第三章 甘くて苦い恋の味
3‐1
12月12日(Fri)午前9時
早河探偵事務所の午前中は時間がゆったりと流れている。所長の早河仁が朝が苦手なこともあり、彼が朝から活動する日は少ない。
『あの家出娘、ちゃんと学校行ったか?』
「はい。今日は大丈夫ですよ。有紗ちゃんはもう所長を困らせることはしないと思います」
香道なぎさは事務所の窓のブラインドをすべて上げ、綺麗な青色が透けて見える窓を磨き上げた。なぎさが出勤してまず最初に取りかかる仕事が掃除だ。
『どうしてだ?』
「矢野さんが言っていたんですけど、有紗ちゃんは所長に恋をしたみたいです」
早河は読んでいた朝刊から顔を上げた。振り向いたなぎさと目が合う。彼女の顔は冗談を言っているようには見えなかった。
『本気で言ってるのか?』
「有紗ちゃんの気持ちがどの程度のものかはわかりませんけど……でも所長を男として意識し始めているようです。どんな理由でもそれで有紗ちゃんが素直になってきたのならいい傾向なんじゃないですか?」
『いい傾向って、高校生の恋愛に付き合ってやれるほど俺は暇じゃない』
「今は暇そうにしてますけどね?」
『うるせぇ』
そっぽを向いて煙草を吸う早河の、けだるげな横顔をなぎさは眺めた。
口数は少ない、仏頂面の無表情、早起きは苦手、煙草とコーヒーがあればいいと豪語する雇い主は見た目だけならその辺の男よりも人目を惹く。
(ああやって黙ってると所長って格好いいのよね。気が利くし優しいとこもあって、だけどちょっと危ない雰囲気があるところも、高校生の女の子からすると魅力的に映るのかも)
昨日の矢野が手土産に持ってきたエッグタルトも、甘いものが苦手な早河はひとつ食べただけで最後のひとつをなぎさに譲った。その最後のひとつは今はなぎさのデスクにあり、昼食のデザートにする予定だ。
今日の昼食は早起きして久しぶりに作った手作り弁当。二人分作った弁当は有紗にも持たせた。
『決まりそうだって言ってた仕事どうなった?』
「ネットでの連載ページを持てることになりました。これです。この雑誌のホームページの再来月号版に私が書いた記事を載せてもらえるんですよ!」
なぎさはデスクに置いてあった美容雑誌を手にとり、早河に見えるように掲げた。早河は雑誌を一瞥しただけでまた朝刊に視線を落とす。
『そうか。よかったな』
なぎさのライターの仕事の進捗状況を早河はいつも気にかけてくれる。
たった一言の言葉でもそこに込められている優しさを知っているから……。
(あの事……所長にはやっぱり黙っておこう)
本当は早河に言わなきゃいけないことがある。だけどやっぱり彼女はこの場所を捨てられない。早河探偵事務所はなぎさにとって、今やなくてはならない大切な居場所になっているのだ。
午前11時を回った頃、事務所の扉が突然開いて矢野一輝が転がり込んで来た。
「矢野さんっ? どうしたんですかその怪我……」
『ちょっとね。こわーい連中に囲まれて。でも危険を犯しただけのネタは仕入れて来ましたよ』
ソファーに倒れ込んだ矢野の口元には血が滲んでいる。早河に向けてピースサインを作るだけまだ気力はありそうだが、口元の傷が痛々しかった。
『何を掴んだ?』
『例のMARIAのアジトのビル。あのビルのオーナーの
『ああ。東堂は西山が愛人に産ませた子供らしいが』
『そうそう。で、あの渋谷のビルは元々は西山の持ち物だったんです。それを2年前に息子の東堂が引き継いで東堂がオーナーになった。……あ、なぎさちゃんありがとう』
なぎさから消毒液を浸したガーゼを受け取った矢野は顔をしかめながら口元の消毒をする。
『じゃあMARIAと和田組の西山が繋がってるってことか?』
『いや、西山とMARIAは直接的な関わりはないみたいです。西山があのビルを買い取った時にはすでにMARIAも地下二階も存在していた。もちろん前のオーナーの西山にも、今のオーナーの東堂にもMARIAの収益の何%かは流れています。今のMARIAを実質的に動かしているのも東堂ですしね』
『渋谷北署の酒井さんも言っていたが、東堂側はあくまでもMARIAはテナントだと言い張ってるらしいな。だが東堂がMARIAの運営に関わっていたのは間違いない』
なぎさがホワイトボードに一連の話の流れを記入しているのを早河が眺めて呟いた。矢野がホワイトボードを見て頷く。
『MARIAのメンバーも売春行為は認めたものの、東堂に売春を強要されたこともない、東堂とは恋人関係だとメンバー全員主張してるとか。あの男、女子高生を上手くたらしこんだものですよ』
『まったくだな。警察はMARIAと東堂の繋がりは掴んでいるのに肝心のMARIAのメンバーの証言が獲られないから東堂を逮捕できずにいるってわけだ』
『ま、東堂は女子高生に売春させる以上のブラック過ぎるくらいにブラックなことを裏で色々やらかしてるので、そのうちパクられると思うんですよねー。うわー。腫れてるな、これはマズイぞ』
「湿布貼りましょうか?」
ホワイトボードの記入を終えたなぎさが救急箱から湿布を取り出す。矢野がシャツをめくりあげて赤く腫れた脇腹を指差した。
『ありがとう! なぎさちゃん。優しくね、優しく、愛情たぁっぷりに……。あ、それで本題なのは東堂がどうとかじゃなくて、東堂の親父の西山の方で』
『もったいぶらずに早く言え』
なぎさに湿布を貼ってもらっている矢野を早河は睨み付けている。早河は機嫌が悪そうだ。
『和田組の西山は組長を退いて今は相談役のような立場にいますが、まだまだ組への影響力は強い。その西山と貴嶋佑聖が繋がっていたんですよ』
犯罪組織カオスのキング、貴嶋佑聖の名前が出て早河もなぎさも顔色を変えた。
しばらく誰も一言も話さない。
矢野はなぎさに渡された鎮痛剤を飲み、ソファーに横になると話を続けた。
『ビルが建てられたのは5年前の2003年。西山がビルを買い取ったのが4年前。その時、西山にビルを売った相手が貴嶋なんです。あのビルの本当の持ち主は貴嶋だったんです』
『MARIAの大元は貴嶋か……』
『ビルの構造上、建物が完成してから新たに地下二階が造られたとは考えにくいですからね。地下二階はビルが建てられた当時から何らの目的で造られていた。そこにテナントとしてMARIAが入り、MARIAごと貴嶋は西山にビルを売った。大方こんな図式でしょう』
ビルの完成が5年前。有紗の母親が失踪したのも5年前。時代の一致は偶然か、それとも。
『MARIAの裏にはカオスが関与してるってことだな。一連の事件にもカオスは無関係じゃないかもしれない』
『おそらくは。たとえ貴嶋本人がMARIAと関わりがなくても元のオーナーの貴嶋はMARIAの元締めが誰かを知っているだろうし、MARIAの運営のバックにカオスがいることは明らかです』
寝たまま顔だけをデスクの早河に向けて矢野はニヤリと笑った。
『どうです? なかなかデカいネタでしょ? このネタ掴んだおかげで、カオスか和田組か知りませんけど、こわーいお兄さん達に囲まれてこの有り様。命からがら逃げて来たんですよ。少しは褒めてもらいたいですねぇ』
『ああ。最近のネタの中じゃ大物だ。よくやったよ』
早河の顔に笑顔はない。彼はリクライニングした椅子の背に身体を預けて目を閉じた。
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