第八話

 申の刻の初刻午後3時。私は北対を訪問した。


 北対の女房さんが中から上げてくれた御簾をくぐる。

 

 奥座に座っていらっしゃる義母上は、『撫子』(上から蘇芳すおう、淡蘇芳2枚、白2枚、単に白)をお召しになっていた。

 普段は淡い色が多いので、濃い色をお召しになると、華やいだ印象になる。


 嫡男の訪問のために、少しでも顔色を良く見せようとなさったのだろう。そのようなことに心をくだいて頂いたのを、申し訳なく思う。


 さらに、さりげなく脇息きょうそくにもたれていらっしゃるところを見ると、なるべく早くおいとましたほうが良さそうだ。



 側付きの古参の女房さんに温石を預け、失礼にならない程度の距離をあけて義母上の正面に腰をおろす。


「突然の訪問をお受けくださり、ありがとう存じます」

「……いいえ。……お気遣いいただき、かたじけなく存じます。……かような姿にてお目にかかりますこと、どうぞお許しくださいませ……」

「押しかけましたのはこちらゆえ、お気になさいませんよう」


 挨拶の合間を見て、古参の女房さんから義母上に温石が手渡された。


「……とても温かいこと……若様のお心に、感謝申し上げます……」


 儚げな義母上が、ふわりと微笑まれた。それだけで、差し上げて良かったと思う。


 現在、義母上は血の道を患っていらっしゃる。

 血の道とは、血のめぐりに関する自律神経に支障をきたし、めまい、耳鳴り、動悸どうき、冷えなどの症状がみられる女性特有の病気のこと。


 初産の時は発症せず、此度は6ヶ月を過ぎたあたりから症状が出始めたとのことで、薬師殿も注視している。

 本日は特に手足が冷え、めまいも断続的におこるそうだ。


 午前にきゅうの治療をお受けになったからか、いくらか改善しているように見える。だが、冷えはなかなか解消しないようで、慎ましやかに温石に手を当てていらっしゃる。


「若様」


 私の斜め後ろに控えていた近江さんが、持参した桜草に意識が向くよう、小声で呼びかけてくれた。私は浅い頷きでお礼を返す。


 義母上に向き直り、静かに声をかけた。はっとなさって、わずかに頬を赤らめるのが可愛らしい。


「……温石が温かいものですから……つい、嬉しく……」

「使って頂けるとありがたく存じます。用意させた甲斐がありますゆえ」



 ここで本題に入った。


「義母上、今日は庭の桜草をお届けに上がりました」


 その言葉を合図に近江さんが膝立ちになり、両袖の上に捧げ持つようにして乗せた赤や紫の桜草の花束を、膝行で古参の女房さんに渡す。

 古参の女房さんも両袖で受け取り、義母上が良くお見えになるよう袖の角度を変える。


「……綺麗だこと……」

「庭師に、『色の美しいものを』とねだってしまいました」

「……まぁ……」


 義母上が優しくお笑いになる。

 古参の女房さんは、義母上のご様子に少し肩の力が抜けたようだ。容態が良いとは言えないので、ずっと気を張りつめているのだろう。


「……わたくしが、このようなものを頂いて、よろしいのでしょうか……」

「少しでも、義母上のお慰めになればとの、皆の総意ですから」


 私の言葉に、義母上は目を見開かれた。


「……ありがとう……存じます……」


 袖を口元に添えられ、涙ぐまれる姿に、1日も早く快復されるようにと願わずにはいられなかった。






〔註釈〕

脇息:肘掛け。

灸:モグサによるお灸。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る