でも入ることができるわけではないためそれらを必要ともしていない。帝国軍は石柱の森に最近も何度か軍を送り、防衛のために傭兵を中心とした警備隊がイルニダから送られたという情報も聞こえている。
同じ森でも、惑いの森と石柱の森ではかなり安全性に差がある。それでも、帝国軍が本気で惑いの森をなんとかしようと思えば間接的な方法で攻撃することは可能だ。そのような事態を避けるためにも、森の主らは先手を打つことにしたのだろう。
「さっさと戦を終わらせた方がゆっくり寝ていられるし、好きなだけ飲めるからな」
炎竜は別の目的も兼ねているらしい。
そこで、本人にとっても意外なほどすんなりと、ヒューは口を開いた。
「あの……もし協力できることがあれば僕も協力します。姉も戦を終わらせられることを望んでいたでしょうし」
帝国の、その背後にいる神々の狙いを阻止すること。それがコーナスにまで行って知った、姉の旅の目的だ。
「ここでじっと待っているのも退屈だものね」
「ああ、身体がなまってしまう」
聖霊と魔族の剣士は召喚主の少年に従い、妹と幼馴染みは当たり前のようにヒューにつき、ソロモンはソルにつく。
もう、わかりきっている関係性だ。ヒューとしてはまだ、できれば妹には祖父のもとに残ってほしい気持ちもあるが、それは妹の努力に対して失礼な気がした。
――そもそも、ララの方が役に立つ可能性も……。
少なくとも、使える魔力量と法術の腕は妹の方が上だ。
「早く戦いを終わらせて、皆が帰るべきところに帰れるようにしないとね。……でも、射撃大会が終わってから動きたいわね」
「ああ、それは大事よね」
強調するようにボウガンを軽く叩くレジーナの仕草に聖霊が同意すると、周りの誰もが頬を緩めた。
「やはり、正攻法では難しい……というのが正直なところだ」
日光はカーテンに遮られ、薄暗い会議室の床の影の中から生えてきたように、曖昧に溶け込んだ人影がいくつも円卓を包んでいる。
部屋の空気を震わせる、まだ若さを残した軍人の声は悔しさをにじませていた。
「このようなことを言うのは、武人としてはあるまじきことだが」
影の中で双眸がギロリと光る。空中のどこかに、実際はそこには存在しない光景を浮かべているように。
「特に、あの女剣士……闇の中から生まれ出たようなあの剣士は容赦がない。そして動きの見えないうちに周りの兵たちを一蹴する。まるで自動人形のように正確でよどみがない。血の海に立つのを当たり前のこととしているようだ」
「それは、強力な傭兵を得たものだな」
別の男が溜め息交じりに言う。
「こちらは傭兵の集まりも悪いというに」
「勝ち馬、と見ると乗り換えるような連中は信用できん。まだこちらの戦力は整っていない。今は数は少なくても信用のおける駒を作って時間を稼ぐべきだな」
小柄な文官らしき男が口を開く。
「信用のおける、というと?」
尋ねられた側の男は口の端を吊り上げた。
「金より大事なものを報酬にしてやればいい。もちろん、重要な部分には直接の配下に行ってもらうが」
そのことばで、室内の皆は想像がついたらしい。
家族や仲の良い友人を押さえられた者は忠実な駒と化す。それに、彼らの配下やその家族もジャストリオンの住人であるため、人質を取られているに等しいだろう。
「早速、工作部隊を編成させよう。傭兵が一番紛れ込ませやすいが、そればかりではな」
「傭兵の身分にはあちらも注意を払っているはず。なに、いくらでもやりようはある。行商人や急病の旅人、屋根を探す焼けた町の元住人や避難民などな」
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