第五話

 今世においても、私は行成卿に傾倒している。

 彼の方の書の話を耳にするが早いか、手元に置く方法は……と思案する日々を送っている。


 それをご存じの父上が、行成卿を祖とする世尊寺流の6代当主・藤原伊行これゆき様が宮内省に出仕なさっていると、夕餉の後に教えてくださった。


 なぜ〝後〟かといえば。


『あの場で伊行殿の話を致せば、童殿上のことなど忘失致すであろう』


 ……さすが父上。

 私のことを、よくご存知だ。


 行成卿に関することには猛進する自覚があるとはいえ、場所柄くらいはわきまえている。……つもりだ。

 ゆえに私室までは我慢したのだ。


「……ふ」


 思わずこぼれてしまう笑みを。


 弾む心のまま、灯明のほのかな灯りを頼りに、床に正絹しょうけんの端切れを置き、行成卿と伊行様の書の〝写し〟をそっと乗せる。


 原本は世尊寺流本家にあるとも、公卿の方のもとにあるとも言われているが、定かではない。

 だが、コピー機などないこの時代。〝写し〟と呼ばれる複製でも、大変貴重なものである。


 むろん、敬慕文のような幻の逸品ではなく、貴族の間で写本して行き交うような、手本集と言われるものの一つである。

 だが、私には代えがたい宝だ。


 どのような伝手つてかはわからぬが、「原本に近いものを手に入れた」と、父上がくださったのだ。

 ……心なしか苦い顔をなさっていたように見受けられたが……



 ✽✽✽



 世尊寺流を一言で表現するならば、〝風雅〟だろう。それを原点とし、代々の方が自らの筆致で新たな価値をつけられた。


 祖である行成卿の書は〝風雅にして明朗〟。

 6代・伊行様の書は〝風雅にして実直〟といったところか。


 解釈は人それぞれゆえ、見る者によって違う捉え方になるだろう。



 父上のお話では、伊行様ご自身も実直な方でいらっしゃるそうだ。

 能書家ゆえの、書に傾ける情熱は驚異的ではあるが、野心などは見当たらぬとのこと。



 ✽✽✽



 夜は急用でもない限り、近江さんに硯を用意してもらうのは気が引ける。

 ゆえに、〝写し〟の料紙に触れぬよう注意しながら、宙で手筆をなぞるのを毎夜の日課としている。


 前世で、行成卿の作品を穴があくほど見続けた成果からか。手元の〝写し〟が、行成卿の手筆に変換されて映る。

 よって、書の練習を兼ねながら、行成卿の世界に浸ることができるのだ。

 その軽やかな筆遣いは、私を魅了してやまない。


 気が済むまで繰り返すと、次は伊行様の重みのある筆致で、気持ちを新たにする。

 少し堅めの書を見ていると、背筋の伸びる思いがする。



 ✽✽✽



 「書は人なり」とは昔の方の言葉だが、この時代では特にそう思う。


 例えば婚姻を決める際、特に貴族の方々は〝評判と手筆〟が重要となる。

 

 やんごとなき姫君は、守りも堅牢だ。容姿・人柄を知るには評判から情報を得るほかない。

 そこで、男性は評判という名の噂話に耳を傾け、これはと思う方には文を送ってみるそうだ。


 まず返信がなければ脈なし。

 返信があったとしても、始めは女房さんの代筆である。ゆえに、このまま文のやり取りを続けるか否か、直感と判断力が問われるらしい。


 続けるほうを選択した場合、何度目かで、ようやく姫君より返信がある。その際、手筆・文脈から人柄を読み解かねばならない。



 この時代の理想とされるのは、「美しい手筆に、知性と教養がにじみ出るような、たおやかな女性」らしい。


 乱れた字は論外。

 小手先の技巧で書かれた字は、「取り繕わねばならぬ性質なのか」と敬遠される。


 気弱な方に内助の功は見込めず、逆に文で教養をひけらかすような方では、結婚後もでしゃばるだろうと見なされる。

 また、健康的な体型と噂される方は「たおやかでない」とされ、お相手として望まれることは稀とのことだ。


 華奢な姿ほど庇護欲と魅力を感じる風潮だが、安産とは真逆の体型であり、子孫繁栄を望むのは女性にとって酷だろう。


 この時代のお産は、母体にとっても決して安全とは言えない。お腹の中に命を宿しながら、女性は死と隣り合わせにいるのだ。



 大体、女性にそこまで要求するには、男性側にもかなり高水準な備えが必要かと思うが、いかがなものか。

 聞くところによれば、高すぎる理想を持つ者ほど、「己が見えておるか」と問いたくなるような人物が多いらしい。


 仮に、理想を現実にするとしても、「能書家であり公卿。正二位・権大納言まで昇られ、お人柄も素晴らしく、機知に富んだ会話のできる愛妻家」と名高い行成卿ほどの方でなければ、難しいのではなかろうか。



 愛妻家といえば、父上も誇るにふさわしい方だ。

 正室である母上の顔を立てつつ、側室の方々とも仲睦まじいご様子は、誠に感服する。


 各々の個性を把握し、その方に適した応対をなさる父上を尊敬している。

 私の視点では、情念を感じる男と女の関係ではなく、どの方とも、深い慈しみの上に成り立っているように見える。

 女性がいかに命懸けで出産するかということも、正しく理解なさっているようだ。



 父上が慕われるのは、身分を問わず労りの言葉をお掛けになり、態度でも示されるゆえに他ならない。


 政略婚もありながら義母上方が心穏やかにお過ごしなのは、互いを尊重し合う、信頼という名の絆で結ばれているからだろう。



 一人の相手が精一杯であろう私には、父上のような訳にはいかぬことは明白だ。



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