第三話

 目を開くと、見慣れた天井が視界に入った。周囲の調度品も、いつも通り。

 一度瞑目し、再び開ける間に、あの夢が何だったのか理解した。


(……『けいぶみ(草稿)』……)


 前世……というのだろう。夢の女性は、私だった。



 ✽✽✽



 行成卿──藤原行成卿の書に出逢ってしまった私は、とり憑かれたかのように行成卿の手筆とされる書物を片っ端から買い集めた。

 気品がありながら、どこか優しい筆致を見ているだけで、満たされる心地がしたのだ。


 仮名書は〝と言われている藤原行成〟筆というものがすべてとされる中、私は『三蹟 ~幻の真跡~』という美術館の企画展を知った。


 早速チケットを取り、逸る心を抑えてその日を待った。

 連日5000人を越える入場者数なだけあって、私が入館した日も、まさに〝群れ〟という状態だった。


 何時間も待ち続ける人々の会話を何とはなしに耳にすると、書の専門家、大学教授、書道家を志す学生などが多かった。恋人との初デートのような心境の者など、私ぐらいだったのではないだろうか。


 入館できても人数により歩みを止めることは許されず、重厚なガラスに護られた作品の数々は1秒ほど目にできるかできないか、という状況だった。


 小野道風みちかぜ公、藤原佐理すけまさ卿、行成卿の御三方は、それぞれ独自の区画に分けられ、違う趣によって展示されていた。


 和様わよう書道の大家たいかと謳われるにふさわしく、道風公の『信義のせき』、佐理卿の『躍動のせき』も素晴らしかったが、私はやはり、行成卿の『風雅のごんせき』の区画に胸を熱くした。


 白氏詩巻はくししかんや本能寺ぎれ升色紙ますしきしなど名作が並ぶ中、私が最も目をひかれたのは、あの敬慕文だった。

 雅な料紙に、歌から始まる一連の文章が見事な墨の濃淡で表現されていた。


 後から買った図録の解説には『妻への想いをしたためたてがみの下書き』とあり、その筆致は、愛妻家として名高い行成卿らしい、奥方への溢れる愛情を余すところなく表現したと言っても過言ではないものだった。


 何より、女性としてだけではなく、ひとりの人間として奥方を尊重していらしたことが感じられ、行成卿に好感を抱いたものだ。

 また、この段階でこの完成度なら、実際に贈られた文は一体どのような手筆となったのだろうと、想像するのは楽しかった。


 行成卿ご自身は、下書き段階のものを後世で『敬慕文(草稿)』などと表題をつけられ、多くの人の目に留められるとはお思いにならなかっただろう。



 ✽✽✽



 その書に一目惚れした私は、図録を買うだけでは飽き足らず、その書について調べ尽くした。その中で、期間限定でレプリカを巻子本として販売するとの情報を得た。


 即座に購入の手続きをとった自分に驚きはしたが、手元にあるという近い未来を思い描くと、仕事も励めそうな気がした。


 レプリカといえども貴重な品に変わりはなく、気の遠のきそうな値段だったが、お給料数ヶ月分のローンを組み、我が家に届く日を待ち望んでいた。


 そして迎えた当日は前述の通りで、あの後は興奮が収まらなかったこと以外、あまり覚えていない。






〔註釈〕

小野道風:平安時代前期~中期の貴族・能書家。小野たかむらの孫。

藤原佐理:平安時代中期の公卿・能書家。

藤原行成:平安時代中期の公卿・能書家。

和様:日本風。

野蹟:小野の『野』より。

佐蹟:佐理の『佐』より。

権蹟:権大納言の『権』より。

白氏詩巻:白氏(=白楽天)の詩9篇を纏めた巻物。

白楽天:唐の文学者・白居易のあざな。『白氏文集もんじゅう』が有名です。

本能寺切:本能寺に保管されていたことから。小野篁、菅原道真、紀長谷雄きのはせおが著した漢文の一節が書写されています。

切:小部分。作品の傷みなどの理由で、修復の際に元の作品を分割し、切れ切れにしたことから。

升色紙:料紙が升の形をしていることから。『清原深養父集』の和歌の一部が、散らし書きで書写されています。

敬慕文:ここのみの書作品としております。


※註釈は敬称略

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