第24話 過去からの悪意

 あまり陽の入らない部屋に唯一の窓から差し込む光に、一見して高価とわかる椅子に座る老人の姿が半分だけ照らし出された。身にまとう装飾が薄暗い中でも宝石の輝きを放つ。

「城の魔術師たちもざわめいていたぞ。あのような強い魔力は今まで感じたことはないと」

「同行した魔術師たちも、見たことのない魔法、魔力だと申しておりました」

 暗がりに一人の男が膝をついていた。あまり広くはない室内にいる人間は二人だけだ。

 身なりの良い老人は一拍の間、考え込むようにして顎に手を当てる。

「ふむ。味方に引き入れられれば強力な戦力となる。しかし引き入れに失敗すれば障害となるだろう。……その者を見つけ出し捕らえ、勧誘せよ。それが無理なら始末すべし」

 その命は、跪く男にとっても想定内だったらしい。

「御意」

 流れるように答え、部屋を出る。

 室内に比べ廊下は明るく、胸に将軍の地位を表わす紋章のついた儀礼的な鎧を着こんだ男はしばしの間、目が慣れるのを待つ。やがて視界がはっきりすると、命じられた仕事をこなそうと歩きだす。

 すると、下へ続く階段の前で同じような鎧を着た、彼より若い姿が足を止める。

「本当なんだな? あの怪物を消滅させるヤツがいたってのは」

 前置き抜きのことばに、彼より年上の将軍は咎めることなくうなずいた。

「驚いたことに、異質な力を上回る異質な力を持つ者がいるようだ」

「へえ、じゃあ、例の話、やっぱり前向きに考えた方がいいな」

 黒髪の若い将軍が腕を撫で上げるのを、茶色の髪を切りそろえた中年の将軍はあまり感心できない風に眺めるが、ことばはなにも発しない。

「それ、ボクの知り合いかもね」

 唐突な声に、二人の将軍は反射的に剣の柄に手をかけながら振り向く。

 気配も姿もなかったはずの場所に気配が生まれる。声の主は階段横の手すりに腰かけた、白い髪の少年だ。裾がすり切れたような白い法衣のような服をまとい、右目は銀色の金属の仮面のようなものに隠され、目に当たる部分は黒い穴が開いていた。

「知り合い……? では人間ではないのか、コハク」

 名を呼ばれ、少年は口もとだけで笑う。決してわかり合えない生物の意図のわからない挙動のごとき、どこか冷たいものを感じさせる笑み。

「そうだよ……知人のよしみだ。少しちょっかいをかけてこようかな」

 ことばを最後まで言い切らないうちに、出現したときと同様にその姿は忽然と消えていた。


 一台の風変わりな馬車が草原を駆けていく。

 世にも珍しいユニコーンに牽かれたそれは、素早く、できるだけ人里から離れるように進路をとった。そうでなければ立ち寄った町で休憩もできただろうが、ここより北の町などほとんどが帝国の支配下だ。

