4‐11

 佐伯を追う早河の車は中央自動車道を甲府昭和インターチェンジで降りて山梨の市街地を走る。矢野のパソコンに表示された地図の赤い点滅が動きを止めた。


『有紗ちゃんのGPSが止まりました。場所は甲府市民文化ホールの駐車場』

『文化ホール……なんでそんな所に』


矢野が車のナビを操作して甲府市の市民文化ホールの場所を入力する。早河がナビを横目に見た。


『文化ホールは今日は施設点検で休館日になってますね』

『そうか。たぶんそこは有紗の母親の美晴が舞台に立った場所だ』


 美晴の母の優子に見せてもらった美晴の写真には舞台写真も何枚かあった。


『なるほど。バレエの……。ってことは、佐伯は美晴との思い出の地で有紗ちゃんと心中するつもりですね』

『有紗を死なせてたまるかよ』


GPSの赤い点滅が動いた。赤い点滅は今は四角い建物の中にあり、有紗がホール内部にいることを示していた。


        *


 薄紅色の絨毯が敷き詰められた甲府市民文化ホールには人の気配がなかった。階段を上がり二階へ進む。


「……どこに行くの?」

『お母さんが舞台に立ったあの場所に行くんだよ』


 佐伯が黒色の重厚な扉を押し開ける。明るい照明の灯る舞台の前にずらりと並ぶ客席。二階席からの劇場の眺めは壮観だ。


『ここで美晴は金平糖の踊りを舞ったんだ。主役として美晴はとても綺麗に輝いていた』


座席と座席の間の通路を佐伯は有紗の肩を抱いて歩いて行く。両手を縛られたままの有紗は段差につまずきそうになりながら必死に歩を進めた。


『そう、あの時だ。金平糖の精を踊る美晴に兄貴が金平糖を御守りだって言って贈った。兄貴は気障きざな人間だった。よくそうやって美晴にサプライズでプレゼントを贈って……俺はそれをいつも憎らしく見ていた』


 佐伯がコートのポケットから取り出したものは透明な小袋。袋の中にある赤、黄色、オレンジ、ピンク、色とりどりの星屑がシャラシャラと音を奏でている。


(金平糖が御守り? そっか。お母さんが言っていたのはそういうことだったんだ。私の本当のお父さんがお母さんに金平糖を贈ったから……)


『金平糖の精の美晴に祝福の舞いを踊ってもらいながら、俺達は今日ここで永遠に結ばれる。君が俺のクララだよ』


 二階席と一階席の間の通路まで有紗を連れて来た佐伯は有紗の髪をゆっくり上から下に撫で、その手が有紗の胸元に降りた。佐伯の手は彼女の胸の膨らみを淫らに掴んでいる。

佐伯の手元にあるナイフがライトの光を反射して光っていた。


『俺の子供を産んでくれ。美晴は俺の子を産んでくれなかった。だから美晴の一部を持っている有紗が俺の子供を産めばいい。これは兄貴への最大の復讐なんだ。自分の娘が俺の子をはらむ瞬間をあの世で見てるがいい』


佐伯は左手にナイフを持ち、有紗の胸元にあった右手をスカートの中に忍ばせた。硬直した有紗がゴクリと唾を飲み込む。足が震えて立っていられない。


『さっきのをしよう。有紗の処女を俺に捧げてくれ。お前と結ばれて俺はやっと美晴への愛を成就できる』


 殺される恐怖と向けられた執着と狂気。母親を殺された怒り、絶望、悲しみ……様々な感情が有紗の中で混ざり合い、爆発した。


「いい加減にしてよ! 先生が好きなのはお母さんでしょっ? 私はお母さんじゃない、高山有紗なの。お母さんの代わりにしないで!」


 有紗の叫び声がホールに響いた。彼女は縛られた両手で佐伯を思い切り突き飛ばす。バランスを崩した佐伯の手からナイフが落ちた。


『待て! 有紗!』


一階席の扉に向けて逃げる有紗をナイフを拾った佐伯が追いかける。座席の間の段差につまずいて倒れた有紗の身体に佐伯が馬乗りになった。佐伯の目は血走り、ナイフの刃先を有紗に向ける。


有紗は抵抗の末に佐伯が握り締めていた金平糖の袋を払い落とした。袋が裂けて星屑のような金平糖が頭上からパラパラと降ってくる。


「やだ! やめて……!」

『大人しくしていれば痛いことはしない。大丈夫だよぉ、優しくするからね……有紗みはる


 耳元で気持ち悪く囁かれた名前は有紗の名前ではない。今の佐伯は有紗と美晴を混同している。


ジタバタと足を動かしても佐伯が体重をかけてきて抵抗できなくなる。有紗を組み敷いた佐伯は唾液を含んだ舌を動かして有紗の耳たぶや首筋、顔を舐め回した。

佐伯の生暖かい息が顔にかかり、頬や鼻を舐められた時に付着した佐伯の唾液の臭いにせそうになる。


 頭上に挙げさせられた有紗の両手に小さく固い物が触れた。床に散らばった金平糖だ。有紗は不自由な両手で無我夢中で金平糖を掴む。

金平糖は御守り……これがあれば絶対大丈夫。


(お母さん……お父さん……)


