第40話 明日より先の過去に至りて

 気がつくと、手もとの感触に思わず拳を握りしめる。手のひらに当たるそれは柔らかな草のようだ。身を起こすと、どこかの通路の茶色い煉瓦の床にわずかに染み出た土の上、小さな芝生の上に倒れていたことがわかる。

 向かい合う位置にはレジーナが身を起こしたところだった。

「ほかのみんなは、別のところに飛ばされたようね」

 話しながらも自然に目が向かうのは、周囲を淡く照らす明かりの発生源だ。長く続く通路の出口から青みを帯びた光が見えている。

 逆方向は、やはり行き止まりだった。

「この遺跡は一方通行みたいだ」

「迷路よりはマシね」

 武器を確かめ歩き出す。どこかから流れる声もなく、ただ古い通路に二つの靴音だけが響き渡った。


 なにかが腐ったような臭いで、ソロモンは目を覚ました。どこかの通路の床に積まれた朽ちた木の柱や敷き藁、ボロボロの布切れなどの上に横たわっている形だ。

 顔を上げてすぐ、彼は横に倒れている黒衣の身体を見つけてその手首の脈を取る。目は閉ざされたままだが胸は上下に動いており、気を失っているだけのようだ。

「久々に人間だと思ったらこんな弱そうな連中かよ」

 相手の肩に手をかけようとした医師の耳に、しわがれた男の声が届く。

 振り返った通路の先にいたのは人間ではない。緑の硬そうな肌と鋭い角や牙を持ち、背中にはコウモリに似た翼、そして手には黒い三つ又の矛を握っている。神話伝承に登場するガーゴイルの一種のようだ。

「おや……ここの門番、という風にも見えませんが」

「門番? そんな役目はないぜ。ここにいると、たまに獲物にありつけるんでな」

 どうやら、もともと神殿に用意されていた門番などではないらしい。後からここへ入り込んだのだろう。

「獲物についていけば出るのも自由だし。でも、もうしばらく食事を続けるまで出る気はないからな。大した魔力は得られそうにないが……お前らもオレの血肉になれ」

 矛の先を向けられ、医師は仕方なさそうに立ち上がる。医療鞄は足もとに置いたまま。

「この状況では仕方ありませんね」

 ガーゴイルの矛の先には魔力が集中し始めている。間もなく力は放たれ、医師とその背後の魔族を爆発に巻き込むだろう。

 しかし、周囲を揺らす爆音はガーゴイルの狙った場所では起きない。

「ん……?」

 音と震動、そしてかすかな熱気を肌に感じてソルが目を覚ます。

 開かれた目に映るのは、薄明りの中で通路にたたずむ白衣の背中と、その向こうに通路の先からの青い光を遮るように立ち昇る幾筋かの煙。

「ソロモン?」

 不思議そうな声に医師が振り向くと、金縁眼鏡の奥には若干の動揺が浮かぶがそれは一瞬のことで、見慣れた笑みに変わる。

「ああ、ちょっと障害物があったので火薬で破壊しただけですよ」

 にこやかに言い、立ち上がるソルに手を貸す。

「魔力を感じた気がするが……まあいい。進むしかないようだし、早くほかの皆と合流しないと」

 納得はしていないながら、魔族は早く進むことを優先したようだ。

 通路は一方にしか続いておらず、行く手の奥からは青い光が洩れてきている。まるで誘うような明かりだった。

 ソルは刀の柄に手を置いて歩き出す。

 間もなく生物の気配のない通路から明るい空間に出る。その瞬間に最も警戒は高くなるが、襲撃も道を妨害するものもない。

 正方形の、天井が吹き抜けのように高く見えない部屋だった。中央に向けて通路から橋が架かっており、下は青白くも透明な水が溜まっている。青白い光を放つのはそれらを囲う壁の材質のようだ。

 橋の行き着く先、中央にある台の上に一抱えほどの、小さな森らしきものの模型が半球状の透明な膜に包まれている。

「まるで、博物館の展示にでもありそうだな」

「ソルさま、ソロモン先生」

 中央に近づくと丁度向かい側、別の通路への出入口の影の中から見慣れた少年少女が現われ駆けつけてくる。

「お二人とも、ご無事で」

「ああ、ということは、残る二人もどちらかの通路から来るんじゃないか」

「だといいんですが」

 ヒューは無事だと予想はついても、やはり妹が心配な口ぶりだ。

 しかし、今は待つのが最善なのは明白だった。その間、彼らは中央の台の上に注目した。まるで巨大な森を小さく圧縮したようなそれはとても作り物とは思われないほど精巧で、緑の葉の集まりの向こうに生命の気配すらうかがえるようだ。