「今のところ、不審な姿もなさそうね」

 視界は良好で、近づくものは人も獣もない。ユニコーンは強靭な脚で馬とは比較にならない速さで走っているため、大抵の相手は振り切れそうだが。

 それでも、レジーナは油断なくボウガンを手にしていた。

「そんなに集中しなくても。座ってるだけで疲れちゃうわよ」

 荷台は乗り心地がいいとは言えず、毛布を重ねて敷いて少しはましになったものの凸凹した地面を走るだけでかなり揺れた。聖霊もずっと縁をつかんでいる。

「帝国領だと思うと不安でね」

「本隊は別のところに行ってるんじゃないでしょうか。巡回はあまりなさそうですね……警戒するに越したことはないですが」

 と、ソロモンはなにかを確認するようにとなりに目をやる。まだ助手がいないことに慣れていないらしい。

 ユニコーンの手綱はエリスが握っていた。ソルは行く手を眺めているようで、どこか遠くを見ているようだ。

「ソルさま、なにか気になることでも?」

 医師の問いに、魔族は振り返って真っ直ぐ目を見返す。

「今気になっているのは……エリスの姉が洞窟にこもる、魔法的な理由というのはどういうものが有り得るのか、と思っていて」

 昨日のやり取りについては、ヒューの記憶にも印象深く残っていた。今はとりあえず現場を見てみよう、という心持になっていたが。

 ああ、と納得顔を見せてから医師はチラリとエリスを一瞥し、声の大きさを落とす。

「この世界にも、吸血鬼、というものがおりまして」

「ああ……」

 周りで聞いていたヒューとレジーナも納得する。

 吸血鬼。血をすすり若さを保つ、高い魔力を秘めた種族だ。気に入った相手を見つけると牙を突き立てて血を交換し、種族を増やす。日光や聖なる力を嫌うと伝えられている。

 神話伝承で目にする程度だが、一般知名度はそれなりに高い。

「だから、昼間は洞窟か」

 日光を避けるため、吸血鬼のような闇の眷属は夜に活動的になる。エリスの姉の行動は吸血鬼に噛まれた場合でも有り得るものだ。

 ただ、吸血鬼が出たという具体的な話はヒューも耳にしたことがない。すでに絶滅した、あるいはもともと伝説上の存在だ、冥府だけにいるのでは、という説もある。吸血鬼になった者を元に戻す方法、というのも伝えられていない。

「その可能性は低いでしょうが、もしそうなら絶望的ですから」

 さすがに医師も、吸血鬼の治し方までは守備範囲にないらしい。

「面倒な病気などでないといいが」

 魔族は肩をすくめ、遠くの運河に目をやった。

 行く手には小さく森や山並みが見えているが、まだはるかに遠く、草原と荒野が横たわる進路に遮るものはない。帝都の近くには煉瓦の街道が見えたが、離れるとすぐに視界に入らなくなった。

 たまに休憩を挟み、クラリスの弁当の味を噛みしめながら、陽が落ちるまで進み続ける。もうクラリスの手料理を口にすることも、彼女の入れた茶を飲むこともないかもしれない。

 しばらくの間はソロモン以外も寂しさを覚えそうだ。

 陽が暮れてくるとエリスは手綱を緩め、小さな林へとユニコーンを導く。

「あれは……?」

 林の近くに、黒くすすけたような街並みが見えた。火事にでも遭ったように焼け焦げ、崩れている建物も多い。

「ああ、イスコルデだ。半年くらい前に帝国に滅ぼされたんだ」

 黒い山のような街並みが夕日に照らされる。そのそばの林に入って間もなくのところで馬車は止まる。

「イスコルデ……?」

 その単語を反芻するように、ソルがつぶやく。

「それも聞き覚えがありますか?」

「そんな気がする……でも思い出そうとすると、なにかに邪魔をされるようにもやがかかるんだ」

「となると、記憶は封じられたんでしょうか」

 二人の会話に、ヒューは不安を覚える。ソルがこの世界を訪れた記憶を封じられているとしたら、この世界に召喚してしまったことで厄介事に巻き込まれるのでは?

 その心配をよそに、ソルは思考を目の前のことに切り替えたようだ。

「野宿の準備をしよう。小川か泉でもあればよかったけどね。まあ、一晩くらいはなんとかなるだろう」

 野宿もすでに手慣れたものだ。寝床と焚火を準備すると、布を木々の間に吊るし周りに囲いを作る。外から目につかないための処置だ。

 食事は森で持たされたパンを切り、携帯食の干し肉と薬味用ハーブ、食用の野草を刻んで挟んだものとハーブティーで済ませる。クラリスのティーセットはレジーナが譲り受けていた。

「ユニコーンも、こうしてみると馬と変わりないな」

 食事が終わると、ソルはユニコーンに水を与えて首筋に触れてみる。ユニコーンは長時間全力で走っても汗ひとつかかないが、木につながれると地面の草をはみ、その仕草は大型馬と差はない。