「……早河さん!」


ありったけの声を振り絞って早河の名前を叫ぶ。刹那、ホールの扉が開かれた。


『有紗っ……!』


 早河の声が聞こえた気がして有紗は固く閉じていた目を開けた。視界の片隅に早河の姿が映る。

有紗は両手で鷲掴みにした金平糖を佐伯の顔めがけて投げつけた。金平糖の雨粒が佐伯の顔に打ち付ける。


『佐伯! 有紗を離せ!』


 金平糖が顔に当たって佐伯が怯んだ隙に、有紗に馬乗りになる佐伯の腰に早河が掴みかかる。彼を有紗から引き離した早河はナイフの刃先を避けて佐伯を蹴り飛ばした。

ナイフが落ち、佐伯の身体が一階席の座席と座席の間の階段を転がり落ちた。


矢野が有紗を抱き起こした。両手を拘束する紐を矢野にほどいてもらった有紗は早河と佐伯の格闘を茫然と見ている。

早河に顔を殴られて佐伯の鼻や口からは血が垂れていた。


『まだ……終わりじゃない』


 息を切らして上体を起こした佐伯はレンズが割れた眼鏡を外して床に放り投げる。

コートの袖で鼻と口から出た血を拭い、その手をコートの左ポケットに入れた。コートから出した左手に握られたオートマチック拳銃の照準が早河に合わさる。

有紗が短い悲鳴をあげた。


『お前……銃まで持っていたのか』

『元刑事さんはこれがモデルガンだと思うか? 本物だよ。形勢逆転だな』


早河を元刑事と知っての煽り。なぜ佐伯が早河の経歴を知るのか、今はそんなこと考えている暇はない。


 薄ら笑いを浮かべる佐伯は早河に銃を向けたまま矢野に支えられて立っている有紗を一瞥する。


『有紗。この男を殺されたくなければこっちへ来なさい』

『有紗、ダメだ。来るな』


早河が叫ぶ。有紗は涙を流して首を横に振った。


「早河さんを殺さないで……」

『さぁ、こっちへ来なさい』

『有紗ちゃんダメだ』


矢野が有紗の腕を強く掴む。有紗は泣きながらイヤイヤと頭を振り続けた。


『ほら、有紗。早くしないとこの男が死ぬよ?』

『来るな!』


 響く早河の怒声。こっちへ来るなと叫ぶ早河とこっちへ来いと言う佐伯。行くなと腕を掴む矢野。

早河に向けて恐ろしい口を開けている黒色の銃。


(私が先生のところに行けば早河さんは殺されないの? お母さんが死んじゃって早河さんも死んじゃうのは嫌だよ……)


 もう大事な人を失うのは嫌だ。有紗は震える足を一歩前に出した。


「……早河さん、矢野さん。ごめんなさい」

『有紗ちゃん、止めろ!』

『バカ!』


矢野の手をふりほどいて有紗は佐伯の元まで走った。早河が走る有紗の腕を捕まえようとするが一瞬早く、有紗の身体を佐伯が捕獲する。


 佐伯は有紗を後ろから抱き抱え、彼女の頭に銃口を突きつけた。有紗がぎゅっと目をつむる。扉が開いてホールに警察がなだれ込んで来る。上野警部が手配した山梨県警の刑事達だ。


『佐伯、もう逃げられないぞ』

『逃げる気はない。美晴の血が流れた有紗を手に入れられればそれでいい』


 警察に取り囲まれても佐伯は悠長に微笑んでいる。振り乱した髪、鼻や口元は赤い血にまみれたおぞましい佐伯の姿は人ではないものに見えた。

じりじりと警察の包囲網が佐伯を追い詰めた。有紗を拘束する佐伯は座席が並ぶ一階席の通路を後退する。


『こうなったらこのまま有紗と一緒に美晴のところへ……』


 血走った目で早河達を睨み付けていた佐伯の身体が突如ガクッと揺れた。膝が崩れ、有紗を拘束していた腕の力が失われる。

彼の身体は前のめりに倒れて動かなくなった。


 その場にいた全員が何が起こったのか理解していなかった。理解するにはあまりにも突然の出来事だった。

早河はへたり込む有紗の側に駆け寄って、彼女を抱き締める。


『バカ。無茶しやがって』

「ごめんなさい」


 泣きわめく有紗を抱き締め、早河は顔を倒れている佐伯に向けた。通路に倒れる佐伯の周りには刑事が集まり、刑事時代から懇意にしている山梨県警の高橋警部が佐伯の脈を診ている。


『高橋さん、佐伯は?』

『脈はある。死んではいないようだ。……ん?』


高橋は佐伯の首の後ろを見て眉をひそめた。


『早河くん、これを見てみろ』


 高橋に呼ばれた早河は有紗を矢野に任せて動かなくなった佐伯に近寄る。座席と座席の間の通路に入り、連なる椅子の背から佐伯を見下ろした。

佐伯の首に矢のようなものが刺さっている。


『ダーツの矢? いや、注射針……ですか?』

『刑事人生長くやってきてこんなものお目にかかったのは初めてだ』


この針を撃ち込まれて佐伯は意識を失った? 一体誰がこんなことを?


(俺達以外にここに誰かがいた?)


 二階席の扉の片方がかすかに揺れていたのを早河は目撃した。


 ――佐伯が倒れたのを見届けたスコーピオンは劇場二階の扉を出た。ゴルフバックを肩にかけて足早に階段を降りた彼は文化ホールの裏口から外に出る。


 スコーピオンが持つゴルフバックの中には野生動物に麻酔を撃ち込む際に利用されるガス式の麻酔銃が入っている。圧縮空気を使って注射器を発射するガス銃であり、扱いには狩猟免許が必要になる。


彼は甲府市民文化ホールから歩いて数分の場所で待機していたワゴン車に乗り込んだ。ホールの駐車場にはパトカーや警官がいるだろうが、この辺りまでは警察も包囲していない。


『任務完了しました』

『ご苦労様』


 後部座席で貴嶋佑聖が微笑んでいた。



第四章 END

→第五章 金平糖の精 に続く

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