「お兄ちゃん、みんな!」

 残る通路の一方から声がかかり、暗がりの中から明るい室内へ、ララとオーロラが姿を現わす。どうやら怪我ひとつない様子だ。

「よかった、ララも無事で」

「平気だよ。水溜まりみたいな怪物がいたけど、ララが火の魔法で倒しちゃったんだよ」

 水溜まりのような怪物、と聞いて兄が思い出すのはやはり、西の洞窟だ。黒い水溜まりのような怪物が現われ、尻もちをついたのも遠い昔に思える。

 その頃の自分よりも妹は落ち着いている。内心苦笑しながら、自分もあの頃と大きく変わっているとヒューは信じることにしていた。

「ここから進むなら、やっぱりあの岩と同じような感じかもね。ほら、ソロモン、触ってみなさい」

「わたしで実験ですか……えーと……」

「なによ、ほかの誰かにさせようっていうの?」

 聖霊がつかみかかろうというようにとなりの橋から両手を伸ばすのを、医師はどうにか寸前で避ける。

 それをあきれの目で見ていたソルが台へと向き直った。

「どうせ戻れないんだから、全員が行くことになるだろう」

 彼は手を伸ばし、小さな森を覆う膜に触れる。

 するとその姿は消えず、光が室内を満たすようにあふれ出した。


 どこか遠くで、ギギギ、と鳥とも虫ともつかない鳴き声がする。

 目を覚ましたレジーナは視界に飛び込んできた光景に愕然とした。

 石柱の森の家に改装されている巨木より、さらに何倍も幹の太い木がいくつも並んでいる。枝も多くが街道の幅より太いくらいで、一行が足場にしているのも枝のひとつだ。

 ところどころ青緑に苔むした大木は視界の奥のどこまでも生えているようだが、朝もやのように白くぼやけて奥ははっきりと見えない。ただ、木のいくつかには建物やなにかの残骸を枝に絡めていた。遠く、半ば霧に浮かぶ影と化している木々の一部は、宮殿のような建物を枝で並んで持ち上げている。

 最も近い建物は、今いる木のとなりの木に見える神殿だ。

「あの神殿……ここに来るときのと似てる」

 身を起こしたヒューがそう感想を口にする。

 神殿は赤銅色をしているが、形や飾り気のない外観は確かに温泉にあった岩から飛ばされた先の神殿によく似ていた。

 ほかに渡れそうな場所はないかと、彼らは周囲を探す。現在地の木から神殿のある木へは枝を伝い渡れるが、ほかへ移動するには幹を上り下りする必要があるようだ。

「ララ、落ちないように気をつけて」

「うん、お兄ちゃんもね」

 木の下の方には地面も見えず、白いもやに埋め尽くされている。同じく、緑の葉の間からのぞく空も白一色だ。

「それにしても、ここが冥府、ってのも良くわからないわね」

 神殿の建つとなりの木の枝に向けて歩き出しながら、聖霊は神秘的な風景を見渡す。

「そうですね。冥府って言うと死者がいたり、さまざまな怪物が徘徊していると神話や伝承で見たような」

「まだわからないけどな。少なくとも、生きた人間の気配はない」

 魔族のことば通り、たまに鳥らしき羽音が葉を揺らしている程度しか生物の気配はない。

「神殿に誰かいて説明してくれるとわかりやすいんだけど」

 都合のいい望みをかけながら、オーロラは近づく神殿に目をやる。

 どんどん枝の先へ進む。それにつれ幅は細くなるが、それでも馬車が通過できるほどの幅がある。六人が歩いても枝は音もわずかな揺れも発生させず、風は吹きもしない。

 怖さを感じることはほとんどなく、目的の枝と重なる一歩ほど上まで来たところで飛び降りる。ララでも平然と降りられた。

「あいにく、生き物の気配はなさそうだな」

 ソルが刀の柄を握り、黒い入り口を前にしたオーロラは火をまとう木片を頭上に飛ばした。ヒューとレジーナも自分の得物の握りを確かめる。

「生きてなくてもなにかあるでしょ、たぶん」

 かつてソルと旅をしていた剣士がここへ導いたのだ。

 警戒しつつ階段を登る。また巨人がいるかもしれない、と入り口をくぐった彼らは予想するが、法術の明かりに照らされたのは別のものだ。

 青銅色の神殿と同じように入ってすぐにある広い部屋のその奥、壁に並ぶのは、さまざまなボタンやレバーが並ぶ台、太い管の束、正体不明の装置など。ヒューは超兵器の下の研究室で見たものを思い出す。