「ユニコーンは邪悪なものを前にすると角で突くらしいですが、ソルさまは敵と認識はされないようです」

 焚火のそばで食後の茶を飲みながら、ソロモンはそう評した。

「なるほど。どおりで、あんたが近づかないと思ったわ」

「いえいえ、こんな純粋な目をしたわたしが邪悪なはずないじゃないですか」

「純粋っていうかしらじらしい」

「ふてぶてしい」

 女たちのことばに医師が大げさに肩を落とすのを横目に、ヒューは魔族の様子を気にしていた。時折、彼は木々の間からイスコルデの廃墟を眺める。

 そこはヒュー自身も気にはなる。ハッシュカルに似た雰囲気の黒く染まった街並み。半年も経っていては生々しい痕跡は薄れているだろうが、代わりに獣や犯罪者が潜んでいる可能性はある。

 ソルはそれからもイスコルデを気にはしているようだったものの、結局、なにもことばに出すことはなかった。

 ――しかし、世界が闇に染まった深夜。

 そっと離れていく気配を感じて、見張りのために起きていたソロモンがチラリと木々の向こうの闇を見やる。

「やはり、気になるようで……」

「ついて行きましょう。一人にはできないし」

 ヒューもまた眠ってはいない。同じく、オーロラも身を起こして息を吐く。

「危険がありそうならあたしも行かないとダメでしょ。ここはレジーナとエリスに任せるわ」

 ララとエリスはすっかり寝入っているが、レジーナはいつでも手に取れるところに置いてあるボウガンを手に取り座りなおしていた。

「こちらは任せて。そっちこそ気をつけてね、なにか隠れているかもしれないし……」

 闇に閉ざされた廃墟は見るからに危険だ。ヒューは幼馴染みのことばをしっかり胸に刻み、木々の間を身を低くしながら抜ける。

 周囲はなんの気配もなく、脅威は見当たらない。しかし満月に近い月明かりに照らされ、林を抜けると予想外に明るく、咎められたようにドキリとしてしまう。

「行きましょう。気づかれそうですが、ソルさまは振り切ろうとはしないでしょうし」

 ソロモンは周囲の明るさを気にせず、先を行く影に眼鏡を向ける。強い月光の下、ヒューとソロモン、オーロラの順で半ば闇に溶け込んだ廃墟の街に入る。

 近づくにつれ、独特の臭いが鼻腔をくすぐる。だいぶ薄いが、ハッシュカルで覚えのあるものだ。道の脇にはなにかの残骸が積み上がっており、形を留めている建物は少ない。

 少年たちから少し離れた前方、月明りに照らし出された魔族の姿は、周囲を見回しながら道の真ん中を奥へと進む。

「……?」

 不意に、黒衣が足を止める。

 彼の耳に、小さな泣き声が届いた。建物だったものが並ぶその隙間を覗き込み、すぐに声の主を見つける。

 赤茶の目に映ったのは、うずくまる一人の少年。

「どうした?」

 声をかけた直後、その身が後ろに引っ張られる。崩れ残った壁のやや高い位置に背中を打ち付けられ、首になにかが食い込み息が詰まる。

 いつの間にか、白く細長い布のような物が手首や足首、身体のあちこちに絡みついている。

「ぐっ……なに……?」

 咳き込みながら見下ろす目には、地面を擦りながらあの建物の残骸と残骸の間の暗がりから伸びた白い筋が映る。

 その筋を辿り、白い少年が歩み寄る。薄い笑みを浮かべた白い髪の少年の顔は、右上の大部分が武骨な仮面に覆われている。

 ソルは目をみはる。それは少年の仮面が原因ではない。

「キミ、は……どこかで……?」

 魔族の視線が釘付けになるのは、少年本来の顔立ち。

 少年はわずかな間驚いた顔を見せるが、それはすぐに意地の悪い笑みに塗り変えられる。

「へえ、完全に忘れたわけじゃないんだ。じゃあ、記憶の中のボクを消し飛ばすためにイタズラしちゃおっかな」

 その身を縛り上げる布がさらにきつく縛り始め、喉に食い込む感触に魔族は顔をしかめる。

