4‐10

 有紗は重たい瞼を上げた。ゴーゴーと風を切るような音が聞こえ、規則的な振動が体に伝わる。


(ここ……どこ?)


次々と流れる景色が視界に飛び込んでくる。


(車の中? ああ、そっか、私……)


『おはよう』


 右隣で男の声がして有紗はビクッと肩を震わせた。


「佐伯先生……?」


 今朝、なぎさの家を出て四谷三丁目駅に向かっていた途中。駅を目前にして佐伯洋介に声をかけられた。

なぜ彼がこんな所にいるのか多少の疑問は湧いた。学校まで送るよう早河に頼まれたと佐伯は言い、早河がそう言うのならと有紗は何の迷いもなく佐伯の車に乗り込んだ。


車内で彼に渡された水筒のコップにはコーンスープが入っていた。有紗はスープを飲み、その後急に襲われた眠気に堪えられず瞼を閉じた。


そして今。どう見ても外を流れる景色は東京ではない。この景色は前にどこかで見たことがある。車窓から見えるあの店もあの道も、有紗は知っていた。


(ここ、山梨だ。お祖母ちゃんの家に行く時に通った道)


 気付いた体の違和感。胸元までかけられた薄手の毛布が身動ぎした拍子に腰までめくれ、膝の上で添えられた有紗の両手首が紐で縛られている。


「早河さんに頼まれたって、あれは嘘なの?」

『早河の名前を使えば君が車に乗ってくれると思ったんだよ』


あのコーンスープにはおそらく睡眠薬が入っていた。早河の名前を使ったのは有紗の警戒心を失くすため。こんなことをする佐伯の目的がわからない。


「先生……なんで? 学校は?」

『休んだ。もうね、俺も君も学校なんか行かなくていいんだ』


 聞き覚えのある穏やかな声が今は狂気を孕んでいる。有紗は縛られた両手首を擦り合わせた。紐を外そうと試みる有紗を彼は一瞥した。


『無理に外すのは止めた方がいい。擦りむいてしまうよ』

「だって……なんなの? 先生おかしいよ。どうしてこんなことするの?」

『決まってるだろ。有紗が逃げないようにだよ。騒がれたら厄介だから口も塞ごうかと思ったんだが有紗の可愛い声が聞けないのは勿体ない』


信号が赤になり、佐伯が助手席に手を伸ばす。彼は有紗の頬をいやらしく撫でた。


「嫌っ! 触らないでっ」


 有紗は佐伯から顔をそむけ、彼を睨む。それまで穏やかな微笑を浮かべていた佐伯の表情が変化した。彼は冷たい眼差しで有紗を見つめる。


『そういうところもお母さんそっくりだな』

「先生がお母さんの幼なじみって本当?」

『本当だよ。俺は昔から有紗のお母さん…美晴のことが好きだった。だけど美晴は最後まで俺を選ばなかった。だから……』


信号が青になる。ハンドルを握る佐伯は口元を斜めにして冷笑した。


『だから殺したんだ』


 ……コロシタ?


「殺したって……お母さんを……?」


 佐伯の言葉の意味を必死で考えようとしたが上手く思考が回らない。彼は喉を鳴らして笑っていた。

流れる涙は無意識の理解の証。


「ねぇ! 殺したって……お母さんを殺したのっ?」

『そうだ。有紗のお母さんは俺が殺した』

「なんで……」

『アイツが俺を好きにならなかったから』

「そんなの意味わかんない! 好きにならなかったからって殺していいわけない!」


有紗の糾弾も佐伯には響かない。佐伯の奇妙な微笑はやがて無表情の能面に変わる。


『有紗には俺の気持ちはわからないだろうね。俺がどれだけ美晴を好きだったかも、どれだけ兄貴と産まれてきたお前を憎んできたかも』

「何言ってるの?」

『お前は俺の姪だよ』

「……は?」

『有紗の父親は高山じゃない。お前の本当の父親は佐伯琢磨……俺の兄だ。有紗は俺の兄貴と美晴の間に出来た子供だよ』


 車が広々とした駐車場に入っていく。駐車場の緩やかなカーブを曲がり、車が停車した。


(お父さんが本当のお父さんじゃない?)


