第一話 3-14


    2




 ~~~♪


 商店街にあるスピーカーから、ドヴォルザークの『家路』が流れてきている。


 太陽はもう西へとすっかり傾いて、辺りの景色は黄昏たそがれ色。


 部活が終わって、俺はふゆといっしょに帰っていた。


 俺とふゆの最寄り駅は、学校から電車で三十分ほどかかる場所にある。


 通学に時間がかかるため朝寝坊ができないのが難点だけれど、駅前にはドラッグストアもコンビニもファーストフードの店もあるし、ふゆいわくアニメイトもとらのあなもあるとのことから、それなりに利便性の高い立地だったりもする。


 駅を出たところで、ふゆが言った。


「んー、私はこれからアニメイトで同人誌を探してコスプレショップで新作を見た後にお気に入りのメイド喫茶に行ってえじゃんけんをしてくるけど、よしはどうするー?」


「ん、俺はちょっと本屋に寄ってくわ。すずのやつに算数のドリルを選んできてくれって言われてて」


「そっかー。じゃあまた明日だねー」


「おー」


 ぶんぶんとちぎれそうなほど手を振るふゆと別れて、俺は駅から少し歩いたところにある本屋へと向かった。


 昨今の電子書籍の台頭で本屋が減少している中、紙の本を供給してくれる貴重な場所である。


 小学生用の参考書のコーナーに向かいながら、何となく辺りを見回す。


 本屋の雰囲気は好きなんだよな。


 独特の匂いと空気とで、何となくリラックスできるような気がする。リラックスできすぎて、時折トイレ(長期戦)に駆け込みたくなるのが問題なんだけどね。


 そんなことを考えつつ、小学生のドリルコーナー(地面を掘削するための道具にあらず)へと差しかかる。


 と、その時だった。


「……ん?」


 視線の先にあるものが目に入ってきた。


 一キロ先からでも見間違うはずがない光り輝く女神のような姿。


 あれは……


ざかさん……?)


 だよね?


 制服もはくじよう学園のものだしまず間違いない。


 だけど何で学校で別れたはずのざかさんがこんなところにいるんだろう。確か彼女が住んでいるのはこんなへきではなく、犬も歩けばプラチナの延べ棒に当たるとまで言われる有名な高級住宅街だったはずなのに。


 不思議に思いながら見てみると、ざかさんは何やら本棚の前で片手を上げてウサギみたいにぴょんぴょんと跳ねていた。


 あれは別に餅つきダンスを踊っている……わけではなくて、取りたい本があるみたいなのに届かなくて困っているみたいだ。ざかさんはスタイルがいいせいかそう見えないけれど、意外と背が小さいからな。何か探してるのかな? 片手にすでに何冊か本を抱えているみたいだ。


「……うーん……」


 少し迷ったけれど、手を貸すことにした。クラスメイトであるし同じ部活の仲間であるわけだし、見て見ぬふりっていうのは、やっぱりないかなと思ったから。


 ぴょんぴょんと跳ねるざかさんに近づいて、こう話しかけた。


「これでいいの?」


「え?」


 俺が遠慮がちに本に手を伸ばすと、ざかさんは驚いたような顔でこっちを見た。


「ええと、本、届かなかったんじゃ……?」


「え? あ、そうです。ありがとうございます……って、あっ!」


 そこでようやく俺の顔に見覚えがあることに気付いたみたいで、ざかさんは実家を離れて一人暮らしをしていた飼い主と一年ぶりに再会したいぬ(他人を見る目)みたいに目をぱちぱちとさせた。


「え、あ、あなたは……さわむらさん……?」


「あ、うん」


「え、そ、そんな、さわむらさんが、どうしてここに……?」


 さっと、手に持っていた本を背中に隠すようにしてざかさんが声を上げた。


「どうしてって、ここ、地元なんだ。だから帰りがけに寄ったら、ざかさんを見かけて」


「じ、地元……?」


「うん」


「そ、そんな……わざわざ電車で三十分もかけて学校から離れた場所にまで来たのに、何で……」


「ん?」


「あ、い、いえ、何でもないです!」


 わたわたと手を振って微笑ほほえみを浮かべる。


「? あ、それより本だったよね。ええとそこの棚の……」


「い、いえ、だいじょうぶです! 自分で取れますから!」


「いや、どう考えても物理的に背が足りてない……」


「!! そ、それ、わたしがちんまいって言って──」


「?」


「……! あ、い、いえ、私は本当に大丈夫ですから」


「……?」


 何か挙動不審だった。


 目がそこはかとなくバタフライをしているし、声もハイエナを前にした子鹿みたいにどこか震えているような気がする。


「あの、ざかさん、大丈夫?」


「え、ええ、大丈夫です。何も問題はありません。私のことはお気になさらずさわむらさんはご自分の用事を済ませてください」


「そう言われても……」


 明らかに問題しかないと思う。


 伸ばした手がくうをさまよう俺の前で、ざかさんはぴょんぴょんとダンスを再開する。ぴょんぴょんぴょこぴょこ。とはいえやっぱり身長はまったく足りていないのに、何とか手を本に届かせようとぴょこぴょこ跳ねるもんだから、すごく危なっかしい。スカートの裾はひらひらと魅惑のちようちようのようにはためいていて今にも飛び立っていってしまいそうだ。頼りない足取りは今にもバランスを崩して転びそうだし……などと心配していたまさにその次の瞬間、


「きゃっ……」


「!」


 悪い予感は的中した。


 小さく声を上げて、本当にざかさんがバランスを崩した。


 手をぱたぱたと振り回しながら、トリプルアクセルを跳ぶようにして、俺の方へと倒れかかってくる。


「危ない!」


 ドサリ!!