 そこへ、木の葉の蝶が勢い良く飛来して布を切り裂いた。支えを失い落下する黒衣の姿は、地面に衝突する前に白衣姿に受け止められる。

「大丈夫ですか、ソルさま」

 咳き込んだのが少し落ち着くと、短剣の柄に手をかけたままのヒューが訪ねた。ソルの後を追った三名は、一気に距離を詰めて追いついている。

「ああ……大丈夫」

 少しぐったりしているものの、特に怪我をしている様子もない。その目は正面を向くが、白い法衣の少年の姿はすでに消えていた。白い布もまるで雪のように細かく散り散りになって消えていく。

「あの少年、確かにわたしを知っていた。やっぱりわたしの気のせいなんかじゃない、わたしはこの世界に来たことがあるんだよ」

 信じてほしい様子で必死に告げるのを否定する気にはなれないが、それを認めるのは重いなにかを背負うことになりそうで、ヒューは聖霊と顔を見合わせる。

「今までの状況的に、そのようですね」

 医師は相手に手を貸しながらすんなり肯定した。

「なんのために、誰と、誰に召喚されたのか……なぜ記憶がないのか。謎は尽きませんが、わたしが心配なのは記憶そのものが原因で記憶を失っている場合です」

 と、彼は医師らしいことを口にする。

「記憶そのものが……ってことは、頭を打ったとかじゃなくて、ひどく辛い目に遭ったせいで記憶が飛んだとか?」

「誰かに封じられたという可能性もありますが、どちらにしろ厄介ですよ。記憶が戻ると精神崩壊の可能性もあるわけで」

 聖霊と医師の会話を、ソルは指で頬の紋様をなぞるようにしながら聞いていたが、やがて口を開く。

「でも、わたしは知りたい。今のままだと宙ぶらりんの状態のようで嫌だ。それに、この世界にまた召喚されたことにも意味はあるのかもしれない」

 周りからすれば心配の種が増えることではあるが、彼の立場からすれば、それは当然と言えた。

 ソロモンは嘆息し、立ち上がったソルの肩に手を置く。

「そうですね……もう、この世界に来たのを切っ掛けに思い出し始めているようですし。でも無理に思い出そうとしたり、自分だけで悩まないでくださいね」

 優しいことばに魔族は少し戸惑うような顔をしたあと、ほほ笑んで素直に、うん、とうなずいた。


 石柱の森を出て東へ徒歩数日のところにあるアネッサの町だが、ユニコーンの速さでは一日と半日程度の距離だ。地図を広げると、ゴスティアからかなり離れていることがわかる。

 随分と遠くへ来たものだ――山々を背後にする街並みを前に、ヒューは地図を巻いて戻す。

 街並み自体も緩やかな坂に広がっており、大きな階段上に建物が並んでいるようだった。最下段は畑が広がっており、それが門と見張り小屋付きの鎖と鉄杭の壁に囲まれていた。

 帝国から遠くない割に防衛に力を割いているように見えないが、見張りやすく避難しやすい地形ではあるかもしれない。

「珍しい馬だ。見るからに帝国のものではないね」

 馬車が門に近づくと、門番たちはしきりに一角の白馬を珍しがった。

「意地悪すると目を突かれるんだよ。この人たちの身分はアタイが保証するわ」

 エリスが自分の住所を告げると、すぐに門を抜けられる。しかしこの町は階段が多く馬車で移動するには向いていない。見張り小屋の門番たちが、喜んで預かってくれた。

 ヒューたちは畑の間の石畳の道を歩き石を積み上げた階段を登る。街並みは石を積んで土台を平らにした上に造られ、その土台の側面には等間隔に穴が開いている。下水が運用されているようだ。

「あれ、なんだろ?」

 ララが指を差したのは山に近い辺りの空中だ。山肌に空いた穴から近くの建物に太い縄が通され、滑車のついたトロッコが行き来している。その下にはレールの上を走るトロッコも見えた。