身体の震えが止まらない。溢れる涙が止まらない。


(私が佐伯先生の姪? なにそれ、わかんない。もう訳がわからない。怖い……早河さん……怖いよ……)


 佐伯は有紗のシートベルトを外し、涙を流してうつむく彼女を抱き寄せた。


『そんなに泣かないで。俺は有紗を嫌ってるんじゃない。君の存在を憎んではいるが、嫌いじゃない。むしろ俺は有紗が好きだよ。君を愛しているよ』


(この人は誰? 佐伯先生? 違う、私の知ってる佐伯先生じゃない。気持ち悪い、怖い)


『ずっとこうしたかった。美晴は俺のモノにはならなかった。だから美晴の血が流れている有紗を今度こそ俺のモノにする。美晴と兄貴の血が流れているお前を……お前の存在が憎くてたまらないのに愛しいよ。可愛い有紗。もう誰にも渡さない』


 制服のスカートの中に佐伯の手が滑り込む。有紗は声を出せずにいた。ひやりと冷たい男の手が有紗の太ももを撫で回す。


『血筋と言うものがこんなにも憎らしいとは思わなかった。有紗は美晴の娘なのに兄貴の子供。俺はお前の叔父。目元は美晴に似ているのに口元は兄貴そっくりだ。でも肌の質感は美晴だね……白くて柔らかい』


鳥肌の立つ有紗の青白い太ももを撫でていた佐伯の手がその奥に向かう。有紗は歯を食いしばり両足を固く閉じた。


『ほら、脚を開いて。ここもお母さんと似ているか確かめないと』

「やめて……」


 精一杯絞り出した声は弱々しい。スカートの奥へ侵入してくる佐伯の手を縛られた両手で押し避けたが、有紗の抵抗はあってないようなもの。

太ももの間に無理やり差し入れた佐伯の人差し指がショーツのクロッチ部分を卑猥な動きでなぞっている。

そこはまだ誰にも触られたことがなく、触れられるたびに肩が跳ねた。顔を真っ赤にして涙目になる有紗の反応を佐伯は愉しんでいる。


悪寒と吐き気で有紗の全身は震えていた。

有紗を叱責するために襲う真似をした早河でさえ、その部分には触れなかった。早河も触れないでいてくれたのに、初めて有紗のそこに触れたのは叔父を自称する佐伯だった。


『俺が有紗のの人になるからね。嬉しいだろ?』

「……早河さん……」


 怖くてたまらなかった。“初めての人は好きな人”がいい。これが早河なら良かったのに、そう思った有紗の口が自然と早河の名前を呼んでいた。

早河の名前を聞いた佐伯がまなじりを上げた。


『早河? ……ふん。お前も俺よりも他の男を選ぶのか? 俺じゃない男に処女を捧げたいと思ってるのか? そんなところまで母親と同じだな』


 有紗から手を離した佐伯が助手席のダッシュボードを開ける。そこに入るのは折り畳みナイフ。ピンと伸ばされた銀色の刃先が有紗に向いた。


「やめて……やだ……」

『まだ殺さないよ。大事な有紗を傷だらけにはしたくない。お楽しみはこれから。さぁ、行こう』


 佐伯が先に運転席を降りた。彼は助手席に回り有紗を連れ出して広い駐車場を横切る。

有紗の首に巻かれていたチェック柄のマフラーがほどけてふわりと地面に落ちた。


(そうだ……携帯! GPSは入ってる)


 早河から何かあった時のためにGPSを入れておくようにと言われた時は半信半疑だった。自分の身に危険が迫る、そんなことありえないと思っていた。

自分だけは安全……そんなことはないのだ。


(早河さんが絶対に助けに来てくれる。だからそれまで頑張らなくちゃ)


携帯電話はコートのポケットに入っている。自分に陶酔している佐伯は有紗の携帯電話を取り上げることも失念しているようだ。


 早河は探偵だ。強くて、優しい、大好きなあの人ならきっと、いや、絶対に……。

噛み締めた唇は寒さと恐怖ですっかり冷たく乾いていた。


『ここはね、美晴が中学生の時にバレエで初めて主役を踊った場所なんだ。あの時の演目がくるみ割り人形だった……』


 駐車場を歩きながら目の前にそびえ立つ建物を佐伯は見上げ、法悦の表情で呟いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る