第四話
「……よし……っ!」
腿の上で握った手に力を込め、気合いを入れる鶴千代殿。強い決意が目に現れ、生き生きとした〝気〟に満ちている。
私は己が10歳であることを忘れ、親のような心持ちで見守っていた。
それから間もなく、頃合いを見計らったかのように兵衛府の方がいらした。鶴千代殿が名を呼ばれる。
「鬼武者殿、このご恩は忘れません」
「瑣末なことゆえ、お気になさいませんよう。鶴千代殿のご活躍を、ご祈念申し上げます」
互いに礼をする。
鶴千代殿は立ち上がり、使者の方と退出していった。
鶴千代殿の姿が見えなくなるまでその場で見送ると、私は瞑想を始める──ことはできなかった。
主殿寮の方がいらしたのだ。
私は他の方々に礼をし、控えの間を辞した。
✽✽✽
お迎えに来てくださったのは、
主殿寮長官を兼任なさっている正五位下・左
4名のみの史生が一人抜けたら、業務が滞るのでは……と心配になったが、どうやら広房殿が直属の上司となられるらしい。
「主殿寮までは距離がありますから、その間に説明したほうが合理的でしょう」
「お手数をおかけしますが、よろしくお願い申し上げます」
「こちらこそ」
理知的な顔立ちの18歳は、年齢よりも大人に見える。
算術を得意とする家系の方で、官位はまだないものの、管理業務の主力を担っていらっしゃる。
ご先祖の
以来、太政官の記録・文書の伝領保存という、重要な任に就いていらっしゃるとのこと。
「主殿寮は茶園の西にあります。
大内裏は東西に
謁見の間、控えの間がある内裏は中心からやや東に、主殿寮は北東のほぼ隅に位置する。その間、距離にして
私の足に合わせて頂いているので、
こちらでは、よほどのことがなければ
「業務内容はどの程度ご存知ですか?」
「主に、内裏の施設管理と消耗品の管理・供給と伺っております」
「簡潔で良いですね。では、少し詳しく説明しましょう」
広房殿は少し間を置かれた。
「我々の職務は、
土を踏むわずかな音の上に、清廉なお声が重なる。
「内裏では、
書物を読み上げるように滑らかなご講義は、美しい調べのようにも聞こえる。
「後宮は男子禁制の場ですから
最後まで、一流アナウンサーのごとく無駄も淀みもなかった。
たくさんの情報が一度に入って来たにも関わらず、しっかり記憶できたのは、広房殿の巧みなご説明と、この体の性能が良い相乗効果を生んだゆえだろう。
「こちらが、主殿寮です」
広房殿が足を止められ、門を手で示された。
計算したように──いや、計算なさったのだろう。
何でもないことのように行動なさる広房殿に感銘を受けた私は、無意識に
「精一杯努めますので、ご指導のほど、よろしくお願い申し上げます」
貢献とまでは行かずとも、せめてお荷物にはならぬようにせねば。
私は深々と頭をさげた。
〔註釈〕
史生:公文書の清書や書き写しなどを行う事務官。
左大史:上位の命を受けて公文書の記録・作成・内容の吟味をする太上官の職。
行幸:天皇の外出。
御輿:天皇の乗り物。
蓋:絹を張った長い柄の傘。貴人が外出の際、後ろから差しかざすものです。
供奉:行幸行列に加わるお供。
殿部:宮中の食事・灯火・清掃などの雑役に従った
伴部:古代の
御上:天皇。
今良:8世紀に解放された官奴婢が良民となった際に、新たに与えられた隸属身分。
駈使丁:諸国から集められ、中央諸官庁で野外での力仕事などの雑役に従事した男子。
女孺:雑事担当の女官。
使部:官庁の雑役に従事した下級役人。
直丁:諸国から集められ、中央諸官丁の野外労役以外の雑役に従事した者。
仕丁:諸国から集められ、中央諸官庁の雑役に従事した者。文官の雑務から、造営事業の労力源まで、幅広く配置されました。
小槻広房の年齢について:生年未詳とされています。よって、12歳で元服を前提とし、官歴と没年から推測した年齢としております。
※註釈は敬称略
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