「鉱物運搬用のリフトですね。風力で自動化しているようです。さすが、この辺りは技術水準が高い」

 ソロモンが見上げた視線を追い、ヒューたちは山の上の木々の向こうで風車が羽根を回していることに気がつく。

「採掘の盛んな町みたいね」

「へえ、ララはトロッコ乗ってみたいなあ」

「危なそうじゃない? 別の大陸に走ってる列車には乗ってみたいけど」

 賑やかな通りを歩きながら、とりあえず食事処を探す。昼食時が近いため露店の客引きの声も飛び交い、それを買い求める客には鉱夫らしい姿が多い。

「とりあえず、アタイん家で昼食にしよう。なんか買っていこう」

「なら、奢りますよ。どうせ一人分増えるだけだし」

「ホント? じゃあれにしよう。評判の店だけど、一人じゃ食べ切れないから」

 ヒューが申し出ると、エリスは目を輝かせてとある露店を指さす。

 そこはどうやら、具沢山の分厚いキッシュを売っているらしい。肉や海鮮、野菜に木の実やハチミツなどを使ったものと、いくつも種類があるようだ。

 馬車移動の間はあまり多くの食料を口にできなかったため、重めのものがいいのではないだろうか。肉か、野菜と肉の入った定食キッシュにしようと迷った末、財布を握るヒューが定食の方に決めた。

「おお、ありがとう。何年か前にも来たことあるよね、お嬢さん」

 注文したヒューを見てそう言ってから、店主は目を丸くする。

「おや……これは失礼、男の子か。確か、そっちの黒尽くめの姿も見覚えあるんだけどなあ」

「本当か? それはいつ?」

 ソルが即座に尋ねると、店主は驚きながら首を振る。

「あれはもう……半年以上は前かな。あの少し後に、イスコルデが帝国に襲われたと聞いたはずだから」

「はあ……少なくとも、僕はここは初めてですけどね」

「似てると思ったんだけどな。ま、ウチに来たのは女の子には違いねえ」

 他人の空似、で片づけていいのか。ヒューは不条理な気分を味わい、ソルやソロモンの心境の一部を共有した気がした。

 だが、それもわずかな間だ。まるでケーキのような厚いキッシュは湯気が立ち、食欲をそそるハーブや肉の香りを漂わせている。それを嗅ぐと細いことは気にならなくなり、腹の虫が鳴る。それはヒューだけではないらしくエリスも急かすように家へ案内した。

 エリスの家は山に近い段の端にある。小さいが白い外壁と綺麗な模様の窓枠が特徴的な二階建ての家だ。

 木製のドアを開けるとすぐ、台所兼居間になっている。木のテーブルと椅子はかなり使い込まれているようだ。

「住んでいるのはあなただけなの?」

 屋内には一行のほかに人の気配はない。案内されたテーブルの椅子から、レジーナは茶の用意をするエリスの背中に声をかける。

「今は無くなってしまったけどこの町には昔、孤児院があったの。アタイと姉さんもそこの出身なんだ。だから、家族はもともと二人だけだよ」

「なるほど……」

 孤児院、と聞いてレジーナは少し複雑そうな表情をした。

 エリスが入れたハーブティーと切り分けたキッシュで昼食を終える。この味を自分に似た少女も食べたのかもしれないと思うと、ヒューは不思議な感覚を抱くが、噛みしめるとそれも遠のく。値段はある程度するが、それに見合う以上に美味しい。

 ――帰ったら、お祖父ちゃんに作れるかきいてみようかな。

 いつかまた食べたい、と思えるほど。切り分けた残りはエリスが大事に包み、姉に持っていくことにしたようだ。

「姉さんのとこ、あまり遠くないよ。あっちはあまり、人が近づかないけどね」

 昼食を終えると早速家を出る。ララは名残惜しそうにリフトやトロッコの方を振り返るが、向かう先は逆方向だ。坑道のない山の縁に沿って緩やかな上り坂を歩くと、岩山や林の点在する草原に出る。