 近づくと、突然それは変化する。

 ピピピッ――

 自然にはない音が鳴るなり、無数の小さな光が点灯していく。台の上のボタンなどが息を吹き返したように輝き始める。

 そして壁の中央が長方形に白く浮かび上がり、読めない文字列が並ぶ。

「なに……?」

 誰もが驚きレジーナはボウガンを向けているが、攻撃される気配はない。

「これはなにかの機械かしら……正面の画面の文字はあたしにも読めないわ」

 異世界の住人には、通常なら召喚した側の世界の言語が訳されて伝わるはずである。しかし冥府はその範囲外なのか。

「大昔の機械文明のものかしら」

 話しているうちに画面の表記が変わる。

 同時にどこかから流れてくる、平坦な声。

『こちらは時間渡航装置です。操作をご命令ください』

 突然の声に皆驚くが、装置から響く声に違いないことはすぐに理解できる。その中でも、ララが早く反応した。

「あなたは誰? 操作ってなに?」

 単純な質問だが、相手は受け付けたらしい。

『わたしはこの時間渡航装置のナビゲーション・システムです。口頭による命令で、過去への時間渡航、直近の渡航記録の閲覧、最大因果律予測の閲覧が可能になっています』

「直近の渡航記録って、一番最近に使った人の記録、ってことですか?」

 思いつくものがあったのか、ヒューは身をのり出した。

 一拍遅れてほかの皆も気がつく。誰が最後に使った可能性が高いのか。

『そうです。最後に利用した記録を画面に表示します』

「じゃあ、それを見せてください」

 ブン、と小さな音が鳴った。

 画面の中に本棚が並ぶ。そこへ、画面の手前側から近寄っていく六つの姿。

 その姿のひとつは、この場の誰もが見慣れた黒衣の剣士。そしてどこかで見た白い法衣の少年に黒尽くめの女剣士、鎧姿の青年、二人の少女。

「ルナ……ルナだわ」

 少女のうちの、茶色の髪の優しげな白い法衣の少女に聖霊は目を奪われていた。

 しかしヒューやその妹、レジーナはもう一方の少女の姿に釘づけた。銀髪の髪に、ヒューにどこか似た面影。記憶には残されていなくても正体は一目でわかる。

 彼女は本棚の中段辺りを指さしてなにかを告げるが、声は届かない。指さした一冊の本を抜き出して聞くと周りも覗き込むが、画面のこちら側からは表紙がチラリと見えるだけだ。

 何度かことばを交わしながら、少女たちが紙になにかを書き写したり女剣士が手をかざすような仕草をしたりするが、しばらくすると画面端を気にした様子で本を閉じて本棚に戻し、手前側へと駆けて画面外へ消える。

 そこで記録は途絶えたようだ。

「それで、あの子たちはどこに行ったの?」

『五〇年前のオーヴァム大陸、アガスティアの町の大図書館です』

「そうじゃなくて、戻ってきた後よ」

『申し訳ありません。それは感知する機能がありません』

 オーロラの無茶な要求にも、ナビゲーション・システムの声は淡々と応じる。

「もう一度、同じところへ行くことはできるか?」

 ソルが口を開く。

『それは可能ですが、同じ瞬間には存在できません。記録された時間の後に転送することになります』

 同じ時間へ行けば会えるかもしれないが、その場合、ソルはソルに会えるのか。そうするとリリアたちの運命は変わってしまうのでは――とヒューは想像したが、そういうことにはならないらしい。

「機能を先に説明してもらった方がいいのでは。時間渡航と最大因果律予測、とやらについて説明していただけますか?」

 感情ではそれぞれに知りたいことはあるが、それでは情報が散り散りになって理解し難い。ソロモンは基本に立ち返るような質問をする。

『時間渡航は過去の任意の時間の任意の場所へ転送することが可能です。ただし滞在できるのは実時間の十分だけです。最大因果律予測は、現在の情報から最も起こり有る、任意の未来の時間の五分間の出来事を、最大で百年先までの間で予想します。ただし遠い未来になるほど予想の精度は下がります』

「未来が見れちゃうの? 凄いね!」

 ララが大き目をさらに丸くする。そのとなりで、レジーナは眉をひそめた。

「未来を見るって、怖くないかしら。予想が必ず当たるわけじゃないみたいだし……」

「うーん、特定の、任意の時間って指定されているってことは、それを繰り返して何度もできるわけじゃないんでしょうね」

『時間渡航も最大因果律予測も莫大なエネルギーを必要とするため、どちらか一方でも使うと一年は休眠を必要とします』

「どちらかだけか」

 質問の答を聞き、ヒューは頭を捻る。

 リリアたち一行はここで時間渡航機能を使い、アガスティアの大図書館で現在は失われている魔導書を見ていたのだろう。次の彼女らの目的を知るには、やはりあの本を読むしかない。

