5‐2

 午後9時。東京都新宿区四谷のマンション。

この部屋の主、香道なぎさは紅茶を淹れたカップをリビングのテーブルに置くとベッドに近付いた。


なぎさのベッドで有紗が寝ている。枕元にはあの猫柄の巾着袋。巾着の紐を握り締める有紗の泣き腫らした目元が痛々しい。


(有紗ちゃんが無事でよかった)


 佐伯に連れ去られた有紗の行方と、有紗を追って山梨に行った早河のことが心配で昼間は仕事が手につかなかった。山梨県警での事情聴取を終えて早河と矢野が有紗を連れて帰って来たのは日が暮れてからだった。


なぎさは有紗が眠ったことを早河にメールで知らせる。有紗をここに送り届けた後、早河は警視庁に向かうと言っていた。

今頃は上野警部と事件について話し合っているのだろう。


 佐伯洋介は神経を麻痺させる麻酔針を撃ち込まれていた。詳しいことはこれから調査するらしいが、麻酔銃は野生動物捕獲目的で日本でも獣医師など一部の者にだけ使用が許可されている。

だが日本には対人用の麻酔銃はない。海を挟んだ大陸側では警察部隊での装備があり、使用されたのはそちら方面の物の可能性もあるとのことだ。


 佐伯の自宅からは白骨化した人の左手と共に、一連の聖蘭学園生徒の殺人事件で被害者が握っていた金平糖と同じ製造元と思われる金平糖が見つかった。甲府市民文化ホールの床に散らばっていた金平糖も同じ物だ。


白骨した左手の薬指には指輪が嵌められていた。指輪に刻まれたイニシャルと日付から推測するとそれは高山美晴と高山政行のマリッジリング。この左手が高山美晴のものであるとほぼ断定された。


 これらの証拠は5年前の高山美晴の殺害と聖蘭学園生徒の連続殺人事件の犯人が佐伯洋介であると示している。

警察の監視の下、山梨の病院にいる佐伯は麻酔が効いていてまだ目覚めない。彼の口から事の全貌を聞き出せるのはもう少し先になりそうだ。

有紗の母親の失踪事件と女子高生連続殺人事件は表面上は解決に向かっていると思われた。


(でもまだ終わってない)


 彼女は温かい紅茶のカップを両手で包む。今夜は一段と冷える夜だ。

けれど寒々しく感じるのは冬のせいだけではない。


“この事件の裏にはがいる”と、山梨から戻って来た早河が言っていた。

それだけで早河となぎさには通じる人物がいる。

なぎさはまだその姿を見たことがない犯罪組織カオスのキング、貴嶋佑聖。兄を殺した憎むべき男。


 売春組織MARIAのアジトだったあの道玄坂二丁目のビルを造ったのは貴嶋だった。幻の地下二階と売春組織MARIAは5年前から存在している。


佐伯洋介が聖蘭学園に着任したのは5年前の4月。彼が高山美晴を殺害したのが7月。

ビルが完成したのが8月、施工を請け負ったのはゼネコン大手の樋口コーポレーション。この企業がカオスと関係しているのかは不明だ。


ビルのテナントの記録からMARIAの歴史を遡ると、MARIAが活動を始めたのは10月頃だ。


 意図的か偶然か、すべてが5年前の2003年に集中している。


 早河からメールの返信が来た。ロシアに出張中の高山政行は成田空港に17日着の便で帰国する。それまで有紗を頼むとの内容だった。

聖蘭学園も明日は臨時の休校になるらしい。教師が連続殺人事件の容疑者になっている。とてもじゃないが教師達も授業をしている余裕はない。


 やりきれない事件の顛末。溜息をついてなぎさは赤いソファーに腰かけた。

飾り棚にある写真立てが目に留まる。写真立の写真には兄、香道秋彦となぎさが笑顔を見せて二人で写っていた。


(お兄ちゃん……)

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