4-3

 買い物を終えた二人は四谷三丁目駅の階段を上がって地上に出た。出口を出た目の前の新宿通りは車が行き交っている。


「少し事務所に寄っていくから、先に帰っててね」

「はーい」


 本日の収穫の服屋のショップ袋をぶらぶらと提げて有紗が交差点の信号を渡っていく。なぎさは有紗とは逆方向に歩いて早河探偵事務所に向かった。


早河は高山美晴の実家がある山梨に行っているはずだが、もう帰って来ているだろうか。

腕時計の針は午後4時を示している。薄暗くなってきた四谷の街を歩いて、早河探偵事務所に辿り着いた。


 事務所のガレージには早河の車が停まっている。山梨から戻って来ているようだ。

事務所の鍵を開けて中に入ると、暖房の効いた室内で早河がソファーに横になっていた。


(寝ちゃってる……)


早河は何もかけずに寝入っている。なぎさは彼の身体に自分がいつも使っているブランケットをそっとかけた。


(ソファーで寝ちゃうくらい疲れてるんだ)


 有紗の前ではおくびにも出さないが、ここ数日の早河はなぎさの目から見てもひどく疲れていた。彼は夜遅くまで高山美晴の行方の手がかりを探して奔走している。


“母親に会いたい” 有紗のたったひとつの願いを叶えるために早河は寝る間を惜しんで仕事をしていた。

おまけに売春組織MARIAの裏には、あの貴嶋佑聖が関わっているとなると、彼の心労は計り知れない。


 二葉書房の金子からの社員になる誘いを断ったのは、ライターの仕事よりも探偵事務所の仕事を優先させたいからだ。ここで雇ってもらう条件として早河が出した出版の仕事を優先させる約束を破ってしまった。


きっと社員に誘われたと早河に話せば、今すぐ探偵事務所を辞めて出版社で働けと言うに決まっている。だから早河にはこの件は黙っている。


 兄を殺した犯罪組織カオスのキング、貴嶋佑聖を捕まえるために早河の助手になった。これをやり遂げなければ前に進めない。

ただの自己満足のワガママ。自分を納得させるために早河と一緒にいた。


最初はそうだった。だけど今は少し違う。

兄、香道秋彦を死なせてしまったことに早河は責任を感じている。香道秋彦と自分の父親を殺したのは高校時代の友人だった貴嶋。


 早河にはなぎさには想像もつかない重たく暗い闇がのしかかっているように感じる。時々、彼がその闇に呑まれて消えてしまいそうで、怖くなった。


たまに早河が怪我をして帰ってくるとその恐怖と不安が一気に膨らむ。なぎさの知らない裏側で早河は重たく暗い闇と戦っている。


 ――見てるのが辛いのにどうして一緒にいるの?――


有紗のあの一言が頭をよぎった。その答えは明白だ。


「ひとりにしておけないから……」


 彼をひとりにしてしまえば彼は命すら惜しまなくなりそうで。簡単に消えていなくなってしまいそうで。


(だから……私はここに居る)


 ――ひとりにしておけないから……そんな彼女の言葉が聞こえてきた。なぎさの靴音が遠ざかると早河は薄く目を開けた。


 山梨から東京に戻ってきて事務所に着くなりソファーで眠ってしまった。しかし眠っていたのはほんの数分前まで。


なぎさが事務所に入って来たことに気付いてはいたが、体が疲れていて動かなかった。ふわりとなぎさの香水の香りを感じた直後、身体に何か柔らかいものがかけられた感触があった。


(ひとりにしておけない、ね)


 コピー機の音が遠くで聞こえる。早河はソファーに寝たまま天井を見つめ、さっきのなぎさの言葉の意味を考えた。


(俺をひとりにしておけないってことか?)


