1‐10

 東京の街は誰がどこで何をしていても誰も気に留めずに通り過ぎていく。人の事実に構っている暇はない。東京はそういう街だ。

その無関心さが寂しく感じ、時として心地よくも感じる。


 有紗とタカヒロはキラキラと輝く表参道のイルミネーションの下で抱き合っていた。彼の手が有紗の頬に触れ、有紗は目を閉じる。


 長い長い接触だった。息継ぎをどうすればいいのかわからなくて呼吸が苦しい。でもそれはとても甘くて不思議な苦しさ。

身体は熱くほてり、心臓は大きな音を立てている。有紗にとって初めてのキスだった。


唇を離して二人は至近距離で見つめ合う。


『今夜はずっと一緒にいよう』

「ずっと?」

『そう朝までずっと一緒。有紗ちゃんも気持ち良くベッドで寝たいだろ?』


タカヒロの言葉の意味を理解した有紗は顔を赤らめて頷いた。


 タカヒロの唇が再び有紗に接触しようとするのを携帯電話の着信音が拒んだ。彼は携帯の画面を一瞥して顔をしかめる。


『ごめん、電話だ。あそこのカフェで待っててくれる?』


タカヒロが指差したカフェは通り沿いのコーヒーチェーン店。


『電話すぐに終わらせるから』

「はーい」


 有紗がカフェに向かうのを確認すると、タカヒロはいまだ鳴り続けている携帯の通話ボタンを押した。


『なんだ?』


いかにも不機嫌な声で彼は電話に出る。通話相手はドレッドヘアーのサトルだ。


{すみません。渋谷北署の刑事達がうちにガサ入れに来ていて……}

『そんなの適当にかわしておけばいいだろ。サツの手入れが入ることなんか今に始まったことじゃない』

{それがサツの目当てはクラブじゃなくて地下二階なんですよ。奴ら、MARIAの名簿を手に入れたようで。秋くらいに入ってきたコウって奴いましたよね? アイツ渋谷北署の刑事だったんですよ。うちはずっと内偵されていたんです}


タカヒロは舌打ちした。クラブを出る前に言葉を交わした銀髪の男が思い浮かぶ。


{とにかく早く戻って来てください。サツが責任者を呼べとうるさくて}

『わかった』


 彼は電話を終えた数秒間、無表情に地面を睨み付けていた。警察にまんまとしてやられた怒りは簡単には消えない。

カフェに入るとコーヒーをテイクアウトした有紗が退屈そうに席で待っていた。


『ごめんね。急用ですぐに店に戻らないといけないんだ』

「何かあったんですか?」

『ちょっとね。残念だな。今夜は有紗ちゃんとずっと一緒に居たかったのに。今日の続きはまた今度しようね』


タカヒロの指が有紗の唇をなぞる。恥ずかしがる有紗を見て彼はほくそ笑んだ。


 有紗とタカヒロがネットカフェとクラブのある道玄坂二丁目のビルに戻って来たのは午後9時頃だった。ビルの近くの道にはパトカーが数台停まっていてビル一階のコンビニの前には人だかりができている。


 有紗はタカヒロの車を降りて先に地上二階のネットカフェに入った。店員の河村を見つけて彼に駆け寄る。


「ねぇねぇ河村さん! 外にパトカーたくさん停まってたけど何かあったの?」

『下のクラブに警察が集まってるんだよ。これはいよいよ来たかってさっきも常連さんと話してたとこ』


グラスの補充をしながら河村は笑っている。有紗は首を傾げた。


「いよいよって?」

『地下二階の摘発。地下二階のあれやこれやがバレたら色々まずいことになるだろうね。このビルの従業員も地下二階に世話になってる人多いし』

「他人事みたいに言ってるけど河村さんは大丈夫なの?」

『俺は地下二階とは無縁だからねー。一緒のビルだから警察に事情を聞かれることはあるかもしれないけど、東堂孝広みたいに警察に突っつかれてやましいことは何もないからさ』


 タカヒロの名前が出て有紗は動揺する。河村は騒動には我関せずな態度で有紗に追加料金の催促をして、さっさと他の仕事に行ってしまった。

有紗は追加料金を支払って個室に入る。


(地下二階ってMARIAのこと? じゃあタカヒロさんが言ってた急用って……? ううん。そんなはずない。タカヒロさんは関係ないもん。呼び出されたのはクラブのことだよね?)


 気を落ち着かせるために巾着に入れた金平糖の包みを開け、黄色とオレンジの金平糖を二粒口に放り込む。

甘い味が口の中に広がって、不安に包まれた心もほぐれていく。


「やばっ……もうちょっとでなくなりそう。買いに行かなきゃ」


金平糖は御守り。これさえあればきっと大丈夫。

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