 その岩山のひとつに、人一人通ることができる大きさの穴が開き、そこが柵のような扉で封じられていた。

「姉さん、お客さんが来てるんだ。ソロモン、っていう医者も一緒だ。それで、昼食に美味しいキッシュを買ってもらったから食べてね」

 エリスが柵の前で声をかけると、洞窟の奥の暗がりから女が現われる。エリスとよく似てはいるが、細面で色白で、スカーフからわずかにのぞく首も細く、どこか薄幸そうな雰囲気がある。

 彼女は柵に近づくと、細い目を見開く。

「リリア……?」

 小さく首を傾げ、声をかけたのは少年だ。だが、すぐに首を振る。

「いえ、ごめんなさいね。知り合いに似ていたもので」

 既視感。

 そして、聞き覚えのある名前だった。思い出して、少年が鞄の中から取り出したのは〈魔導書イグマ〉。その中身ではなく、挟まれた栞にその名はあった。

「そういえば、どこかで聞いたような。その人はどこに?」

「わからないわ。街の雑貨屋さんで働いていたときに何度か会って、話をするようになったの。彼女、イスコルデから来ていたみたいだけど――」

 リリアと名のる少女が話した身の上話によると、彼女は幼い頃、とある夫婦により川べりに倒れているところを発見され、我が子同然に育てられたという。

「リリアという名前は、わたしも聞いたような……」

「リリアはお姉ちゃんの名前だよ」

 ソルが口を開く横で幼い少女が言うと、一瞬、辺りは静まり返る。

 そのわずかな間に。

 ヒューの脳裏にも甦っていた。遠い昔に両親や祖父母に聞いた話。

「ずっと前、お祖母ちゃんから聞いたもん。会ったことはないけど、お兄ちゃんより上のお姉ちゃんがいたって。でも川に流されちゃったんだ」

『ヒューがまだ赤ちゃんの頃にいなくなってねえ……残念だけど亡くなってしまったんだろうね。とても賢くて、可愛い子だったよ。赤ん坊だったヒューの面倒もよく見てくれてね』

