第四話

 私室に戻り、一息ついてから書物庫を兼ねた学問部屋に移動する。西北対にあるので、この体では近場の遠足、といったところか。



 西対には、渡殿を通ると事前通達をしてある。

 門といっても差し支えないほど大きな扉の前、左右に警護の人が立っているので、一度止まる。


 衵扇あこめおうぎを顔の前にかざした近江さんが進み出て、小揖の礼15度の礼をしてからこう告げた。


「鬼武者様が、乾対いぬいのたいにて学問をなさるので、戸を開けてください」


 それに対する返答は、


「承知」


 先輩警護の人が答え、後輩警護の人がやや重たい扉を開ける。

 私の役目は「お役目ご苦労」と声をかけることである。


 それなりの身分で住まうには、こうした儀礼が重視される。生活の中でさまざまな作法を身につけ、「礼儀知らず」と爪弾きにされぬための策だろう。


 今よりさらに幼い頃、この少し高めの敷居を上手く跨げずに躓いたことがあった。そのせいか、いまだに跨ぎ終えるまで見守られているのが、恥ずかしいようなありがたいような、不思議な心地がする。



 西対の庇の間に歩を進めると、少しして女性たちの声が聞こえてきた。

 御簾の近くにいるらしい年若の女房さんたちの重袿かさねうちきが、簾に透けて見える。


「若様がいらしたわ」

「菖蒲重のお召し物が愛らしいわね」

「今日も良い香りをなさっているわ」


 2メートルほど離れているのだが……


(……この距離で、匂いがわかるとは……臭いのか? 私、臭いのか?)


 思わず近江さんにさりげなく目で問うと、「ご安心ください」と笑みで返された。

 安堵して、そのまま歩く。


 彼女たちの、控えめだが弾む声を聞いていると、少しだけアイドルの気分になる。本物のアイドルは、そろそろ朝餉を食している頃だろう。


 古参の女房さんが奥から窘める声も、「仕方ない」といった苦笑混じりだ。

 奥座にいらっしゃる波多野の義母上も、微笑んでいらっしゃるのだろう。


 御簾の中ほどで歩みを止め、義母上と彼女たちに一礼する。彼女たちの語らいを妨げてしてしまったことへの、お詫びをこめて。


「「「はうっ……!」」」


 ……今日も、御簾に一番近い女房さん3名が気を失った。

 どうやら若手が交代で御簾の傍に座っているようだが、必ず失神してしまう。



 心配になる上、怖くもあるので、波多野の義母上に相談を致したことがある。


 妖術など使っておりませんからと弁明する私に、義母上は朗らかにお笑いになり。


『若様のお姿を拝見するのを心待ちにするあまり、感情が高ぶるのでしょう。彼女たちは天にも昇る心地がすると申しておりますから、ご安心ください。お心遣い、感謝申し上げます』


 ……それはすでに昇天しかけているのでは……と思ったが、彼女たちの主である義母上がこのように仰る以上、口は挟めない。



 心の中で憂慮する分には、誰にも迷惑はかけないだろう……と考えている端から、後ろの人たち。「尊い……」と呟きながら拝むのを止めて頂きたい。私は御仏ではないので。


 いっそのこと観音様の手の形など真似てみようかと考えたが、収拾がつかなくなりそうなので実行はしないことにする。


 失神者の介抱はしなくていいのかと思うが、「放置して良し」とのお墨付き(?)を頂いているので、義母上に目礼して庇の間を後にした。






〔註釈〕

重袿:後の五ッ衣いつつぎぬ。ここでは、袿を5枚重ねることを指しております。

乾対:寝殿から見た方角にある対屋。寝殿と対屋をつなぐ渡殿は、東西南北へ向かって伸ばすものでした。西北など中間の方位へ直接渡殿を掛けるのは、方角を侵すとして忌むべきものとされました。

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