第二話

 波動となった声が音叉のように広がり、次第に消えていくのを感じる。


 私は拝礼していた姿勢を戻した。

 最後に柏手を打ち、目を開ける。


 空気がおおよそ清浄になったのを確認し、小さく息を吐いた。

 ……熱田の祖父上のように、一度にすべてを祓えるようになるには、まだまだ精進が足りない。


「儀が終わりました。どうぞ、お楽になさってください」


 皆に言葉をかけると、一様に息をついた。簡素であっても、儀式は気を張るようだ。


「……澄んでおるな」


 空気が変わったことで、父上は広間が淀みかけていたことに気づかれたらしい。


「一度に浄化……というわけにはいかぬようですが」

「いや。そなたの歳ならば、充分であろう」


 自嘲気味に申し上げたが、父上は褒めてくださった。


「心身の改まったところで、舞を頼む」

「承知致しました」


 私たちの会話を聞いた弟妹、異母弟たちは、それぞれの母上たちと、「舞が見られるのですか?」「ええ。楽しみですね」と小声で会話をしている。

 その様子に心が温かくなるのを感じながら、懐からを出した。


 左手は腿に置いたまま、右手で体の正面、一咫半ひとあたはん前に扇を置く。



 ──舞の師が、指導の際に「扇は現世と幻世の境界線」と仰っていた。

 扇の内側に入ることで身を清め、幽玄の世界を体感することができるのだと。


 扇と自らの間に両手をハの字に揃えて置いた。

 頭から腰までが一直線になるよう背筋を伸ばして、礼をする。


 見てくださる方々に、そして、舞わせてくれるこの場に感謝を──


 ──~♪


 義兄上たちが、前奏を奏で始める。


 一小節過ぎた辺りで姿勢を戻した。同時に左手を腿に戻し、右手の指で、扇の骨を持ち上げるようにして手に取る。


 こくり……と、弟たちが喉を小さく鳴らすのが聞こえた。


 ──~♪──


 前奏が終わると同時に右足を引いて立ち上がり、『構えの姿勢』をとった。

 背筋を伸ばして肘を張り、手を腿に添え、踵を揃えて爪先を少し開く基本の型である。


 この時、膝はをわずかに曲げる。

 また、此度のように右手に扇を持っている場合は、扇の天を腿につける。



「〽春風」


 自ら謡い、扇を顔の高さまで上げていきながら、摺り足で右回りにゆったりと真円を描く。

 左手を袖口から引っ込めて、袖の中で肘を張った。


 一周して正面を向き、足を『構えの姿勢』にして止まる。



「〽ひらく」


 顔の前にかざした扇を一ヶ所開く。

 パチ──と清澄な音が小さく響いて、扇面の薄紅がちらりと見えた。



「〽苑中の梅」


 扇と袖から出した左手で、上からゆるく弧を描く。

左右を同時に、外回りに一周したら、顔の斜め上で留める。



 ──春風はまず、宮中の庭園の梅を開花させ──



「〽櫻杏おうきょう 桃梨とうり 次第に開く」


──ゆすらうめ・あんず・桃・梨と次第に開花させる──


 〝開く〟のところで、扇の要を押さえた右手首を返して、扇面をふわりと見せた。

 

「わぁ……っ」


 妹は綺麗な色が見えたことで思わず声を上げ、叱られるのではと、慌てて小さな両手で口を押さえていた。

 母上がひそやかに「綺麗ですね」と微笑まれ、妹も頷きながらほっとしたようだった。



「〽薺花せいか 楡莢ゆきょう 深村のうち


 ──山深い里では、なずなの花を咲かせ、楡のさやにも吹きわたる──



「〽またう 春風我がためきたると」


 ──それから言うのだ。春風が私のために来てくれたのだと──



 ──~♪──


 曲が終わり、余韻を残しながら、開いていた扇を閉じる。

 扇を一度懐にしまい、その場で静かに腰を降ろして正座をする。


 懐から取り出した扇を体の正面に置き、手を床につけて礼をした。






〔註釈〕

一咫ひとあた半:親指と人差し指を90度に開き、直線で結んだ長さの1.5倍。

〽:庵点。和歌などを歌謡する際、歌詞の始めに置く記号。


舞の最初と最後の礼について:流派によって異なります。頭を下げた際に首が見えるのは、無作法とされます。背筋の延長線上に頭頂部があるのが良しとされています。


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