第三話

 私の予期せぬ言に、一時は預かり先のことを忘れられたようだが、やはり気になってしまうようだ。

 きゅ……と口を結んでわずかに口角をさげる鶴千代殿の様子に、弟たちを重ねる。心和む思いのまま、静かに声をかけてみた。


「鶴千代殿」

「……はい」

「ひとつ、お聞きになりませんか」

「お話……ですか?」

「はい。もしよろしければ」

「……お願い致します」


 眉はさがったままだが、子どもらしくて良いと思う。表情を隠すような腹芸など、元服するまで必要ない。


「私の師が教えてくださった言葉があります」


 私は物語の読み聞かせのように、優しく語りかけることを心がけた。


「『己の道を失わざれば、おのずから光明来たり』」

「『道』……」

「鶴千代殿の〝今〟を、出発点だと思うのはいかがですか」

「出発点……?」

「はい。『これまで研鑽してきたことを発揮する場がない』と思えば悔しくもありましょうが、『目の前のことを精一杯やり遂げた先に、手の届くものがある』と思えば、やる気がでませんか」

「……兵衛府……でも、ですか?」

「私たちに与えられるのは、書簡運びが大半でしょう。それは、どこの部署においても変わりません」

「……でしたら、私が式部省に属するところでも良いではありませんか……」

「鶴千代殿のお気持ちはわかります。ただ、預かり先は、父君や義兄君方のご身分に相応致しますゆえ」

「……あ」


 鶴千代殿は聡い方ゆえ、私の言わんとすることを察したらしい。


 そもそも任官は、家柄を前提にして、その時の政権に都合のよい者によって構成される。

 童殿上を許された私たちも、所詮彼らの駒のひとつでしかない。

 夢見る若者には酷なことゆえ、あえて口にはしないが。



 では、次の段階に参ろう。


「鶴千代殿は、ご自身の良い所はいかなることと思われますか」

「私の……何だろう……」


 真剣に考える鶴千代殿。


「故実を学ぶこと……? それは好きなことだし…… 私の、良い所……?」


 しばらく考えたが、思いあたらなかったようだ。


「……わかりません」


 答えが見つからず、〝しょんぼりする子犬〟再来。


「良いのですよ。考えること、己を見つめることが大事なのですから」

「己を、見つめる」

「鶴千代殿とお話をさせて頂いておりますと、とても利発な方と存じます」

「……師や母上たちもそう言ってくれます。ですが、それは身内ゆえと思っておりました」

「いいえ。他人の私から見ても利発だと思うのですから、正当な評価にございましょう。さらに、優れた点をお持ちです」

「それは、何ですか?」

「きちんとした所作を身につけていらっしゃること。それから、しきたりを〝正しく〟ご存知だということです」

「……それは、当然のことでは?」


 怪訝な顔をする鶴千代殿。


「そうですね。ただ、『何のため』に下座に座るのか、『何のため』に安座の際に爪先の向きに気をつけるのか、『何のため』に礼に種類があるのか……しきたりを正しく知っていればこそ、自然とできることと存じます。師の受け売りですが」

「『何のため』……」


 鶴千代殿は、はっとしたようだ。


「『相手を敬う心のため』、ですね」

「その通りです」


 目に輝きが戻った鶴千代殿に、私はしっかりと頷いた。


「また、きちんとした所作は好印象を受けます。例えば、どなたかにお会いした際、挨拶の礼をするにしても、おざなりな礼よりも丁寧な礼のほうが、相手の心に心地よく響くはずです」

「私が、今まで学んできたことを、実践できる場がある……?」

「はい。伝統と格式を重んじるこちら大内裏ではなおさら、話す際の姿勢、歩き方、書簡の受け取り方・渡し方など、すべてに生かされましょう。もしかすると……」

「何ですかっ?」


 私の思わせぶりな言葉に、前のめりになる鶴千代殿。


「ひとつひとつ心をこめて行うことで、〝どなたか〟の目に留まるやもしれませんね」

「どなたか……とは……!?」

「……ふふ」


 期待に目を輝かせる様子が可愛らしく、私は思わず笑ってしまった。


「っ!?」


 鶴千代殿が、目を見開いた。


「……申し訳ございません。可愛らしかったので、つい」

「えっ、………あ、いえ……」


 なぜかしどろもどろになる鶴千代殿の、頬が染まっているように見えるのは気のせいだろうか。


「からかったのではありませんよ」

「わ、わかっています。鬼武者殿は、そのような方ではないと、思います」

「ありがとう存じます。先ほどの続きをお話し致します」

「お願い、致します」


 ぎこちない様子の鶴千代殿が少し気になるが、言葉を続ける。


「鶴千代殿の礼儀正しさが評判になれば、めぐりめぐって、〝重要なことを担当する〟ような方の耳に入ることも……思わぬ幸運が待っているやもしれませんね」


 自ら希望する部署を申請することはできないが、彼らに目をかけてもらう機会があれば、話は変わってくる。


「……私は、望みを捨てずとも……」

「今できることをひたむきに行えば、その先はきっと、明るい道が開けることと存じます」


 伝えたいことは言葉にした。

 さしでがましいことをした自覚はあるので謝罪を添えると。


「そのようなことは、ありません。鬼武者殿のおかげで、視界が晴れたように思います」

「お役に立てましたら、幸いに存じます」


 鶴千代殿は素直な方だ。

 不満を抱えたまま仕事を始めれば、おそらく動作の端々に投影されてしまうだろう。



 どんなに懸命になろうとも、どうにもならないこともある。

 だが、考え方ひとつで、その先の明暗は自分で選べるのだと知っておいて欲しかった。ただ、それだけのことだ。

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