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東京都豊島区の住宅街の一角は建設中の戸建て住宅と昔ながらの古風な民家が混在している。
カラフルな洗濯物が並ぶベランダ、どこからか聞こえる掃除機の音に赤ん坊の泣き声、散歩に出かける老人。午前9時半に近いこの時間帯は家族を仕事や学校に送り出した者達の束の間の憩いの時間だ。
住宅街の外れに建つ鉄筋コンクリート二階建てのアパートを早河は無言で見つめていた。ここで5年前に何が起きたか想像するだけで恐ろしい。
『見た目穏やかそうな奴ほどキレると何するかわからないですよね』
矢野がアパートの外階段に腰掛けて煙草をふかしている。早河は矢野を横目に見て、肩をすくめた。
今から20分前のことだ。早河と矢野はこのアパートの二階に6年前から住んでいる石田と言う男を訪ねた。石田は現在25歳の大学院生だ。
寝癖のついた髪を掻き上げて無精髭を生やした石田は早河と矢野を出迎えた。
『昨日、俺にしてくれた話をもう一度この人にしてくれない?』
矢野が石田に封筒を渡して目配せする。彼は封筒に入る札束を数えると、あくびをひとつして二人を部屋に招き入れた。
『狭苦しい所ですが適当に座ってください。お茶くらいなら出しますから』
石田は一口しかないコンロにヤカンをかけている。六畳間のカーペットの上に早河と矢野は座った。
『5年前の夏は先輩の研究の手伝いやバイトでめちゃくちゃ忙しくて、あの夏のことはよく覚えているんです』
石田は急須に茶葉を入れ、簡素な食器棚から湯呑みを二つ出した。狭いアパートでは六畳間にいながらもキッチンにいる石田の声は充分聞こえる。
『隣の部屋だった佐伯さんとはたまに挨拶する程度でしたけど、穏やかで感じのいい人でした。……だからあの時は驚きましたね』
ヤカンが沸騰の合図の音を鳴らし、彼は火を止めて二つの湯呑みにお湯を注ぐ。湯呑みに注いだお湯を今度は急須に流した。
石田は急須と湯呑みを載せたトレーを六畳間のローテーブルに運ぶ。急須を軽く廻して、彼は二つの湯呑みに交互にお茶を注ぎ入れた。
『佐伯さんの部屋から怒鳴り声と女の泣き声が聞こえたんです。……粗茶ですが、どうぞ』
早河と矢野の前に湯呑みを置き、彼はベッドに腰掛けた。
早河は出された日本茶をすする。お世辞にも片付いているとは言えない部屋に住む寝癖と無精髭にまみれた大学院生が淹れた日本茶は、想像以上に美味しかった。
『それは5年前のいつ頃の話? 正確な日付はわかる?』
早河に尋ねられて石田は目を細めて少し考えながら口を開く。
『正確な日付はちょっと……。でもまだ大学が夏休みになる前だったので、7月の半ばだったと思います。俺が隣の佐伯さんの部屋から怒鳴り声を聞いたのは夕方でした。あの温厚な人が女を怒鳴りつけるなんて珍しいとは思いましたが、彼女との痴話喧嘩かなって。
石田の話はそれなりに理路整然とまとまっている。理系の大学院生の立場的なものもあるだろう。
『怒鳴り声を聞いた次の日の夜中、バイトから帰って来た時に佐伯さんが部屋から出てくるのが見えて。このアパートは二階は二つしか部屋がないし、その時の住人は俺と佐伯さんだけなので部屋から出てきたのは佐伯さんで間違いないと思います』
『で、その時に佐伯が毛布にくるんだ何かを抱えてたってことだよね?』
矢野が合いの手を入れた。日本茶と一緒に出された和菓子を矢野は頬張っている。包装紙に記載された和菓子の製造元は静岡県だ。
『はい。夏なのに毛布って言うのが引っ掛かって……クリーニングやコインランドリーに洗濯に行くにも普通は夜中に行かないですよね。それにその毛布が何て言うか、微妙に人の形に見えてゾッとしたんです。佐伯さんは毛布を車に乗せて、そのままどこかに行ってしまって……。そのすぐ後に佐伯さんが引っ越したのでやっぱりあの時に何かあったのかなってずっと気になってはいました』
石田の話はこれで終わりだ。早河と矢野は彼に
『お茶、ご馳走さま。旨かったよ』
『地元が静岡で……お茶は良いものを飲めと親が毎月お茶っ葉をまんじゅうと一緒に送ってくるんです。こんなにいらないっていつも言ってるんですけどね。良かったらおひとつどうぞ』
石田から静岡県産の茶葉の袋を早河と矢野はそれぞれ受け取る。育ちの良さそうな大学院生は苦笑いしつつも嬉しそうだった。
――そして早河と矢野は石田の部屋を出たものの、行き場のない感情を彷徨わせてこのアパートから離れられずにいた。
高山美晴は5年前の2003年7月16日水曜日、久しぶりに再会した友人の家に行くと夫に言い残して消息がわからなくなった。その友人が誰なのかを夫の高山政行は聞かされていない。
佐伯洋介は5年前に聖蘭学園に着任した。
聖蘭学園出身者のなぎさに聞いた学校のスケジュールでは7月16日はまだ夏休みに入る前。しかし通常授業はほぼ半日で終了し、教師達も午後の早い時間帯に仕事を終えて帰宅する場合もあるようだ。
夕方に佐伯が自宅に戻っていても不思議ではない。
『毛布の中身がもし人間だったら、その人間ってのは佐伯が怒鳴りつけていた女って考えるのが妥当ですよね』
煙草を吸う矢野の足元に二匹の野良猫がすり寄ってきた。早河は固い表情で首肯する。
『予想していた最悪のシナリオになりそうだ』
山梨から引き連れてきた憂鬱がはっきりと形を帯びて見えてきた。
美晴の母、岡本優子が話していた。佐伯洋介は幼少期から美晴に恋をしていた。
美晴が佐伯の気持ちに気付いていたかは定かではないが、美晴の母の優子は佐伯の気持ちに気付いた。それは親の世代から見ればわかりやすい好意だったと言える。
だがそれは叶わぬ恋に終わる。美晴は兄の佐伯琢磨と結ばれ、二人の間には娘が出来た。
兄が死んでも佐伯の想いは報われず、美晴は高山政行と結婚した。
優子いわく、引っ込み思案で奥手な性格だった佐伯洋介の恋心が美晴に届くことはなかった。
もしも東京に移り住んだ美晴と東京で教師になった佐伯がどこかで再会していたとしたら、もしも美晴がこのアパートを訪れていたら、どうなる?
『もう一度、佐伯に話を聞くしかない』
『ですね。お前達は悪い人に捕まるんじゃないぞー』
二匹の猫に一声かけ、矢野は早河の車に乗り込んだ。矢野の後ろ姿を恋しそうに見つめる二匹の猫が、ニャーオ、と甲高い声で鳴いた。
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