第三話

 その夜。ほの暗い私室にて、唯一の光源である灯明皿の小さな火を、何とはなしに見ていた。


 もうすぐ亥の刻の初刻午後9時

 私を気遣い、「今しばらく、こちらに控えておりましょう」と申し出てくれた近江さんを、明日の業務に差し支えるゆえと説得してさがらせたのは、もう半刻1時間も前になる。


 ゆらり、ゆらりと、空気の流れに従い揺らめく火は、少しずつ、だが確実に灯芯を燃やしていく。



 貴重な油が灯芯にじわじわと吸われていくのを、目に入れながら散じていた意識は、かすかな呼びかけにて、一つへと戻った。


「何用か」


 声の主──主厨長さんに問う。


「火急の件にて」


 極限まで抑えた声量であるにも関わらず、御簾と几帳を通ってこちらまで聞こえるのは、やはり特殊な訓練を受けた者に相違ない。

 

 私が入室の許可を出すと、わずかに御簾が動く音がした。

 瞬く後には、下座に片膝をついて控える主厨長さんと、もう一人の姿があった。


「このような時刻に、申し訳ございません」

「構わぬ。今しばらく、起きていようと思ったゆえ」

「左様にございますか」


 主厨長さんが小さく苦笑した。

 申したいことは次のようなものだろう。「(子どもの身ゆえ)早く休まれたほうがよろしいかと」さらに「このような時刻に訪問する我らが言えることではありませんが」と、この辺りか。

 多少の言葉は違えども、内容は大差ないと思われる。


 まばたきひとつで理解していることを伝え、本題に入る。


「用とは」

「はい」


 姿勢を改めた主厨長さん。


「私は泉親衡ちかひらと申します。祖は源満快みつよし殿であったと」

「そなたも、清和の流れを汲む者であったか……」

「はい。源為公ためとも殿の頃より信濃にと聞いております」

むかし信濃守でいらした……左様か」


 確か……信濃に根を張るため、源姓の子孫が伊奈氏、信濃村上氏、依田氏、片切氏、飯島氏などの祖となり、信濃各地に勢力を持ったと書物庫の文献にあった。

 泉氏は、伊奈氏の一族だったと記憶する。そして、世相により忍びの業を会得したと……

 しかし。


「何ゆえ、私にうじの話など致すか」


 家長代理の朝長義兄上に申し上げるのならば、道理であろうが。


「大殿のご指示にございます」

「父上の……」

「はい。大殿は大局を見ておられます。ゆえに、『今宵』と」


 主厨長さん──親衡殿は「これよりは、この小助が繋ぎを致しますれば」と、部下を紹介した。

 それは、厨丁のうちの一人だった。


 私は10代半ばほどの小助を見据え、口を開いた。


「一つ問う」

「何なりと」

「そなたらは、物見偵察は何とする」

「それも得意と致します」


 〝も〟か。……なるほど。

 父上は「情報を正確に掴み、情勢を見極めよ」とのお考えか。


「ならば頼みがある」

「若様」


 親衡殿が、優しくも厳しい表情で私を見つめた。


「あなた様のような御身分の方が、たやすく『頼む』などと仰いますな」

「しかし、そなたらは父上の家臣であろう」

「なればこそ、我らにお命じくださればよいのです」

「それはできぬ」


 私の毅然とした態度に、呆気にとられる二人。


「父上の家臣なれば、父上の領域ぞ。私は無闇に踏み荒らすような真似はせぬ」


 父上のご指示にて赴いたのならば、こちらも節度を守らねば。


「若様……」


 親衡殿の眼差しが、幼子を見るような柔らかなものへと変化した。


「承知致しました。では、先ほどのご用件を伺いましょう」


 私は浅く頷き、用向きを伝えた。それは、「此度の子細を調べて欲しい」ということだ。


 告げた瞬間、二人は戸惑いの気を見せた。

 だが、戯れ言でないことがわかると承諾し、「夜更かしはなさいますな」と優しく言い置いて退出していった。

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