 少年の耳にありありと思い出される、祖母のことば。

 川に流されて亡くなったはずの姉。川べりに倒れていた少女。

 不思議な話だが、同一人物であってほしいと思わざるを得なかった。

「……でも、イスコルデはもう。最後に会ったのはいつですか?」

「半年よりは前のはず。それからは見かけてないわ」

 リリアという少女はイスコルデが滅びると同時に亡くなったのか。そうでなくても、ここで手掛かりは途絶えてしまった。

 姉とは限らないが、どうしても気になる。もしかしたら生き別れだったのが再会できるかもしれないし、祖父も会わせてあげられるかもしれない。

「それにしても……」

 黙って話を聞いていたソロモンが考え込むように顎をつまんだまま口を開く。

「ソルさまだけでなくヒューさんララさんもこれですからね。まるで、わたしの偽物は我々を誘導したかのように思えます。それが罠かはわかりませんが」

「でも、セラさんがここに入ったのはあんたの偽物が原因なんでしょ?」

 聖霊が医師に言うのを聞き、柵の向こうで女が目を丸くするのが、薄暗い中でもはっきり見えた。

「いえ……あたし、これまでソロモンという医者にあったことはないですけど」

 エリスも、その他の皆も愕然とする。

 しかし、エリスがソロモンについて聞いたのは姉自身からではない。勘違いというのは、よく考えれば有り得ることだった。

 では、一体なにが原因なのか。

「言いにくければ皆には離れてもらいます。なぜ、あなたはここに入ったんです?」

 医師のことばに、セラは少しの間戸惑うように言いよどんだあと、

「それは……これが原因なんです」

 シュルリ、と首の周りからスカーフを解く。

 彼女の細い首の喉仏の下あたりに、親指の先ほどもある大きなイボが突き出していた。

 セラは赤面し、少し涙目で柵の向こうを見る。

「これじゃあ恥ずかしくて外も出歩けないし、声を張るとかすれて変な声になるし……治せるなら、治したいです!」

「は、はあ……魔法では無理なので普通に外科手術ですが、治せますよ」

 答える医師の声には、拍子抜けしたような響きが混じる。

 それを見届けた周囲の者たちも、気が抜けたような顔で喜ぶセラの様子を眺めていた。


 セラの手術はそれほど時間がかからず終わり、しばらく経過を見ようとなる。まだ陽も傾き始めたところだが、一晩この町に泊まろうという流れだ。

 特にほかにこの町で用事があるわけではない。ララの希望もあり、ヒューたちは坑道を、正確にはその入口を出入りするトロッコを見学した。中へ伸びたレールを走るトロッコは土をのせて外へ出ると、土の山の前で停止し土を棄てて空の状態で中へ戻される。動かすのは三人の男が押し出し、あとは勢いだけだ。

「良かったら乗ってみるかい?」

 見物人たちに気がついた男の一人が声をかけると、ララは歓声を上げた。

「いいの? 乗りたい!」

「一人じゃ危ないかもしれないから、僕も」

 トロッコに向けて走り出す妹を、慌ててヒューも追う。

 しかし、トロッコに心を惹かれたのは兄妹だけではない。

「トロッコに乗るのも楽しそうだな。わたしも!」

 目を輝かせてあとを追う魔族を見送り、残されるのは三人。

「ソルさまは楽しいことが沢山あっていいですね」

「子どもなんじゃないの、あいつ……」

「そういえば、クラリスが言ってましたね。精神が洗練されると、余計なものが削がれてむしろ幼く見えるようになるって」

 どこかを見上げるようにして遠い目をする医師に、聖霊はあきれたような視線を前方からとなりにずらす。

「あんた……別れた女のこと思い出すようなことやめなさいよ」

「そういうわけでは……しかしまあ、今夜は一杯飲みたい気分ですね」

「あら、いいじゃない。それなら付き合ってあげるわ」

 表情を一変させる聖霊に、今度はレジーナがあきれの視線。

 瞬間。

 カーン、カーンと鐘の音が響く。石柱の森で聞いたものと似ていた。

 街の空気が一変し、静まり返る。

「あれは……?」

 思わず、ヒューは声をひそめて問う。

「ああ、見張りが帝国軍を見つけたんだな。あの鐘の打ち方だとこっちに向かってるわけじゃないからあまり気にすることはないさ」

 言いながらも、男の声は緊張していた。

 さすがに放置はできないと、ソルが少し名残惜しそうにトロッコを一瞥してから離れる。

「わたしが下へ詳しい話を聞いてくるから、待ってるといい」

 彼が階段を下りていく頃には鐘の音も止み、町は日常に戻っていく。何事も発生しなかったかのように。

 やがて、間もなく黒衣が戻ってくる。

「南西から帝国の騎士団が戻っていたそうだ。こちらは見向きしなかったらしい」

 南西、といえば思い出されるのはゴスティアだ。となりのイルニダが襲撃されたばかりで次の標的にされてもおかしくない。エルリーズ博士らの消息がヒューの脳裏をかすめた。

 それ以上に気にかかるのは、ゴスティアより南から帝国軍が戻って来た場合だ。惑いの森は結界に守られているにしても、シルベーニュは標的にされるかもしれない。

「早めに戻りましょう。セラさんは誰かに任せられませんか?」

 この町にも、医師の一人くらいはいるのではないか――少年はそう思いついた。

「あとは消毒とお薬くらいですから、姉妹に必要な道具を渡して、やり方を教えておきましょう」

 必ずしも医師がついていなくてもいいようだ。

 エリスとセラの家に一度顔を出すと、一行は見張り小屋でユニコーンの馬車を返してもらい、門を出て南へ急ぐ。追い立てるように西日が強く照り付けるが、宵闇がすっかり世界を飲み込んでも、ユニコーンの力強い脚は止まることはなかった。

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