蜘蛛の毒は侵食す ──保元元年(1156)文月

第一話

 生まれてこの方、育ってきた環境があまりにも優しかったので、私はおそらく本質では理解していなかったのだ。


 ──武士の世に生きるということを。



 ✽ ✽ ✽



 保元元年11567月10日。

 後に『保元の乱』と言われる前日のこと。


 いつも温かな雰囲気の我が家でさえ、物々しい空気に包まれていた。


 大鎧を身に纏われる父上と義平義兄上の表情は厳しい。


 この場への同席を許された子は、朝長義兄上と私のみ。「後学の為」とのことだが、戦のための「後学」など生涯いらぬと思ってしまった。

 これは、前世に引きずられているわけではなく、私の心によるものだろう。



 ✽ ✽ ✽



 少し前に、父上が事のあらましをお話しくださった。


 遡れば、永治元年114112月7日。

 鳥羽法皇陛下が崇徳天皇陛下の御退位(崇徳上皇陛下)、合わせて体仁親王殿下崇徳天皇の異母弟宮の御即位(近衛天皇陛下)をお決めになったことが、そもそもの始まりだそうだ。


 摂関家や付随する公家・武家にとっては、どなたが御即位されるかで立身出世の道が決まる。

 突如決まったご譲位に、それぞれの家がそれぞれの欲のために動いた結果、摂関家の内紛が起こった。



 「摂政・関白、太上大臣」など、前世ではテストの一夜漬けのための単なる名詞にすぎなかった。

 今や、その〝単なる名詞〟に、いつ翻弄されてもおかしくない生活をしていることが、不思議ではある。


 余談はさておき。



 時を経て、久寿2年11557月23日。

 17歳という若さで、近衛天皇陛下が崩御された。


 本来なら周囲に護られてしかるべき4歳という年齢で天皇という地位に祭り上げられ、政権という魔物に取り憑かれた大人たちの犠牲となられた末の、御病みやまいだったのだろう。


 崇徳上皇陛下は、義弟宮の在位年齢に、御自身の御即位5歳から御退位24歳までを思い起こされたようで、ただ一言「あはれ」と仰せになったらしい。


 次に皇位を継承される候補として儀礼的に上がった御名は、重仁親王殿下崇徳上皇の皇子守仁親王殿下後白河天皇の皇子暲子内親王殿下鳥羽法皇の皇女の御三方だったそうだ。


 いずれの方がお立ちになろうと、鳥羽法皇陛下が実権を握ることは明白であった。ゆえに、より〝都合のよい〟守仁親王殿下が最有力候補とされた。


 その後、政治的圧力により、守仁親王殿下がしかるべき御歳におなりになるまでの中継ぎとして、父宮であらせられる雅仁親王殿下が29歳で御即位(後白河天皇陛下)されることとなった。

 後白河政権誕生の瞬間である。



 父上が仰るには、裏で動いているのは後白河天皇陛下の側近・信西殿らしい。

 鳥羽法皇陛下に献身的な素振りを見せながらも、何やら目論んでいるようだと、父上は睨んでいらっしゃる。「油断ならぬ、信の置けぬ奴よ」と、密かにこぼしていらっしゃった。



 それから、新体制の基盤が固まる前に、鳥羽法皇陛下が御病にお倒れになった。

 保元元年11565月のことである。


 これにより、崇徳上皇陛下のお怒りが爆発なさった。

 自らの御退位と、正式に立太子の儀を経ていない後白河天皇陛下が御即位されたことを、納得していらっしゃらなかったことに起因する。


 崇徳上皇陛下・近衛天皇陛下・後白河天皇陛下と3代に渡って敷かれてきた、鳥羽院政という名の重石が外れようとしている今、行動せねばと思し召したのだとか。


 身の内に猛る思いを、これまで無理やり抑えてこられた分、その反動は凄まじいものだった。



 目まぐるしく動く情勢の中、朝廷が崇徳方と後白河方に分裂した。

 この公家の内部抗争に、双方が武家の力を取りこんだため、この度の大規模な武力衝突となった──


 これが、大方の筋である。

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