2‐3

 早河の車がなぎさのマンションの手前で停車した。ここを訪れるのはゴールデンウィークになぎさの引っ越しを手伝った時以来だ。


 四階建てマンションの三階がなぎさの部屋。鍵を開けて入るとワンルームの室内に置かれた赤いソファーが真っ先に目に入る。

ソファーでは有紗が寝そべって漫画を読んでいた。テーブルにはなぎさの物と思われるマグカップと食べかけのクッキーの箱が放置されている。


この家出娘は人の家でも遠慮の欠片もなく、大人達の苦労も知らずにすっかり安息の地でくつろいでいた。早河は心の中で溜息をついた。


「お帰りなさーい。早河さんも一緒でどうしたの?」


 呑気にクッキーを頬張るこの少女が殺人事件に関係しているとは考えられないが、金平糖の件は気掛かりだ。


『今から警察が事務所に来るから有紗も一緒に来てくれ。警察が有紗に話を聞きたいそうだ』

「ケーサツが私に何の用? 家出は犯罪じゃないでしょ?」


有紗は明らかに嫌な顔をして両脚をバタつかせた。高校生にとっては警察とは嫌な大人の象徴と言える。


『家出のことじゃない。聖蘭学園の生徒の殺人事件についてだ』

「事件の……? なんで私が?」

『詳しくは話せない。ただ、その事件には金平糖が関わっているようだ。金平糖、持ち歩いているだろ?』


有紗はハッとしてテーブルの上でお菓子に紛れて置かれている猫柄の巾着袋に視線を落とす。ピンクの布地に黒猫柄の巾着袋は高校生の有紗が持つには幼い印象を与えた。


「私は何もやってない。事件のことも知らないよ! MARIAにだって入ってないもん!」

『落ち着け。有紗がMARIAと関わりがないことは警察もわかってる。有紗も自分が関係ないと証明するためにも、警察に聞かれたことは素直に答えるんだ。いいな?』


立ち上がり声を荒くする有紗を制して、早河は彼女をソファーに座らせる。


「……うん。私……逮捕されたりしないよね?」

『警察に捕まることはしてないだろ?』

「家出が犯罪じゃないならだけど」

『度が過ぎると犯罪になるかもなぁ。ここにいる分には大丈夫だ。堂々としていろ。警察ってのはな、ビクビクしてる人間ほど目をつけて追い詰めていくものだ。堂々としていれば心配ない。俺は先に事務所に戻るから、金平糖、忘れずに持ってこいよ』


 早河はなぎさの家を出て事務所に戻った。支度をした有紗を連れてなぎさは早河探偵事務所までの道を歩く。

4時半を過ぎた空は暗く寒い。冬至が近く、最も夜が長い時期だ。


「なぎささんはどうして早河さんの助手やってるの? 他にも雑誌のライターさんの仕事もしてるんでしょ? 探偵事務所で働いてるって訳あり?」

「訳ありと言えば訳ありかな。私の兄はね、警視庁で刑事をしていたの。今から有紗ちゃんが会う刑事さんは兄の上司だった人。早河所長も去年まで刑事をしていて、兄の後輩だったの」


新宿通りのオレンジ色の街灯の下を二人は歩く。有紗はコートのポケットに両手を入れながら、なぎさは通りを行く車の群れを目で追っていた。


「早河さん刑事だったんだ! 今は探偵だよね? 刑事辞めちゃったの?」

「そう。去年の夏に事件が起きて……。法務大臣が拉致された事件なんだけど、覚えてる?」

「ニュース見ないからわかんない。去年そんなことあったんだね」


 去年8月に当時の法務大臣が拉致、殺害された。同時期に発生した警視総監射殺事件と警視総監の孫の誘拐事件の余波で、しばらくはマスコミの過熱報道が続いた。テレビをつければニュースはその話題で持ちきりだった。

しかし高校1年生だった有紗には興味のない話題だろう。なぎさは「そうだよね」と笑って先を進む。


「法務大臣の拉致事件にはある男が関わっていた。早河所長が犯人に会いに行った時、犯人に撃たれそうになったのを兄が庇って……兄は殉職したの」

「お兄さん死んじゃったの?」


殉職の意味はさすがに有紗もわかる。なぎさは哀しげに微笑んで頷いた。


 見上げた空には月が出ていた。磨り硝子のような雲がかかっていて月の輪郭がぼやけてみえる。


「兄を殺した犯人は犯罪組織のトップの男で、所長はその男を追い続けるために警察を辞めて探偵になった。私も一緒に男を追いたくて無理やり助手として雇ってもらったんだ」

「そっか。色々あるんだね。ごめんなさい。辛いこと思い出させちゃって……」


 家出をして大人を振り回し非行少女の振る舞いをしていても、有紗には人の気持ちを思いやる優しさがある。どんなに擦れたフリをしても、この少女は“ありがとう”と“ごめんなさい”が言える。

まだ彼女は引き返せる。


「気にしないで。確かに不思議だよね。私も探偵の助手とライターの二足のわらじ生活がたまに不思議になる時があるよ。4月からやって来てるけど、やっと慣れてきたかな」

「だけど辛くないの? なんて言うか、お兄さんは早河さんを庇って死んだのに、その早河さんの側にいるなんて……」


有紗はその先を言うのを躊躇った。なぎさには彼女の言いたいことはわかる。


「兄が死んだ直後は所長を恨んだりもしたよ。だけど兄の死で一番苦しんでいるのは所長なの。彼は今も自分を責めてる。辛いと言うならそんな彼を側で見ているのは辛いよ」


 早河は今も香道秋彦を死なせてしまったことで自分を責めている。なぎさや、なぎさの両親が早河を許したとしても、彼自身が自分を許さない限り早河の痛みは消えない。


「見てるのが辛いのにどうして一緒にいるの?」

「どうしてかな。私にもよくわからないのよね」


なぎさは笑っていた。有紗はやっぱり大人はよくわからないと感じる。


 辛いなら離れればいいのに、大人はそうしない。

泣きたいなら泣けばいいのに、大人は我慢する。

やりたくない事ならやらなければいいのに大人はやりたくない事もやる。

悲しいのに大人は笑う。


よくわからないけれど大人は大人で大変なんだ。子供も子供で大変ではあるけれど。

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