3‐9

 なぎさは二葉書房文芸部の面々と居酒屋で楽しい時間を過ごしていた。手洗いに立って戻る時、編集者の金子拓哉と通路で遭遇する。


『香道さん、うちに来ないかってあの話、考えてくれた?』

「お返事が遅くなってしまって申し訳ありません」


 金子には中途採用で二葉書房に入らないかと前々から誘われていた。今なら第二新卒での採用枠もある。

新卒で入社した出版社を辞めて現在はフリーランスで働くなぎさとしては願ってもない誘いではあったのだが。


「お話はとても嬉しく思います。でも今はライターの仕事よりも優先させたい仕事があるんです。だからお断りさせてください」


なぎさは金子に頭を下げた。彼は嫌な顔も見せずなぎさの肩を軽く叩く。


『そっか。残念だな。香道さんがうちに来てくれたらいい戦力になると思ったんだけど……』

「私なんて新卒で1年働いただけですから、何のお役にも立ちませんよ」

『そんなことないよ。香道さんの書く文章、評判良いんだよ。編集長も香道さんのこと気に入ってるし。それに俺はこうして香道さんと仕事ができて嬉しいよ』

「そう言っていただけて私も嬉しいです」


金子は酔って赤くなった顔をほころばせて微笑んだ。その微笑みになぎさの心も少し軽くなる。


 団体の客が連なって通路を歩いてくる。金子となぎさは通路の隅に移動して二人並んで壁に背をつけた。


『ライターの仕事よりも優先したい仕事ってなに?』

「……実は仕事ではないんです。私のワガママみたいなもので」


なぎさは視線を下げて足元を見ている。悲しげに目を伏せるなぎさはいつもの明るい雰囲気の彼女とは違っていた。


「それをやり遂げないと前に進めない気がして、今はそのことに集中したいって……ただの自己満足の為なんです」

『あまり聞いちゃいけないことだった? 踏み込んだこと聞いてごめんね』

「いえ、謝らないでください」


視線を上げたなぎさとこちらを見下ろす金子の視線がぶつかった。


『本当は今夜は二人で食事に行きたかったんだ』

「え?」

『香道さんが同じ会社で働いてくれたらいいなって思ったのは俺が香道さんと一緒にいたいからなんだよね』

「金子さん……?」


 金子の眼差しが普段と違う。編集者とフリーランスのライターとしてではない、今の二人は男と女の会話をしていた。


『そろそろ席に戻ろう。……今の話、気にしないでね』


優しい微笑みを残して彼は先に通路を行く。なぎさは動きの速い左胸に手を当てて、深呼吸を繰り返した。


 気にしないで、はの意味でもあると、どこかで人は学んでいる。

気にしないでと言われると逆に気になってしまう。それが人間だ。


顔が熱いのをアルコールのせいにして、なぎさも金子の後を追った。

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