有紗と矢野の言葉が浮かぶ。


 ――なぎささんのことどう思ってるの?――

 ――俺がなぎさちゃんに惚れてるかもしれないと思って焦ってましたよね?――


(どう思ってるとか焦ってるとか、そんなのわかんねぇよ)


 自分のことなのに自分ではわからない気持ちもある。 わざと自分の感情がわからないようにする機能が人間にはあるのかもしれない。


 額に手を当てて溜息をついた彼は身体を起こした。なぎさが使っている白色のブランケットが身体にかけられている。早河はブランケットを丁寧に折り畳んだ。


「起きたんですね。コピーの音うるさかったですか?」

『いや……大丈夫。これ、ありがとな』


 折り畳んだブランケットをなぎさに手渡す。今日が日曜と言うこともあり、彼女の服装はいつも出勤してくる時とは違う気がする。

早河には細かな所はよくわからないが、心なしかメイクも違う。


女はオンとオフがはっきりしている生き物だ。彼は久しぶりに見るなぎさのオフの姿を物珍しげに眺めた。


『そう言えば有紗に助手になった経緯を話したんだって?』

「ええ。どうして助手をやっているのか聞かれたので」


なぎさはコピーを終えた資料の束をファイルに入れている。彼女がこの事務所に来てからはこうした事務作業が溜まらずに片付いて助かっている。


『大丈夫だったか?』

「え?」

『助手になった経緯を話した時に……思い出したくないことまで思い出してしまったんじゃないか?』


 彼女は無意識に左手首を押さえた。セーターで隠れているそこには1年前に自傷行為をした時の傷痕が残っている。

1年前の夏。兄が死に、不倫相手との子供を妊娠して堕ろした時に精神を病んで傷付けた体の傷。


 早河がなぎさの左腕に触れる。彼はなぎさの左腕を持ち上げて、セーターの袖をまくった。白くて細い手首に残る傷痕に早河の手が添えられる。

優しく撫でられる彼の手つきがくすぐったいのに悲しくて、切なくて。


どうしてそんなに悲しい瞳で

どうしてそんなに苦しそうな顔で

どうしてそんなに優しく触れるの?


『まだ痛む?』

「1年以上経っているんですよ。もう痛みませんよ」


 なぎさは笑った。そうでもしないと立っていられない。ここで笑わないと彼女の中の何かが崩れてしまいそうだった。

早河の手はなぎさの傷を撫で続けている。


『……ごめんな』

「なんで所長が謝るんですか? 所長は何も悪くないのに。この傷は私が自分でつけて……。不倫だって、私がバカだったからで……。だから……」


 震える声で言葉を紡ぐなぎさの目からついに涙が溢れた。我慢していたのに限界だった。

早河の頬になぎさの右手が触れて、二人の視線が絡まり合う。


「お願いだから……そんな苦しそうな顔しないで……」


どうしてだとか、何故だとか、理由なんてなかった。

ただ、この人をひとりにはしておけない。

ただ、この人の側にいたい。支えたい。

それが恋愛感情なのかそうでないのか、そんなものは二の次だ。


 なぎさの涙は止まらず彼女の頬を流れていく。早河はなぎさの左腕を引き寄せ、彼女を抱き締めた。

泣いているなぎさの髪を優しくすく。


どんな感情からだとか、どうしてこんなことをしているのかとか、理由なんてわからない。

ただ、彼女の泣き顔は見たくない。

ただ、彼女には笑顔でいて欲しい。守りたい。

自分の隣で笑っていて欲しい。それだけだ。


 強く引き寄せ、強く抱き締め、互いの香りを吸い込んだ。


 彼があまりにも優しく髪を撫でてくるから余計に涙が溢れてくる。

 彼女があまりにも涙を流すから余計に離せなくなっている。


愛情? 友情? 罪悪感? 償い?

離れたくなくて離したくなくて、二人はいつまでも抱き合っていた。


 優しくて痛くて苦しくて、優しさと痛みと苦しみの抱擁。この抱擁の意味はきっと誰にもわからない。きっと二人にもわからない。


意味のないことに意味がある。

きっと、そうなんだろう。

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