 方針は最初に記録を見たときからほぼ決まっていた。

「記録の場所へ行ってあの本を見ましょう……どこを見ていたかわかるといいんですが」

「たぶん、真ん中くらいだったと思うよ!」

「直後に行けば、クセがついてるんじゃないかしら」

 本棚のどの本を手にしたのかは、ヒューも記憶していた。その記憶がはっきりしているうちに行かなければならない。

「では……記録の直後の同じ場所へ、僕ら全員で」

『了解しました』

 拍子抜けするほどあっさりと答が返され、辺りは光に満たされる。青銅色の神殿からこの世界へ移動して来たときに似ていた。

 瞬きをする間に光は引き、風景は一変している。

 並ぶ本棚、遠くで聞こえる小さな話し声や物音。通路を歩く背中が目に入る。見慣れた服装と大した変わらない人間の姿だが、ヒューたちから見ると五〇年も前の人間だ。建物もアガスティアへ行ったときに見たものよりかなり新しい。

 しかし時間は限られており、目的以外を気にしている場合ではない。ヒューは本棚の目的の本に駆け寄り飛びつくようにして引き出す。

 〈続・魔導書イグニ〉。表題にはそう書かれていた。

「アガスティアでは見なかった本もかなりあるな……」

「あんた、眺めてる時間はないんだからね」

 ソルだけは魔導書の外に注意を引かれていたが、ほかの目はヒューの両手の上に開かれた本に向いている。自然と開いた項をパラパラとめくって少し戻ると、大き目の文字は〈大規模召喚魔法について〉と書かれている。

「紙とペンは……」

 ヒューが顔を上げると、ソルがペンと果てへの旅路について書かれた本を渡す。本の間には余った白紙も挟まっている。

 レジーナが本を持ち、ヒューが写す。その間に少女は文字を読み上げた。

「現在は使い手がいないが、かつては数十、あるいは数百が召喚されたことがあった。多くの召喚士が儀式を行い魔力石も用いて、広大な場所で……目的は戦力ではない、数だ」

 必要なさそうな部分は省き、彼女はできるだけ要点を読む。

 力が必要なら数より巨大なもの一体を召喚するのが御しやすい。大量に召喚されたのはあまり力のない者たちで、目的は奴隷として使うことだったのではないかと言われている。彼らやその子孫は〈赤い爪の民〉と呼ばれた。

 その中の極一部には魔法の力を持つ者もおり、帰る方法を探し求めた記録があった。しかし帰るには〈嘆きの柱〉で儀式を行うしかなく、その者は柱のある果てに辿り着けずに力尽きたという。

