第六話

 つまらぬ風潮に憤るあまり、話が逸れてしまった。



 伊行様といえば、仁平3年1153の知足院堂供養の際、24歳にして供養願文くようがんもんを清書なさった方として有名である。


 玄斎師は伊行様の手筆をよくご存じのようで、


『彼の方の筆法は、見事ですぞ。願文などを形として成すに、ふさわしい手をお持ちの方です』


 と、絶賛していらした。


 師のお言葉を借りるならば、「清澄かつ整然とした字には、良い気が宿りやすい」らしい。



 また、伊行様の偉業として、源氏物語の注釈書を初めてお書きになった方、ということも挙げておかねばなるまい。


 もともと、本文から和歌や漢詩・しきたりなどを抜粋し、その出典や由緒を付箋などで書き留めていらしたそうだ。

 それらをまとめられた本は、〝源氏釈〟という名で世に出され、後に資料としても価値の高い一冊となった。



 父上のお話では、箏においても秀抜の技量をお持ちとのこと。

 一度でも良いので拝聴できれば……と、ほのかな望みを抱いてしまった。


 お話の際、父上が「伊行卿」でなく「伊行殿」と呼称なさる理由を伺った。

 それは、3代当主・藤原伊房これふさ卿が、一時失脚なさったことによるらしい。



 ✽✽✽



 寛治8年10945月25日。

 正二位・権中納言でいらした伊房卿は、大宰権帥だざいのごんのそちを兼任なさっていた。


 当時、北宋の北に位置するりょうとは正式な国交がなく、貿易は行えなかった。そこで、太宰権師の権限を私的に流用し、非公式に貿易をなさったのだ。

 事件は間もなく発覚し、共謀した前対馬守・藤原敦輔殿もろとも、降格・停職処分となる。


 降格は2年3ヶ月にも渡り、伊房卿はよほど衝撃を受けられたのだろう。元の地位に戻ることを許されて間もなく、病にて身罷られた──



 ✽✽✽



 日宋貿易が主流の時代。

 賢臣と称された伊房卿が公私混同してまで、遼と貿易をなさる理由があっただろうか……


(……〝遼〟……?)


 地名で引っかかりを感じた。

 〝書家〟が興味を持つ何かが、〝遼〟に──


「──あ!」


 閃いた瞬間大きな声が出てしまい、慌てて口を閉じる。

 私室とは言いながら、嫡男にあるまじき真似をしてしまった。



 ──伊房卿が心動かされたのは、モンゴル書道ではなかろうか。


 前世の記憶では、確か──2013年、ユネスコの無形文化遺産に登録された書だったはず。

 行成卿のおかげで他の書にも興味を持ち始めた頃、世界遺産を紹介する番組で偶然見たのを思い出した。


 漢字とアラビア文字を融合させたような、サンスクリット語を縦書きしたような、不思議な書体だった。

 一筆書きのように筆を滑らせる際の、墨のかすれまでも美しかったのを覚えている。


 完成形も芸術的だが、私は舞うような筆の動きを見ていたいと思った。



 ……もし、私が何らかの権限を行使できる地位にあり、手の届きそうな所に、例えば──あの欲してやまない書があったとしたら──



『人には、分相応というものがあるのです。決して、それを越えてはなりませんぞ』



 玄斎師のお言葉を反芻し、わずかに乱れた呼吸を整える。

 ……甘い誘惑の先にあるのは、どうやら極楽ではないらしい。



 いずれにせよ、職権乱用をなさったことが、伊房卿のお立場を悪くしたのは言うまでもない。

 さらに子孫にまで影響を及ぼし、次世代より公卿に昇ることを許されず、四位・五位に留まることになろうとは、お考えにならなかっただろう。


 現に当代の伊行様は、従五位下・宮内少輔くないのしょうでいらっしゃる。官位で見れば、父上と同位である。

 三位以上の高官は、公卿にのみ与えられた特権なのだ。


 ゆえに父上は、「伊行卿」ではなく「伊行殿」と呼称なさるとのことだ。私も気をつけるよう申し付けられた。

 よって、私は「伊行様」とお呼びすることにした。

 


 殿上童の身では、宮内省の方にお目にかかる機会はないだろう。

 だが、行成卿に繋がる方と同時期に昇殿できると思うだけで、夢のような心地がする。






〔註釈〕

供養願文:造塔堂、造仏、写経などの際、神仏に祈願する文書。

遼:現在の内モンゴル自治区の東南部。


藤原伊行の年齢について:生年未詳とされています。よって、12歳で元服を前提とし、官歴と没年から推測した年齢としております。


※註釈は敬称略


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