「い、いててててて……」


「……あうう……」


 二人もつれるようにして地面に転がる。


 その弾みで、ざかさんの手に抱えられていた本が滑り落ちる。床に落ちた本はそのまま散らばり、タイトルが目に入ってきた。


「……え?」




『はじめてのイラスト。~こうすればウーパールーパーでもえ絵が描ける~』


『三日でだつできるイラスト』


『イラストがうまくなりたければまず腎臓をみましょう』




「これって……」


 どう見ても、イラストの入門書……だった。


 入門書とは文字通り、その道の初心者が使うものである。どういうことだろう? 何でこんなものをざかさんは買おうとしていたんだ? ざかさん、イラストは得意なんじゃなかったっけか……? というかタイトルがひどいな。


 そんな考えが一瞬頭をよぎるも、だがすぐに俺の思考は違う方向へと強制的にシフトさせられることとなった。


 だってさ。


 転んだ拍子にそうなったのか、スカートがめくれ上がって、目の前にざかさんの雪のように白いふとももあらわになっていたのだから。



「!!」


 思わずフリーズする。眼前にそんなものがあればどうしたって視線が行ってしまうのは健全な十六歳男子高校生として自然の摂理なのではないだろうか? しかも、その、めくれあがったスカートの奥に見てはいけない禁断の布地までもが見えかけてしまっているという、それこそ極楽の先にヴァルハラがあったような状況であって……って、だめだだめだ! 見ちゃいけない! でもどうしても目がいってしまう。うう……


 自分の中の理性と本能とがラグナロクよろしく激しくせめぎ合っていると、ふいに思いも寄らない声が聞こえてきた。


「……っ……うう……」


「?」


「……うう……ぐすっ……」


「!!」


 な、泣いてる……!?


 え、いやまだ何も見てないよ! 見たい気持ちは死ぬほどあったけど必死にガマンしてたんだよ!


 心の中でそんな言い訳をしていると、ざかさんはさらに絞り出すように声を出した。


「……れた……」


「え?」


「……見られた……」


 や、だから見てない──


 そう言おうとした俺の言葉は、ざかさんの死にそうな声に遮られた。


「……買おうとしてた本……見られた……これを見られたってことは……わ、わたしの〝秘密〟がばれちゃった……ってこと……? ど、どうしよう……い、今から地球が滅亡してくれれば……そうでなければ、こうなったらもう、や、闇にほうむって口を塞ぐしか……そ、そうだ、Yabee!知恵袋に大型犬をこっそり庭に埋めるやり方が書いてあったからあれを応用して……」


「……」


 ……何か、さりげなく物騒なことを口走ってませんかね? 「す、水酸化ナトリウムを……」みたいな声も聞こえてくるし。


 というか、〝秘密〟って……?


 何を言っているのかさっぱり分からない。


 この本が何かまずいのかな? 中に札束でも入ってるとか……


 おまけに何だか口調まで違うような気がする。


 さっきまでの上品でおしとやかだったお嬢様口調ではなくなって、だいぶくだけた感じになっている。少しばかり舌ったらずなところがそれはそれで何だか親しみやすくていいんだけど……


 と……そこで周りの視線がこっちに集まっていることに気付いた。


「なあ、あいつ、女の子を泣かせてるのか……?」


「分かんないけど、女の子の秘密を握って脅してるみたい……」


「え、最低じゃん」


「あんな顔して、よくやるよな……」


「警察呼んだ方がよくない?」


 ……そりゃあそうですよね。


 泣いている美少女(着衣が乱れている)と、そのかたわらでそれを凝視している男子。立派な通報案件だ。俺が逆の立場でも間違いなくそう断定する。おまわりさん、こいつです──


 通報からの警官到着から逮捕、警察署での尋問までの鮮やかな流れが現実のことのように頭に浮かぶ。あ、うん、これやばいやつだ……


「……」


 逃げよう。


 とにかくこの場から少しでも早く離脱しないとまずい!


ざかさん……こっち!」


「あ……っ……」


 目を潤ませるざかさんの腕をつかんで。


 アリゲーターガー(北アメリカ原産の肉食魚)に追われるメダカみたいに、一目散に本屋から逃げ去ったのだった。

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