 帰るための儀式についても書かれていた。細かい文字列の並ぶ魔法陣にヒューはペンを握る手を止める。

「お兄ちゃん、これを使おうよ」

 妹が手に持ち上げて見せたのはひし形のペンダント。映したものを記録できる記憶石のペンダントはユーグで手に入れたものだ。

「一回しか記録できないから、ここに使おう」

 書き写すには時間がかかり過ぎるが、記録すればかなり時間を節約できる。

『残り三分です』

 頭の中に平坦な声が響く。それが一層、焦らせる。

「急ごう」

 ララもうなずき、記憶石の両端を押した。試しに映すと、しっかり撮れているようだ。

「伝承によると召喚に必要な魔法陣も嘆きの柱の祭壇に移動された。召喚士にも疑問を持つ者たちがおり、その手で封じられたとされる」

 大規模召喚魔法により異世界に呼ばれ奴隷とされた〈赤い爪の民〉はどうなったのか。それは気になるが、今は気にする時間はない。

『残り一分です』

「儀式には魔法陣だけでなく高い魔力、呪文が必要だ。呪文は神々への祈りとなる。この魔法は神々の望みにより生まれたものだからだ」

 それが最後の一文だ。

「もう時間が……」

 ヒューが顔をあげた瞬間。

 その腕の間から白い紙の束が滑り落ち、床の上に散り散りになる。ああ、と思わず声が洩れた。

「ここで書いたものは持ってるか? ならいい、放っておこう」

 ここで写したものはしっかり指で押さえていた。ばら撒かれた紙は以前ヒューが買った無地の巻物を丁度良い大きさに切ったものと、それにソルが本の内容を書き写したものだ。

『残り十秒』

 せめてできるだけ紙を拾おうとするが無情に告げられ、慌ててレジーナが本を戻す。紙の束をいくらか拾い、人の気配を感じて慌てて人目につかない角へ移動する。

 ――あの紙が歴史を変えてしまわないといいけど。

 手もとの白紙をヒューが見下ろしたとき、視界が光に染まる。世界に色が戻ったときには、あの装置と画面が目の前に戻っていた。

『帰還処理終了。これより休眠に入ります』

「あっ」

 なにかを思い出したようにソルが声を上げたときにはもう、装置は目覚めたときの逆回しのように灯が次々と消え始めていた。

「この装置がいつ誰に造られたかとか、由来を先に聞いておくんだったな」

 後悔しても後の祭りだが、仕方のないことだ。皆、それぞれが追い求めている姿の方に夢中だったのだ。

 最後の光が消えると辺りは静まり返る。最初から何事もなかったように。

 暗くなった神殿を出ていこうとしたとき、小さく、キュルルという音が鳴る。無意識の音のもとを探した視線の先には、腹を撫でる幼い少女。

「なんか、もうお腹すいちゃった」

「ここでは時間の経過がわかりにくいけど、もう結構経ってるだろうし」

 昼食後に木こりの家を出て温泉に着くまでにも数時間は経っていた。すでに夕食の時間帯には入っているはずだ。

「外敵もいなさそうだし、ここで休みますか」

「時間がわからないのは困るけど、山で夜営よりはマシよね」

 神殿の外、苔むした太い枝の上に布を敷いて夕食にする。気温は暑くも寒くもないが、湯を沸かすためだけにヒューが空中に短い間だけ火球を出現させた。

 豚の腸詰入りのパンとチーズ、果物で夕食を済ませてハーブティーを飲む頃には、頭の中で情報を整理する余裕が生まれていた。ララとソルは早急にカップを空にして、枝のあちこちに移動しては木々の間に見える建物を探していたが。

「元気ですね……ま、今できることはありませんが」

「そうね、出たらすぐにバサールに連絡して移動になるし。どうにしろ北の果てに行くけど、記憶石の記録を拡大してもらわないと」

 大規模召喚魔法の帰還方法を流用できるなら、オーロラとソルも嘆きの柱で記録した魔法陣を使えばそれぞれの世界に帰還できるはずだ。すぐに帰ってしまうのだろうかと、少年はやや不安になる。果てでなければ帰還できず、果てまでは簡単な道のりではない。

 しかしそれより、少年の脳裏に引っかかるのは最後の一文。

『この魔法は神々の望みにより生まれた』――

 それはどういう意味か。

 ふと思い出す。バサールが口にした『この世界の神々は酷い』ということば。

「そろそろお休みしませんか。明日は早いでしょうし」

 医師の声でヒューは我に返る。妹と魔族は仕方なさそうに、しかしどこか満足そうな表情で戻ってきた。

「色んな建物があったよ。塔が木の幹に入り込んだり、家が斜めになって枝に引っかかったりしてるの」

「この神殿と違って、ほかはかなり古びているな。ここだけ時代が違うようだ」

 やはり、神殿は超科学文明のものであり、街らしきものの残骸とは時代が異なるらしい。

 ソルはもう少し話したかった様子だが、少女があくびをするのを見ると休むのを優先したらしかった。


 冥府は昼も夜もない。身体の欲求のままに眠り、自然と起きたいときに目覚めるだけだ。

 ヒューが起きたときにはすでにソロモンが目覚めていた。挨拶を交わして朝食の準備をしているうちにほかの皆も目覚め始める。

「なんだか、妙な夢を見たような……」

「あたしも変な夢見たわ」

 ソルのことばに、あまり眠れなかった様子のオーロラが八つ当たりをするような調子で声を重ねた。

「白い象がいてね、身体が痒いから揺するんだけど、揺するたびに背中に緑のカビが生えてくるの」

「それはまた、嫌な夢ですね……ソルさまは?」

 朝食用のハーブ鶏の燻製を挟んだパンを渡しながら、ソロモンはまだ眠そうな魔族にそう尋ねる。

「長くなるから、帰りの道で話す……それにしても、どう帰るんだろうな。とりあえず、来たところに戻ってみるのが良さそうだけども」

 彼自身も含むリリアたち一行も一度ここへ来て帰っていったのだから、元の世界に帰ることができるかどうかは皆心配していなかった。ただ、その手段がこのときにはまだ判明していなかっただけだ。

 それも、ここへ来て目覚めた場所へ戻り、大木の幹の一部に温泉の岩に浮き出た赤い傷と同じものが刻まれているのを目にするまでだった。

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