1‐13

午前9時


 ネットカフェのソファーで眠るのも慣れた。 でもいくら慣れても自宅のふかふかしたベッドが恋しくなる。

有紗は唇に触れた。初めてのキスの感覚がまだ唇に残っている。昨夜あのままタカヒロと朝まで一緒にいられたら今頃は……そう思うと顔に熱が溜まった。


 タカヒロが急用で呼び出され、結果迎えた朝はいつものネットカフェの見飽きた風景。残念な気持ちと少しだけホッとした安堵感。

タカヒロとをするにはまだ心の準備ができていない。


 17歳でのファーストキス。ついにタカヒロとキスをしてしまった。

聖蘭学園に通う有紗の同級生達はみんな早熟だった。教室で饒舌に性経験を語っているクラスメートも数人いる。

避妊具を見せびらかす生徒もいた。


中学時代にキスを済ませ、それ以上を経験している彼女達にまだ未経験だと知られるのは恥ずかしい。

だからいつも有紗は彼女達に話を合わせていた。雑誌やネットで得た性交渉の知識を総動員して経験者のフリをする。自分だって男性経験くらいあると思われたかった。

有紗は誰よりもうぶで、誰よりも見栄っ張りだった。


 財布の中身を確認すると手持ちの金額は少なくなっていた。今夜も家に帰らずにネットカフェに泊まるのなら下のコンビニで下ろすしかない。


 有紗はコートを羽織って一階に降りた。冬の空は汚れのない綺麗な青色をしていて、今の有紗には目を背けたくなる眩しさだ。

何か後ろめたいことがあると人は空を見上げられない。


ATMで預金を下ろし、ついでにファッション雑誌とお菓子を買ってコンビニを出る。またビルに戻ろうとした有紗の前に黒いコートの男が現れた。


『高山有紗ちゃんだね?』

「……誰?」


 男の隣には若い女がいる。どちらも有紗には見覚えがない。


『私はこういう者です』


男が有紗に名刺を差し出した。訝しみながらも受け取った名刺には〈早河探偵事務所 所長 早河 仁〉とある。


「探偵?」

『君のお父さんから君を捜してくれと依頼されたんだ』

「へぇ。あの人、探偵に捜させたんだ」


 有紗は冷めた目をして早河の名刺をコートのポケットにしまった。彼女は二人の横を通り過ぎてビルの入り口に向かう。


『お父さんが心配してる。家に帰ろう』

「帰らないよ」

『日曜に家出してから学校にも行かずにこのネットカフェで寝泊まりしてるんだろ?』


足を止めて振り向いた有紗の表情には大人への敵意が見てとれる。子供が必死に大人に反抗している顔だ。


「私のこと調べたの?」

『それが仕事だからね。君が家に帰る、帰らないは君の自由だ。君とお父さんの間の問題も私が立ち入ることではない。警察じゃないから家出娘の補導もしない。君の居所を突き止めれば私の仕事は終わりだ』

「じゃあ仕事は終わったんだからもういいじゃん。ほうっておいてよ」

『確かに探偵としての仕事はここで終わりだ』


 早河はコートのポケットに両手を入れて有紗に近寄る。早河は有紗がこれまでに出会ったことのない異質な雰囲気を持つ大人だ。

有紗は少したじろいで早河を睨む。


『でもひとりの大人としては未成年の君をこのままここに居させるわけにはいかない』

「大人ねぇ。私、大人って大嫌いなんだけど」

『俺だって大人は嫌いだよ』

「ふーん。大人のくせに大人が嫌いなんだ? っていうかさっきまで私って言ってたのに俺って言ったよね。変なのぉ」

『探偵としての仕事は終わってるからね。有紗ちゃん、少し個人的な話をしようか』


早河は有紗を見下ろして微笑する。大人の男の余裕を感じる微笑みに有紗は気恥ずかしくなって目をそらした。


『有紗ちゃんがこのビルで利用するのはネットカフェだけ?』

「ううん。ここの一番上のカラオケとゲーセンにも行くよ」


有紗はビルの看板を指差した。看板には地下一階から地上五階までのテナント名が書いてある。


『地下一階のクラブには?』

「一応未成年だからね。クラブには行ったことないよ」

『へー。意外とその辺りはしっかりしてるんだね』

「そうよ。これでも意外としっかりしてるんですよー」


 有紗は早河に気を許し始めている。早河も有紗に合わせて笑ったが、彼は急に表情を変えた。


『じゃあしっかり者の有紗ちゃんはその下にはもちろん行ったことないよね?』

「下?」

『……MARIA』


有紗の耳元で早河がその単語を囁く。瞬時に笑っていた有紗の顔が凍りついた。その反応だけで充分だ。


『やっぱりMARIAのこと知ってるんだね。聖蘭学園の生徒が極秘で創った売春組織、それがMARIA。このビルには看板にも載っていない秘密の地下二階があるらしいね。MARIAのメンバーはそこで売春行為をしている』


 張り詰めた空気が早河と有紗の間に流れる。有紗は黙って自分の足元に視線を落とした。視界にコンビニのビニール袋がちらつく。


『君もMARIAのメンバーなの?』

「違う! 私はMARIAには入ってない!」


顔を上げた有紗は泣きそうな顔をしていた。疑われたことがよほど悔しいのか、彼女は口を真一文字に結んで早河を睨んでいる。


『……そう。でもこのままここに居れば君もMARIAのメンバーだと疑われるよ。昨日、警察がここに来たの知ってる?』


早河が言うのは昨夜の騒動のことだ。有紗は昨夜のタカヒロの様子を思い出してさらに動揺した。震える手でコンビニの袋を握り締める。強い北風が有紗の茶色く染めた髪を揺らした。


『最近、聖蘭学園の生徒が連続で殺されているだろ? 殺された三人はMARIAのメンバーだったんだ』

「……それホント?」

『本当だ。殺されたのは3年生が二人、君と同じ2年生が一人。みんなMARIAに所属して売春していた。聖蘭学園の生徒の殺人事件とMARIAは繋がっている可能性が高い。事件に巻き込まれたくなければ君はここに居ない方がいい』


 MARIAの内偵をしていた渋谷北署の酒井刑事とは刑事時代の顔馴染みだ。警察はMARIAの名簿を手に入れ、連続殺人事件とMARIAの関係性に気付いた。

近いうちにMARIAには警視庁の捜査も入る。その前に有紗をここから連れ出す必要があった。

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